Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

「主は救い」30分de一巻 Vol-6

2016年09月25日 | Good News
 モーセ五書を終え「ヨシュア記」に入りました。この「ヨシュア記」はヘブル語でも同じタイトルで「イエ・ホシュア」、意味は「主は救い」。イエス様のお名前と同じ(イエスはギリシャ読み)です。タイトルは同じすが、私たちは歴史書として分類していますが、ユダヤ人はこの書を預言書としています。

ヨシュア記は、ヨシュアが指導者となってヨルダン川を渡り、エリコ攻略や先住民と戦いを経て、カナンの地に入り、12部族に相続地分配を完了して、彼が死ぬまでの約30年間の出来事が語られています。かつてモーセに率いられてエジプトを脱した第一世代は全て死に絶えました。その後、ヨシュアと次世代の民が約束の地をどうやって自分たちのものにしていったのか、が記されています。旧約では、しばしばその時の長さ故、「第一世代は全員死んだのね」「それで、次は?」と他人事のように安易に読み飛ばしがちですが、いつも聖書は「私」に語られている御言葉であることを忘れてはなりません。このヨシュア記で、イエス様が今の私たちに伝えたいメッセージは何なのか?いつでもこの思いを抱いて、御言葉を聞き入ります。

まず、なぜ約束の地に入るリーダーがモーセではなく、ヨシュアだったのでしょうか?モーセは聖書では「こんな謙遜な人はいない」と言わしめ、ユダヤ人には民族を代表する第一人者と考えられている人です。しかし、そのモーセは約束の地に入ることはできませんでした。その直接的な理由は「メリバの岩事件」。モーセは岩に命じる代わりに、岩を杖で2回叩いてしまいました。岩とは「救いの岩」の象徴であり、イエス・キリストの雛形です。つまり、モーセは神の無償の愛を表すことに失敗してしまったのです。

しかし、より深い意味があります。それこそが、モーセが約束の地に入れなかった真の理由です。聖書ではモーセは「律法の代表者」とされています。つまり、律法によっては救いは完成できないことが、この時点ではっきりと告げられているのです。律法=モーセからヨシュア=イエス様に、神の救いは引き継がれました。ヨシュアは、民を約束の地へ導いたイエス様の原型です。

内容的には大きく3つに分けられます。
1-12章: ヨルダン川わたって土地を占領する
13-21章: その土地を12部族に分け与える
22-27章: 約束の地に置ける生活

次に、ヨシュアの人となりを考えてみましょう。モーセと比べて、ヨシュアは専ら若いイメージを持たれますが、実はモーセと同じく80歳代のおじいちゃんです。彼が召命を受けたのもモーセの召命と同じ頃、80歳くらいでした。モーセは王宮生活から羊飼いに落とされ、40年間かけてコツコツと自我を削られ、神様に用いられるようになりましたが、ヨシュアはずっとモーセの下にいて、実地現場でリーダー資質を学びました。一番近くでモーセに従い、40年間見続け、リーダーであったモーセが約束の地に入れない理由も十分にわかっていたのです。ヨシュアは、自分が置かれた立場と自分の持ち場に忠実な人でした。だからこそ、モーセの後継役を任されたのです。

ヨシュアのリーダー性が最も顕著な部分があります。5章、彼が諸刃の剣を持つ天使に出会うシーン。そこでヨシュアは一切質問をすることなく、すぐ素直にひれ伏して履物をぬいで従います。履物を脱ぐということは全面降参の意味です。かつてモーセも同じことを神様から言われました。持っている拙い道具を捨て去り、裸足になって戦うことを止め、忠実に従うこと。これが彼の優れたリーダーとしての資質です。わかっていても言うは易く行うは難しで、なかなかできることではありません。(牧師然り…)

またヨシュアの信仰で着目すべき二点があります。まず最初はヨルダン川。ヨルダン川を渡ることは、神様の約束の地に入る第一関門です。イエス様も洗礼を受けた川だから、とサラサラ流れる小川を想像するのは大きな間違い。この時のこの場所のヨルダン川は、水が溢れるように流れ、渡れるとは思えないような大河でした。モーセもまた、かつて大水を前に奇跡を体験しましたが、モーセの場合は海に手を差し出すと水がさっと分かれ、乾いた地を渡ることができたのです。しかし、ヨシュアの場合はそれとは異なっていました。ヨシュアは、轟々と流れる川に一歩を踏み出すと水が分かれたのです。

