Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

「ホセア」30分de一巻 Vol.28

2017年05月28日 | Good News
ホセアはイザヤとほぼ同時代に北王国に遣わされた預言者である。彼が活動したヤロブアム二世統治下のイスラエルは、政治的・経済的にも比較的安定していた時期だったが、その繁栄の裏で貧富の差が拡大し、不正が横行、特にヤロブアム二世の死後、国内は混乱状態になり、その後20年足らずの間に6人の王が順に交代し、遂に北王国はアッシリアに滅ぼされた。

つまり、ホセアは祖国の繁栄から滅亡まで見届けた預言者で、滅び行く祖国に、自分と妻との関係を投影しながら「このままでは大変な事になる」と警告を発し続けた。神はホセアの夫婦愛の葛藤を通して、神とイスラエルとの関係がどの様なものかを示し「イスラエルがどんなに神を裏切っても、神がイスラエルを見捨てることはない!」という事を、ホセアに実態を持たせて、イスラエルに語らせたのである

新約では、キリストと教会との関係が夫婦関係に例えられているが、神とイスラエルとの関係を夫婦関係に例えているのは旧約では本書のみ。つまり、ホセアはその原型と言う事になるのだが、キリストと教会との麗しい愛の関係は、このホセアとゴメルのような、苦渋の経験を経てから、到達したものなのである。



「神に従う者は祝福され、神に背く者は呪われる」旧約の預言書は律法の原則をベースにしているのに対し、ホセアは、神と人間との関係を、律法の観点ではなく、互いに愛し愛される愛の関係としてイスラエルに語った。それが、「私が喜ぶのは愛であって生贄ではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない(6:6)」という言葉に凝縮されている。大切な事は、形式的な儀式とかではなく「愛」だと言うことが、本書の主張である。

愛を受けるに相応しくない者に、神の一方的な愛が与えられ、たとえその者が神から離れようとも、神は見捨てる事はない。
それは、神を神とも思わず勝手な事をしている人間を天国に迎えるために、キリスト自ら十字架という代償を支払ってくださったのである。しかも、この購いが神の契約の民であるユダヤ人のためだけではなく、全人類に向けられたものであることが、新約によって解き明かされる。

本来、神の子としての特権とは無関係だった私達異邦人が、キリストの十字架の購いによって「神の霊に導かれる者は皆、神の子供となった。(ローマ8:14)

ホセアの書にも、次のように述べられています。「私は自分の民でない者を私の民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」(ローマ9:25-26)

つまり、ロ・アンミ(神の民でない)、ロ・ルハマ(愛されない者)とは、神に背を向けていたイスラエルであり、異邦人である私達のことでもある。ところが、このホセア書に表された神の無償の愛によって、「ロー(N0)」が外されて、ルハマ・神の民、アンミ・愛される者、「神に愛される民」となる。混乱の北イスラエル王国で、自分の身を持って、福音の本質を、滅び行く人々に必死に伝えようとしていたのが、このホセアという預言者だったのである。


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「ダニエル」30分de一巻 Vol.27

2017年05月21日 | Good News
ダニエル書と言えば、日曜学校でも度々メッセージがされていて、日本人クリスチャンの間でも、比較的読まれている(理解しているかは別として(^_^;))預言書です。いつもだったら「この書巻はほとんど読んだことがなくて・・・」と、レポートを書き始める私でさえ、何度か読んでいる書巻です。

ダニエル書と言うと「ライオンの穴に落とされた話」や「炎の中で助けられた話」などの奇跡が有名ですが、今回はそちらの話しではなく、現在着々と近づきつつある「終わりの時」の預言について書かせて頂こうと思います。

まず、このダニエル書は数ある預言書の中でも一つ大きな山であり、新約聖書の黙示録とも密接に係っています。(でも、ユダヤ人に向けられた預言でないためか、ユダヤの教典では諸書に分類されています)この書巻には「終わりの日」、「終わりの時」という言葉が度々使われている様に、本書のテーマはズバリ!「この世の終わりには何が起こるのか?!」です。そして、ポイントとなるのは「バビロン」です。