この差をきちんとわかっておかなければなりません。これは、救われる時と救われた後の話だからです。救われるのは何の努力も功績も必要ありません。民が偉かったわけでなく、民が祈ることもなく、モーセは海を渡ることができました。これが神様の恵みです。しかしヨシュアの場合は違いました。

聖書は過去の話ではありません。今、私がヨルダン川の前で「渡れ」と言われたらどうするのか?、を考えなければなりません。悲しい哉、多くの普通の教会は、川岸で『リバイバル祈祷会』を始めるでしょう。それでは決して渡れません。何年経っても川岸に居続けるだけです。何の保証もありませんが、ヨシュアは一歩を踏み出して、だからこそ渡ることができたのです。これが信仰の法則です。人は確証を求め、計画を立て、備えを待って進もうとします。しかし、神様の計画はそうではありません。神様の意図を聞き、神様の計画を進んで行くこと。それがヨシュアの信仰から学ぶ第一点です。

第二点はエリコ占領です。有名なエリコの戦いですが、この戦い方は非常に奇妙なものです。毎日町の周りを一周するだけを繰り返し、七日目に七人の祭司が七周して七つの角笛を吹いた時、城壁が崩れました。「おぉ!神の奇跡!」と今でこそメッセージされますが、私がそれを命じられた兵士だったら?と考えてください。聖書は過去の物語譚ではないのです。回っている間に攻撃されるかもしれない、七週回ってどうなるのかわからない、城壁が崩れるなんて考えもできない。そんな状況下であっても、ヨシュアは実行しました。兵士にその理解不能な状態で命じ、為し遂げさせたのです。この二点が、ヨシュアがリーダーでなければならなかった理由です。彼は徹底的に従順だったのです。

さて、もう一人、知っておくと楽しい重要人物がいます。新約聖書にも3回登場する特筆すべき人物、それはラハブ。ある意味ヨシュアよりも語られる彼女は、イエス様の系図に記されている五人の女性の一人です。映像作家でもあるえんぢぇる師は、いつか彼女を主役とした映画ができてほしいと昔から言い続けており、今回も熱く彼女と二人の斥候の話で盛り上がってくれました。

信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。(ヘブル11:31)

同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。(ヤコブ2:25)

ラハブの話は2章に綿密に記され、そこからは彼女の素晴らしい器量が読み取れます。正確な情報収集力、的確な判断力、迅速な行動力と力強い交渉力。いずれも第一線のリーダー顔負けの優れた器です。二人のスパイは、超重要任務を任された一流の軍人だったはずです。その彼らに「あなた方のために命をかける」と言わせるほどの才腕は、現代であればまさしく大成功した女性起業家に違いありません。

しばしば私たちは「娼婦ラハブ」と、どこか彼女を憐れむような蔑むようなイメージを抱くことがあります。確かに彼女は娼婦でした。しかし問題は彼女ではないのです。これほどの才を持ちながらも、家族の生活を守るために身を売らなければならなかったカナンの地にこそ、問題があったのです。神なき地で、歪みに歪んだ当時の社会事情。それをイエス様がプラスに転じて用いられた!そのことがイエス様の系図の「ラハブ」の一語から感動をもたらしてくれます。更に更に、えんぢぇる師は今後のラハブ主役映画の構想をとくとくと繰り広げてくれました。

ラハブもヨシュアも御声を忠実に受け取り、困難な状況にあったにも関わらず実行しました。神様に語られたことを実現する事実として受けとめて、具体的な行動によって自分のものとしたのです。これがヘブライ人への手紙11:1でも語られている、ヘブル的な「信仰」という意味です。神様の御言葉は実現したと信じ、自らの行動をそこに従って具体化していくこと。「信仰」というと時に形のない曖昧なイメージで捉えられることがあり、間違いとは言えませんが、真の意味では体現が伴うことなのです。信じているけど行動は別、ではありません。聖書の世界はいつでも、信じるか信じないか。従うか従わないか、祝福か呪いか、光か闇か、生か死か、の選びにかかっているのです。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

最後に聖絶について確認しておきましょう。信仰によって城壁が崩れた後「ことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」皆殺しが神様の御心なの?愛である神様のなさることなの?と、しばしば理解に苦しむ箇所です。世のメディアでは、イスラム原理主義のジハード(聖戦)などと同意に扱い、宗教の独自性として同一視して、混乱させています。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という律法の黄金律と、「滅ぼし尽くせ」はなぜ一緒に存在するのか、という問いに私はどう答えることができるでしょう。非常に深い内容なので、今回はその際に考慮すべき点のみ、教えていただきました。(私たちはそれぞれここから考えて答えを出していきましょう。)

最初に、「聖絶」で使われている言葉は、ヘブル語で「ハーラム」と言い、「分ける」という意味です。何から分けるかといえば、神様の価値観と異質なものから聖別するのです。例えば、あのユダヤ人の信仰の父、アブラハムがいただいた祝福の基となる約束には一つだけ条件がありました。「あなたの国を出て、わたしが示す地に行きなさい。」です。神様が条件を付けたその理由は、「ハーラム」故です。彼を偶像礼拝が蔓延る環境から守るためでした。人間の弱さをご存知の神様は、悪環境から離れることを求められたのです。

また聖絶については、聖書の一部、申命記とヨシュア記だけを持ちだすのはまちがっていることに気付かなければなりません。聖書を読めば、
 ノアの時代に洪水によって人類を滅ぼされた、
 ソドムとゴモラの町を火と硫黄によって滅ぼされた、
 エリコの町をユダヤの民によって滅ぼされた、
 そして来る終末にはこの世の地上悪をキリストの天の軍勢によって滅ぼされる(将来形)、
これらはすべて同じことなのです。エリコの人々が滅ぼされたことが受け入れられないとしたら、終末にイエス様が地上悪を滅ぼされることも理解できないと言っているのも同じです。

クリスチャンとは、聖霊の内在があり、十字架の救いと復活、そして裁きと再臨を信じている人のことです。終末の裁きを信じられないのであれば、その人はまだクリスチャンではないのです。だから、クリスチャンはエリコのメッセージを真摯に受け止めなければなりません。エリコは過去のことではなく、これからすぐにでも起こることなのです。私の親しい友、愛する家族も同じことになるという神様のメッセージなのですから。「信仰」をもって対応しなければなりません。

そして最後のポイント。神様は裁きの前に必ず機会を与えてくださいます。決して突然のことではないのです。神様が人類に語られた最初の言葉は、「あなたはどこにいるのか?」です。罪を犯したアダムに、また弟を殺してしまったカインに、そして私たちにも語られています。全能の神様が御存知ないはずはありません。これは悔い改めの機会をくださっているのです。しかし、人はごまかしてその機会を逸してしまうのです。

天国から閉め出される人は誰もいません。「天国の門は狭い」と勘違いしている人がいますが、狭くて入れないのではなく、いろいろあるので見出すのが難しい、というのが正しい意味です。人は生きている間に「選び」を与えられます。神様は自分と関係ないことを選ぶのであれば、死後その希望通りになるだけです。神様との関係が途絶えている場所、地獄へは選んだ人が行くのです。神様は決して入国拒否をされません。

人は誰であろうが、どんな罪を犯そうが、イエス様の十字架によって免れることができるようになりました。最低最悪の聖絶が十字架です。私(あなた)が聖絶される代わりに、イエス様が代わってくださったのです。それを選ばないのであれば、自ら聖絶されて滅ぶ選択をしていることになるのです。そしてヨシュアもモーセも最後に万感の思いを込めて伝えました。「あなた方は神を選べ。」「みんな好きにしなさい、私は主に仕える。」と。これは人間が主に仕えることができないことの預言です。その通り、「アーメン、主に仕えます」と宣言した民は、この後反逆の歴史を延々と34巻繰り返してしまいます。10日余で約束の地に入れるはずが、40年間を彷徨った荒野の生活のように。

カナンの地はクリスチャンにとって天国の雛形です。同時に救われた後のこの世に置ける祝福されたクリスチャン生活の雛形でもあります。その地は与えられる神様との約束が最初にありました。祝福の所有権は恵みによって与えられるのですが、地上での生活の祝福は、個人の信仰的選択が問われます。所有している祝福の使用権は、日々の戦いによって得続ける必要があるということです。誰でも仕えたいものに仕えることができます。その選択が、いつでもイエス様に従って行くことであるよう、祈り続けましょう。

この後、反逆の歴史の始まりです。そして士師記へ。。。期待も続きます (Report by Mu)


学びの場にて(少し暗くてスミマセン..)