実は、イスラエルの歴史において、バビロンは重要な節目になっています。バビロンはメソポタミア地方の古代都市で、バグダードの南方約90㎞の地点からユーフラテス川をまたいで広がっていました。その意味は「神の門」、ネブカドネザルが統治していたバビロンは「新バビロニア王国」と呼ばれ、そこにはかの有名な空中庭園があり、当時は貿易と商工業の中心地として栄えに栄えていました。

このバビロンが初めて聖書に登場するのは、創世記10章8節からで、ノアの子孫である世界最古の権力者ニムロドがシンアルの地に都市をつくりましたが、このシンアルの地とバベルがこのバビロンのことです。バベルと言えば、言葉の混乱が起きる原因となったあのバベルの塔ですよね。

聖書にはこのバビロンと言う言葉が何度も出てきますが、この「新バビロニア王国」を指す事もあれば、Ⅰペテロ5章13節のように当時の「ローマ帝国」を指す事もあり、黙示録のように終わりの時に建国される反キリスト帝国を指す事もあります。つまり、聖書に登場するバビロンという国は、この世における強大な権力を表しているのです。

また、マタイ福音書の冒頭を飾るイエス・キリストの系図にも、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロン捕囚前まで14代、バビロン捕囚後からイエスキリストまで14代と、区切られてますよね。この様にバビロンは、聖書においてかなり重要なキーワードであることが分かります。さて、ダニエル書は前半の1~6章と、後半の7~12章の大きく二つに分割出来ます。前半が約400年間にわたる世界の歴史で、後半は終末に関する預言です。本書の中には、様々な幻が登場して来ますが、これらの幻の繋がりがとても重要です。今回はその数ある幻の中から、特に重要な4つの幻をピックして確認して行きましょう!

先ず一つ目は、2章に登場する巨大な像の幻です。これは、ダニエルがネブカドネザルが見た夢の解き明かしです。頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄で一部が陶土で出来た大きな像が、人手によらず切り出された石によって破壊され、その石が大きな山となって全地に広がって行くと言う夢です。

純金の頭は、当時ネブカドネツァルが治めていた「新バビロニア王国」を表します。そして、この頭は当時新バビロニア王国で拝まれていた、「マルドゥク」の金でできた頭なのですが、この「マルドゥク」こそ、世界最古の権力者であるニムロドが神格化されたものでした。この大帝国「新バビロニア王国」はメディアとペルシャの連合国によって滅ぼされます。

そのメディアとペルシャの連合国を表すのが、銀の胸と腕です。この連合国を滅ぼしたのが、かのアレクサンダー大王で、彼の軍隊が武器として使用していたのが、当時もっとも堅い金属だった青銅でした。つまり、青銅の腹と腿がギリシャ帝国に当たります。

その後の4番目の国から、現在進行形になります。この国はローマ帝国を表していますが、この帝国には三つの編成があります。まず、軍事的にも経済的にも、支配地域においても最も優れていて、エルサレムを滅ぼしたローマ帝国が第一段階。青銅よりも強い鉄の脛がこれを表します。そしてローマはAD395年に東西に分裂します。脛は二本ありますが、それがこの東西の分裂を表しています。これが第二段階です。

その次が鉄と陶土で出来た10本の足の指。これが終末時代に登場する反キリスト率いる「大バビロン帝国」。第三段階のローマ帝国がこれに当たります。そして、この大バビロンは、永遠に滅びる事のない神の国によって滅ぼされます。この国は、人の手によらず切り出された石と表現されている通り、人間の力ではなく、神の力で興された国。この国こそ、黙示録21章2節に記載されている“天から下ってくる新しいエルサレム”のことです。そして、この国の王様が、黙示録19章11節に登場する白馬の騎手です。

と、ここまでが、今までの、そしてこれからの世界の流れについての預言です。最後のローマ帝国である大バビロンが、現在既に現れているのか、またどこの国なのかについては諸説あります。20年くらい前までは、EUではないかという説が有力でした。EUはローマ帝国の再来であり、連合国で編成されていたからです。しかし、現在EUは27ヶ国、未だ特に有力な人物が出ていない事から、現時点においては候補から外れつつあります。