GNSのメインページはこちら!
コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「これらが言葉である・・」30分de一巻 Vol-5

2016年09月17日 | Good News
申命記には「繰り返し命じる」と言う意味があります。出エジプトを経験した世代は、ヨシュアとカレブを残して既に死に絶えてしまいました。長い放浪生活の後、遂に約束の地、カナンに入る約1ヶ月前、新世代に向けてモーセが繰り返し、神様の御言葉を語ったのが本書の内容です。

エジプトからカナンの道のりは僅か約2週間なのに何故、40年間もかかってしまったのか?それは、イスラエルの民の神への不従順に他なりません。だからこそ、モーセは繰り返し、繰り返しイスラエルの民に向かって神様の御言葉を語ったのです。(それが本書の現代「これらが言葉である」)

そのモーセの教えによって、ユダヤ人は今でも律法を重視しています。しかし、クリスチャンは、律法を成就したイエス・キリストを信じることによって救われています。

さて、申命記の内容大きくは4つのパートに分けることができます。

1-11章:過去の経過
12-26章:律法の本質
27-30章:将来について
31-34章:世代交代(モーセからヨシュアへ)

申命記は新約聖書での引用が多い書巻です。マタイ4章1-11節で、イエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けた時にも、申命記の御言葉によって、悪魔に打ち勝ちました。

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(8:3)と書いてある」(マタイ4:4)

イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』(6:16)と書いてある」と言われた。(マタイ4:7)

すると、イエスは言われた「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』(6:13)と書いてある」(マタイ4:10)

イエス様はここで「…と書いてある。」と、聖書の引用を強調されています。それは、御言葉の権威の明言であり、現在完了形で書かれているこの言葉は、現代にける御言葉の有効性を現しています。

2章7節に荒野での生活に対する神の憐れみが記されています。

「あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この40年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった」

何一つ不足のなかった荒野での生活とは?29章4節に、更にこういった記載があります。
「わたしは40年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった」

これこそ神様の奇跡です!私たちの生活は荒野とは異なりますが、神様が共にいてくださり、私たちに必要なものを全て与えてくださっています。そのことを認めることが、現代にも神様の御言葉の有効性が現れていること、神様の奇跡が日々行なわれていることなのです

奇跡(神様の働き)を信じないで、イエス様の教えだけを守ろうとする人々は、律法家や宗教学者と同じです。

御言葉を日々の生活に適応する大切さ。そのことについて、クリスチャンとして、イスラエルの人々を見習うべき点があります。イスラエルの人々が日々、祈り、実践している御言葉が本書の中にあります。

6章4-9節「 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

この祈りは「シェマー(聞け)」の祈りと言われています。額に黒い箱(テフリン)をつけているイスラエルの人々がいます。この箱の中には、この6章4節が書かれた小さな巻物が入っています。

ところで、第二列王記にもこの御言葉が書かれています。22章8節に書かれている主の神殿で見つかった律法の書とは「申命記」です。そして、その時の王様がユダのヨシヤ王です。ヨシヤは申命記を読み、それを元に宗教改革を実践した王様です。

「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(2列王記23章25節)

4章24節:熱情の神
神様は、人間を本気で愛しておられます。私たちは、その愛に本気で応えるために神様が嫌われる偶像崇拝をしてはなりません。たとえば、夫が妻以外に、妻が夫以外に愛する人がいたら、家庭は成り立たなくなります。それと同じように地球にいる私たちが地球を創ってくださった神様を愛さなければ、地球が滅んでいくのと同じです。

(28章)私たちは主に従うのか?従わないのか?祝福か呪いか?生か死か?いつでも、神様から二者択一を迫られているのです。

31章6節:神様はいつも私たちと共におり、見捨てることをしません。
31章11節:だから、私たちは、主の御前に集まり、御言葉を聞く必要があります。
30章14節:そして、御言葉を心と口に携え、実践しましょう。

このように神様は、イスラエルの民と同様に私たちにも神様を選ぶように働かれています。

モーセ五書のまとめ
創世記:(神の民の)始まり
出エジプト記:(神の民の)成立
レビ記:(神の民の)聖別
民数記:(神の民の)訓練
申命記:(神の民の)自立  (Repot by Mimita)



GNSのメインページはこちら!
コメント (19)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「荒野にて・・」30分de一巻 Vol-4

2016年09月11日 | Good News
民数記は、シナイ山からモアブ平原までの旅の記録。律法書の中の歴史書。原題は、本書1章1節からの言葉「荒野にて・・」本書を通して「イエス様のメッセージとは何か?」に焦点を合わせて読む!