さて、この第四の国である大バビロンの預言に繋がる幻が、本書7章の四頭の獣の幻です。4頭の獣が現れ、それぞれが暴れるのですが、4頭目の獣はものすごく恐ろしく、非常に強く、10本の角が生えていたと書いてあります。この4頭の獣は、4人の王国を表しており、4番目の国は全てのものを踏みにじり、打ち砕く国で、10の角はこの国に立つ10人の王を表しています。それが、終末時代に登場する反キリスト国家です。

ネブカドネツァルが見た夢に出てきた像の10本の足の指が、この10本の角に相当します。その後に現れた1本の角は10人の王と異なって3人の王を滅ぼし、いと高き方に敵対して今までの世界の秩序を変えようとする。この1本の角が反キリスト、666の数字で表される人物です。この人物は、悪の権化の様な形ではなく、混乱した世界を救う救世主の様な存在として現れます。いと高き方は、イエス・キリストの事。いと高き方の聖者は、クリスチャンの事。一時期、二時期、半時期は足すと三年半になり、これはクリスチャンが受ける三年半の患難期を指します。

こうして大バビロン以前の国まで、ダニエルの預言通りになっていますから、後は第四の国である大バビロンが起って大患難時代が来るだけ。ここまで預言通りに来たわけですから、まぁ当然第四の国もこの預言通りになる!ということが明白に分かります。

そして、その大患難時代の預言が、本書9章にある「定めの70週の預言」です。この預言が書かれたのは、バビロン捕囚の後期。まもなく、70年のバビロン捕囚が終わると言うときでした。その事に掛けられているため「定めの70週」という名前がついています。その内容を簡単に言うと、バビロン捕囚は70年で終わるけど、イスラエルがメシアを受け入れる迄、捕囚の70年の7倍かかるよ・・・という内容です。これは、ダニエルが罪を犯した自分の民と父祖たちの為に祈った後に、ガブリエルによって伝えられた御言葉です。

ここから、パズルのような預言が与えられているので、すこし計算しながら預言を確認して行きましょう。まず、イスラエルの民とエルサレムに与えられた70週。これは言うまでもなくバビロン捕囚の70年の事です。その後、エルサレム復興と再建についての御言葉が出されます。この勅令を出したのが、エズラとネヘミヤに登場するペルシャのアルタクセルクセスという王様です。勅令が出された年代については諸説あるのですが、一番有力なのが、城壁の修理が完了したBC445年3月14日。

ここから、油注がれた君の到来まで7週と62週。この2つを足すと「69週」。この69週を日に換算すると、「69×7=483日」。この483日を483年に変更して、更に日に換算すると、当時の太陰暦は1年=360日ですから、「483×360=173,880日」。アルタクセルクセスが勅令を出した、BC445年3月14日から173,880日後は、「AD32年4月6日」。この日、イスラエルは過ぎ越し祭で、イエス様がロバに乗ってエルサレム入城をしたのがこの日なのです!油注がれた君とは、イエス・キリストのこと。9章26節の「油注がれたものが不当に断たれる」とは、イエス様の十字架のことで、「都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる」というのは、ローマ帝国によるエルサレム崩壊のことを指します。

そして、9章27節の預言から、少し時代が飛びます。この預言は、終末時代の大バビロンと大きく係っており、ここに出てくる「彼」とは、一本の角である反キリストのこと。一週の間というのは、7年間の大患難時代の事です。「彼(反キリスト)」は、多くの者と同盟を結ぶとありますが、これは偽の平和条約を多くの国と結ぶと言う意味だと思われます。

おそらく中東において、とんでもない争いが起き、それを収める為にこの平和条約が結ばれるのですが、それが3年半で何らかの問題によって失効し、事態は更に深刻な局面を迎える。この平和条約が結ばれる三年半が患難時代の前半で、平和条約が失効し、大問題が起こるのが患難時代の後半に当たります。

「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す」彼は自分を神格化して神殿に座し、人々に自分を拝ませることを強要します。まるで、マルドゥクとなったニムロドのように・・・。こうして、定められた破滅(世界の滅亡)がおとずれる。この預言が「定めの70週の預言」です。イエス様が来られるまでの69週はもう既に成就していますが、上記の70週には1週足りませんよね。これが、反キリストによって行われる大患難時代の7年を指します。

神様は何時いかなる時でも、いきなり何かをなさる方ではありません。ノアの洪水の時だって、メトシェラ(彼の死がもたらすの意)の名前から、いつ洪水が起こるのかを、教えて下さっていました。これと同じように、反キリストにも、その予兆となる人物がいました。それが、8章の雄羊と雄山羊の幻です。

8章5節と8節に登場する、勢いよくやってきてメッチャ尊大で、尊大な余り角が折れた雄山羊・・・これは、アレキサンダー大王の事です。彼は、僅か10年足らずで世界を征服しましたが、若干32歳という年齢でこの世を去ってしまいます。角が四つに分裂したと書いてありますが、これはアレキサンダー大王のギリシャ帝国が四つに分裂したことを表しています。

ここで、小さな一本の角が現れ、それは強大になり、南へ東へ、そしてあの「麗しの地」へと力を伸ばしたとあります。分裂したギリシャの後に、小さな角強大な力が現れ、それは「麗しの地」エルサレムへと力を伸ばしたのです。四つに分裂した内の一つ「セレウコス王朝」がこの小さな角です。このセレウコス王朝の王が、アンティオコス4世エピファネスという人物で、この王はエジプト遠征に失敗した腹いせに、エルサレムに大きすぎるちょっかいを出して来ました。この時の戦争が「マカベヤ戦争」と言います。

これは、マラキ書~イエス様到来までの空白の400年の間に起こった出来事なので、多くのクリスチャンはあまりこの事件の事を知りませんが、その戦争に勝った記念日が、ユダヤ人が現在でもクリスマス時期にお祝いしている「ハッピーハヌーカ」です。(このマカベヤ戦争については、「マカバイ書」という外典に書いてあるらしいのですが・・・)この戦争の悪役である、アンティオコス4世エピファネスが反キリストの予表となる人物で、彼がエルサレムを占領していたのが三年半です。

このマカベヤ戦争から230年後にユダヤ戦争が起こりますが、マタイ24章15節のイエス様の言葉を信じていたクリスチャン達は、この戦争をマカベヤ戦争の再来と悟り、外はローマ軍、内は熱心党(バリバリの右翼みたいなの)に固められている中を逃げ延びて、ぺトラと言う山にまで行って生き残りました。このユダヤ戦争が起きていたのも、三年半。そして、大バビロンの反キリストは、42か月=三年半権威が与えられて活動します。(黙示録13章5節)

さて、今回はダニエル書の預言を通して、今着々と近づいて来ているであろう、大患難時代の事を学びました。日々のニュースを見ていても、ここ数年で時代の流れ方が激流に変わったことが、手に取るようにわかります。何かに向かって世の中が流れて行っている・・・。そんな気がします。私達クリスチャンは、それらのニュースを他人事と受け取るのではなく、緊張感をもって受け取り、正しい情報を取捨選択して生きていく必要があります。

ユダヤ戦争の時に勇気ある一歩と信仰によって生かされたクリスチャンのように、私達も目を覚まして冷静に正しい行動が出来るよう、今からの祈りが必要です。どんな無理難題が目の前に有ったとしても、信じて一歩踏み出せば神様は必ず道を開いてくれます。その事を覚えて、緊張感をもって日々の生活を送って行きたいものですね。(Report by Yuka )




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「エゼキエル」30分de一巻 Vol.26

2017年05月16日 | Good News
エゼキエルはBC597年の第二回バビロン捕囚(エルサレムが滅亡する11年前)でバビロンに連行され、それから五年後、バビロンのユダヤ人幽閉地区を流れる川の畔で神から召命を受けた。この時、バビロンにはもう一人預言者がいた。ダニエルである。つまり、ダニエルはバビロン王宮で、エゼキエルはユダヤ人居住区で、そして廃墟となったエルサレムではエレミアが、バビロン捕囚という特殊な環境下で、それぞれ異なった地、異なった視点で、イスラエルの民それぞれに必要な御言葉を、彼らを通して語り続けていたのである。

エゼキエルの預言の特徴は「主の言葉が私に臨んだ」。これが彼の預言の導入句である。そして、「彼らは私が主である事を知る」この言葉は、48章中27章、計70回登場する。そして、ゼキエルが語った預言の中で、最も重要なのが、以下に述べられている永遠の契約の預言である。

わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。(16章60節)

わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。私はまた、永遠に彼らの真ん中に私の聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。(37章26-27節)

おそらくエゼキエルは、このバビロンのユダヤ人居住区で生涯を終えたと思われるが、彼が捕囚の地で、生涯迄語り続けた事は、「今、我々には、国も、神殿も、自分の家さえもない。しかし、一つだけ、私達にとって最も大切なものがある。確かに主は、エルサレムの神殿から去られた。しかし今、主は、遠い異国の地に連れ去られた私達の元に来て下さっているのだ!」という、希望の光だった。

バビロン捕囚は、イスラエルの民から偶像礼拝を取り除く為の最後の手段だった。確かに捕囚以降、イスラエルの歴史において、偶像礼拝によって国が滅んだという歴史的事実はない。それが、ユダヤの人達にとってエゼキエルは、捕囚後のユダヤ人信仰の基礎を構築した「ユダヤ教の父」と呼ばれている所以である。それを可能にさせたのは、民の悔い改めとと、そこに働いてくださっていた新しい霊の力があったからこそ。この主の臨在、シャカイナグローリーこそが、エゼキエルが語り続けた希望の源だったのである。


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「プリスカとアキラ」母の日メッセージ

2017年05月14日 | Good News
イスラエル政府は、ユダヤ教徒、またはユダヤ人の母親から生まれた人をユダヤ人と認め、国籍を付与している。

つまり、イスラエルのパスポートを持っているからユダヤ人でも、イスラエルで生まれ育ったからユダヤ人でもなく、

たとえ他国に居住していても、ユダヤ人の母親から産まれ、ユダヤ教を信じ、自分がユダヤ人であるというアイデンティティを持っている人がユダヤ人なのである。

つまり、ユダヤ人女性は自分が生んだ子をユダヤ人・ユダヤ教徒として養育する社会的・宗教的義務を負っており、ユダヤ社会における女性の立場は、とても重要な位置を占めている。

だが、聖書は結婚して子供を産み育てる事こそ女性の勤めだとは言っていない。神から母親になる祝福を与えられた女性は、その責任を真剣に受け止めなさいと言っているのである。(メッセージより抜粋)


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「なにゆえ」30分de一巻 Vol.25

2017年05月07日 | Good News


このメッセージがされた前の週に、北朝鮮がミサイルを発射させ、朝鮮半島有事に関するる緊張のニュースが日本中を駆け巡りました。ただ、核実験をしたと言う事実だけを見れば、アメリカも北朝鮮も同じ。それぞれの国、それぞれの人の立場によって、見解が異なることは、前章のエレミヤとイザヤについて学んだ通り。とにかく、「諸悪の根源」が「聖書の理解不足と曲解」にある事は、歴史の事実を見れば明らか。そのような間違いを繰り返さないためにも、聖書を「神の霊」によって理解することは必要不可欠です。

さて今日は、「哀歌」です。この「哀歌」は、預言者エレミヤによって書かれた、「エルサレム崩壊とユダヤ人離散」の実に痛ましい詩です。この短い、しかし、凄惨な詩が「なぜ、聖書66巻に入っているのか?」前回学んだエレミヤ書には、こんな言葉があります。

女たちよ(これは、神様から見た「ユダヤの民」を表しています)、互いに哀歌を学べ。(9:19)

今日のメッセージは、「哀歌」の内容を詳しく見ていくと同時に、神様が「哀歌」に託した、私たちへのメッセージを聴いていきたいと思います。



「哀歌」の原題はヘブル語で「エイカー」。「エイカー」は日本語で、「なんで(何故)?!」と言う意味です。「哀歌(あいか)」と「エイカー」とは読みは似ていますね。「神様に選ばれ、愛されていた民が、異国の民に滅ぼされる」と言う、
神様に見放された状態に「なにゆえ?!」と言う悲痛な叫びの問いかけです。(続く・・)



世の中に様々な価値観数あれど、世界共通の正典が一つだけ。それが聖書である。聖書は時代、民族哲学、宗教を超えた超スタンダードなので、その内容を理解する事は、私たちの人生にとって非常に有益。「諸悪の根源」は、聖書を知らないこと、あるいは曲解することにあるのだ。が、聖書は日本人の価値観からすると、非常に理解し難い書巻が少なからずあり、それを正しく理解するためには、 先ず自分たちの常識や固定観念を捨てなければならない。取り敢えず5章を目を通してみたものの、その内容の凄惨さに圧倒され、“これは神の裁きと将来への希望である”等と、何気に教わりはするのだが、内容があまりに自分達の生活とかけ離れるため、とりあえず横に置いておこう・・的な感覚になっている書巻の代表が哀歌である。しかし、エレミア9章の19節に「女達よ、主の言葉を聞け。耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ。あなた達の仲間に、嘆きの歌を教え、互いに哀歌を学べ」とある様に、よく分からないからと言って放っておいていい訳はない。そこで「女たちよ聞け!」とあるのだが、これはどういう意味なのか?先ず、このエレミアの言葉から入って行かねばならない。

 聖書ではしばしば町などが擬人化されて語られるように、この「女たち」は「神の民」を指している。その神の民に対し、神の言葉である預言を無視した結果、イスラエルがどれほど悲惨な目に遭ったかという記録が本書である。冒頭から「嗚呼!なにゆえ?」という悲痛な叫びが幾度も叫ばれている。ヘブル語では「エイカ!(מגילת איכה )」であり、これがタイトルになっている。エレミヤから遡ること約1000年前、モーセがイスラエルの民に語った預言が申命記18章(47-53)にある。イスラエルの民を導き出したモーセは、「人生は祝福か呪いか、二つに一つ。だから祝福を選べ」と何度も繰り返し伝え、従わない時のの悲惨さもはっきりとここでも語った。しかし、イスラエルは過ちを再三繰り返し、遂に究極の悲惨を現実のものとしてしまった。

1章1節には、「なにゆえ、独りで座っているのか。」と始まる。この「独り」は神様から切り離された人間の状態のことだ。神様から離れ、慰めるものが誰もいない、その嘆きの声が哀歌。哀歌は、第二歴代誌35章25節にあるように、エレミヤがヨシヤ王を哀悼するために謳った歌であり、その中心は、エレミヤ9章6節にある。そして、その御言葉に対する民の応答の結果が、「哀歌」の事実だ。構成としては、

一章:「私」を主観にしたエルサレム崩壊の意味
二章:「主」を主観にしたエルサレム崩壊の事実
三章:「エレミア」を主観にしたエルサレム崩壊の要因
四章:「主」を主観にしたエルサレム崩壊の教訓
五章:「私達」を主観にしたエルサレム崩壊から将来への希望

となる。これらの内容が、原語でないと分からないが、章の頭が全てヘブライ語のABCで始まるアルファベートの歌の形式となっている。ヘブライ語のアルファべートは22文字あり、すべての節がABCの音を踏んだ緻密な構成で作られている。その理由は覚え易く、代々謳い継がれるため。「エイカ!」の嘆きを忘れてはならないために。

「哀歌」は、ユダヤ古典においては諸書のメギロースの一つであり、ユダヤのお祭りで朗読する5つの巻物(ルツ、エステル、コヘレト、雅歌、哀歌)に属する。ユダヤの歴史とお祭りは密接に関係しており、この理解が聖書理解に非常に役立つので、お祭りについて、復習しておこう。

旧約聖書に律法として、守るように規定されているもの。
「年に3度、男子はすべて、 主なる神の御前に出ねばならない」(出エジプト記23:17)と定められている3大祭りが、春の過越し祭(ペサハ)、夏の七週祭(シャブオット)、 秋の仮庵の祭り(スコット)。

律法としての規定はないが、旧約聖書にある歴史上の出来事を、ユダヤ民族の伝統の中で引き継がれているもの。ユダヤ社会では「小さな祝祭日」と呼ばれ、ハヌカやプリムがこれに当たる。

イスラエル独立記念日、ホロコースト記念日など、近代イスラエル史の出来事に由来する記念日。

「哀歌」はの内にある、「神殿崩壊記念日」に謳われる。「神殿崩壊記念日」には、イスラエル中が喪に服し、断食し、哀歌を朗読し、この日、「嘆きの壁」は満員となる。この日をユダヤの人たちは「ティシャ・ベ・アブ・Tisha' b'Av 」、アブの月の9日と呼ぶ。記念日の元となる、BC586年のバビロンによるエルサレム崩壊も、またAD70年のローマによるエルサレム崩壊も、このアブの月の9日だったからだ。「ティシャ・ベ・アブ・Tisha' b'Av 」は、出エジプトと同様、ユダヤ民族アイデンティティの根幹を為すことなのだ。

BC586年とAD70年の両方のエルサレム崩壊がこの日であるばかりか、更に驚くべき事実を歴史に見ることができる。AD136年の第二次ユダヤ戦争のバル・コクバの乱、十字軍が始まった日、ヨーロッパで最初のユダヤ人迫害がなされた日、続きスペインのユダヤ人退去命令布告日、第一次世界大戦勃発した日、1942年のホロコースト開始とされる日、すべて「ティシャ・ベ・アブ・Tisha' b'Av 」だった。

日本も戦争で非戦闘員300万人以上の犠牲者を出し、哀歌の出来事は他人事ではない。しかし、同じような経験をしてもメンタルの面で、かなり違っている。ユダヤ人にとって国の滅亡は、子供が親から見捨てられる以上の体験だ。神国日本が戦争に負けても、神社仏閣に石投げるようなことは決してしない日本人とは違う。人間の都合で考える「カミ」と、人間社会に直接介在されている「神」、創造主の違いだ。この点、日本人とユダヤ人とは全く異なる神観を持つ。神様は今も生きて働いておられるのだ。

神様は今も生きておられ、人間と生きた関係を望んでおられる。「哀歌」には、絶望的な究極の嘆きがあるが、これは人間の一方的な嘆きではないことを知っておかなければならない。新約聖書には、イエス様が泣かれたシーンが2回だけ書かれている。ラザロの死の時に一度。もう一回は、ルカの19章で、エルサレム崩壊が起きる預言の時だ。イエス様ご自身もひどく嘆かれた。イエス様はこの時、「哀歌」のシーンをご覧になっていただろう。また、哀歌1:12には、十字架上のイエス様の痛みとオーバーラップする痛みがある。哀歌に記された悲劇は人間側の悲劇だけではなく、愛する子を裁かねばならなかった神様の哀しみがあるのだ。

しかし、イエス様の哀しみを直接耳で聞き、その涙を直接見たであろう弟子たちですら、イスラエルは神様が選ばれた民だから、滅びるはずないというまちがった確信を持っていた。これは、黙示録に警告されているように現代の教会でも起こり得ることだ。イエス様を内に入れず、戸を叩き続けるままにしているラオデキアの教会は、天国に行くはずがない。悔い改めなければならない。でなければ、いのちを失う、と語られている。これが、終末に起きることだ。

哀歌は、絶望の淵から絞り出すように出た悔い改めによる希望で終わっているが、、最後の22節が「見捨てられました」で終わっている故に、ガクッと来て「哀歌」を悲しみで終わらせる人が多い。違う。「哀歌」は絶望で終わらない。これを間違えてず、文脈を読ま取らなければならない。これは、反語だ。「そんなはずはない主!あなたを待ち望みます。」ユダヤ人は、過去の悲劇を嘆くのではなく、絶望のどん底からも立ち上がってイスラエル再建に至る希望を見て、歌い続けている。何よりもメシア到来を望み続けているのは、ユダヤ人だ。その彼らの願い通り、再臨の時、メシアに出会う。最終的な形で終末にそれが起きる。その時まで、私たちには神に選ばれた民としての責任がある。ティシャ・ベ・アブは、今も私たちに直結しているのだ。(Repot by Mimita & Mu)



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