何故、ここで人口調査(二度)が行われたのか?それは、400年間の奴隷生活で、烏合の衆と化した民衆を、荒野に導き、カナン先住民との戦いに備えるために、民を組織化し、軍隊化する必要があった。また、この調査は後に、カナンの地における領地分配の基礎資料となった。

彼らは、契約の民であって、途中で何があっても、どんな誘惑に落とされようが、あなた達はわたし(神)の保証の内にいる」と言う事を、民に自覚させるための人口調査。この記録は、天国に入るための命の書。これが今、私達に伝えられている本書の主題テーマである。

彼らの40年間にわたる荒野の旅は、私達クリスチャンの人生の象徴である。救われた私達異邦人も、キリストを受け入れられていないユダヤ人も、今は天国に入る前の段階の荒野の過程の中にいる。

ユダヤ人は40年どころか、未だに1900年以上、茨の地を放浪している。しかし、その彼らが最後に救われる。何故か!? それは、彼らが毎週、心と霊と力を込めて祈っている御言葉があるからだ。その重要な御言葉が本書の中に有る!!

神は民の必要を満たされた!この事を忘れてはいけない。私達はいつも思い出して感謝する必要がある。今でも与え続けて下さっている神に感謝!!さて、本書の内容は、以下の大きく3つに分けられる。

シナイ山にて (1章1節~10章10節)

シナイ山からカデシュバルネア (10章11節~19章)

カデシュバルネアからモアブの平原 (20章~36章)

約束の地に入れなかった旧世代(1章~25章)、 約束の地に入れた新世代(26章~36章)とも分ける事が出来るが、民の移動の行程については、カデシュバルネアと3つの山(シナイ山/十戒、ホル山/アロン死す、ネボ山/モーセ死す)の位置関係を中心に見ると分かり易い。

エジプトを脱出した時の民の数は約60万人。しかし、これは20歳以上の成人男子の数で、女性・子供・老人は含むと、おそらくその数は4倍以上、少なくとも200万人以上いたと考えられる。ところが、この人達のほぼ全員、モーセも、アロンも、ミリアムも、約束の地には入れなかった。(例外はヨシアとカレブのみ)

この“601728人対2人”の差はいったいどこにあったのか その答えは新約聖書にある。旧約はイエス・キリストの光に照らして読むことが大切だが、その具体的方法が、新約に引用されている旧約箇所を確認することである。ここが、ミソだ



いったい誰が、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったい誰に対して、神は40年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったい誰に対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことが私達に分かるのです。

このへブル3章16-19節を読めば明か。それは“信仰対不信仰”の差。ちなみにヨシアはエフライム族、カレブはユダ族。この二人が、北王国と南王国を継承する。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

クリスチャンであれば誰でも知っている、この第一コリント10章13節の御言葉は、その前の10章1〜12節に記されている荒野での出来事から引用された適応(教訓)である。

神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ルターがスモールバイブルと読んだ、おそらく聖書中最も有名な御言葉、ヨハネ3章16節は、その前の14〜15節で語られている青銅の蛇事件(21章4〜9節)の出来事から引用された御言葉である。言うまでもなく、命を回復させる青銅のヘビはイエス・キリストの予表である。

メリバの泉事件:モーセの失敗。自我にとらわれ感情的になった。神の権威の乱用(神の権威の印である杖を道具に使った)神の絶対的聖を汚してはならない!

バラム事件:本書の22〜24章(+25章&31章)の実に5章、新約にも黙示録を含め3度登場する占い師。第二ペテロでは、「バラムが歩んだ道」、ユダ書では「バラムの迷い」、そして黙示録では「バラムの教え」。彼はミディアン人、モアブ人の娘を使ってイスラエルを誘惑し、多くの民を偶像礼拝に陥らせた。この事件でユダヤ人2万4千人が殺された。

バラムの迷いとは、貪欲と二心を表す。信仰を持った後は荒野に入る。行けども行けども砂と岩ばかり..。しかも、自分達の前にはいつも敵が立ちはだかっている。信仰の霊的戦いの難しさ!

だけれども、何が起ころうとも神様の約束は変わらない!!神様はクリスチャンをこの世の霊的な戦いを、戦い抜く兵士として一人一人数えておられる。荒野で戦い抜くために、自分の名が「天の命の書」に記されている事実を認識しておこう!

実は、ユダヤ人達はこの信仰を今でも忘れずに持ち続けている。それは、彼らが毎週行っている安息日最後の祈り。それは、神に対して絶対的信頼をおいた感謝の祈りである。

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。彼らが私の名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。(6章24〜27節)

主の御名が高く崇められますように。アーメン (Repot by itou)



GNSのメインページはこちら!
コメント (19)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする