初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。(1:1)
面白い事に、福音書の始まりは序々に元へと辿っている。マルコはイエスから、マタイはアブラハムから、ルカはアダムから、そしてヨハネはこの世の始まりから・・。
言葉(ロゴス)という言葉は、当時のギリシヤ文学で使われていた哲学用語で、この世の全てのものは、それが形として存在する前に、考えにおいて存在していた。その考えをロゴスと言っていた。例えば、このテー ブルがつくられる前に、こういったテーブルをつくろうという考えがあり、従ってこのテーブルはそれ以前から存在していたのだ..と。
ヨハネはそこから一歩突っ込んで、そのロゴスとは単なる“考え”ではなく、この世の全てのものを創ろうと考えていた“存在”である。つまり、「初めに言葉があった」という意味は、「初めに全てのものを創造された神がおられた」という事。この冒頭からも分かる様に、ヨハネの福音書は、神としてのキリストを記しているのである。(メッセージより抜粋)
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面白い事に、福音書の始まりは序々に元へと辿っている。マルコはイエスから、マタイはアブラハムから、ルカはアダムから、そしてヨハネはこの世の始まりから・・。
言葉(ロゴス)という言葉は、当時のギリシヤ文学で使われていた哲学用語で、この世の全てのものは、それが形として存在する前に、考えにおいて存在していた。その考えをロゴスと言っていた。例えば、このテー ブルがつくられる前に、こういったテーブルをつくろうという考えがあり、従ってこのテーブルはそれ以前から存在していたのだ..と。
ヨハネはそこから一歩突っ込んで、そのロゴスとは単なる“考え”ではなく、この世の全てのものを創ろうと考えていた“存在”である。つまり、「初めに言葉があった」という意味は、「初めに全てのものを創造された神がおられた」という事。この冒頭からも分かる様に、ヨハネの福音書は、神としてのキリストを記しているのである。(メッセージより抜粋)
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この言葉通り、神は全てを言葉によって創造し、聖書の言葉が私たちの全てである。
ヨハネの福音書に出てくる様々な奇跡によって、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えた軌跡は質を変化させ、
距離を超えて人を癒し、長患いの病をも時間に関係なく病を癒し、多くの人にパンと魚を与え、量をも超越し、
自然をも叱って波を穏やかにし、病を治し、死者をも復活させるという、命をもつかさどれるという、
まさに”完全なる神キリスト”である。
そのキリストにつながり続けていかないと、私達は歩み続けることができないことがこの福音書を読むとよくわかる。
三位一体の神から離れることなく歩み続けられるよう、日々祈り続けていきたい。
私が命のバンである。
という例えは、考えてみたらとても分かりやすいですね。
だってバンは、その製造工程が
湯捏ね式だろうと、化学物質無添加だろうと
はたまた、中身を想像して
やれアンパンだの、クリームバンだの
言ってたって
あ、現代風にインスタに載せたって
食べなきゃ、バンの意味無いですね。
バンはそれを取って食べ、よく咀嚼し
飲み込む事により、私達の血となり肉となります
例えば雪山遭難で、アンパン一つあったら
命が助かる可能性もありますよね。
では3次元空間で、遭難中の私達が
イエス様の命のバンに、出会い
それを食べたら…。
イエス様は、あなたを必ず助ける!
と宣言されています。
そして助けられたら、その日から
イエス様のお手伝いを、たとえ拙くても
出来るクリスチャンに、なれたらと
心から思います。
マタイによる福音書は「王様」としてのイエス様
マルコは、「僕」
ルカは、「完全な人」
そして、ヨハネは、「神様」としてのイエス様。
ヨハネによる福音書が書かれた背景は、エルサレムが崩壊して20年後に書かれています。
4福音書の中では、最も新しく、ヨハネが記した
「ヨハネの黙示録」とほぼ、同時期にあたります。
「ヨハネによる福音書」は、全人類に向けて総合的に語っている福音書です。
「ヨハネの黙示録」と同じように、「ヨハネによる福音書」にも「7」と言う完全数を用いて、神様の奥義について語られています。
例えば、
イエス様がされた特定の人物(7人)とされた7つの対話
イエス様がなさった7つの奇跡
イエス様がご自身を表された7つの宣言
今回も、どれも、神様の恵みと深い奥義に心動かされたメッセージだったが、個人的に7つの宣言に心が留まりました。
私が、最初に教会に足を運んだ時は、まだ、10代前半でした。キリスト教のバックグラウンドのなかった私に、当時の牧師は、イエス様のことを今日、メッセージの中にあった7つの宣言で教えてくださいました。
「イエス様は、命のパンですよ。」
「イエス様は、世の光です。」
「イエス様は、ひつじの門です。」
「イエス様は、良き羊飼いですよ。」
「イエス様は、道であり、真理であり、命です。」
「イエス様は、ぶどうの木です。」
「イエス様は、復活であり、命です。」
病気がちだった私に、学校の人間関係でつまづいた時に、世の中の価値観に疑問を思った時に、進路に迷った時に、洗礼を受けた時に、新しい道に向かう時に、夢破れて行き詰った時に、
礼拝のメッセージは、難しいことをたくさんお話しする牧師が、個人的にお話しする時は、多くを語らず、むしろ、そっと、これらのメッセージをカードに書いて渡してくださっていたことが思い出されました。
「イエス様を信頼して、歩んで行けば、大丈夫なんだ」と言う確信と今の信仰生活を育ててくれた、牧師。そして、今まで、私の人生に多くの影響を与えてくださったクリスチャンたち。
その全てに働いてくださる神様。
あ~、イエス様、ありがとう!と感謝の気持ちで一杯です♪
聖書は勉強するものではない。神様の声として聞き、霊で触れて、そして永遠の命を受けるものだ。道徳や倫理ではなく「いのち」なのだ。命を受けた者は、その命を次の誰かに受け継いでもらいたい、伝えたい、と思うはず。それが自然なことだから。その確信を得るために福音書を読む。また確信を得て、更に深く福音書を読んで伝えていく。それがいのちの言葉、聖書だ。
同じヨハネが書いた黙示録が7という完全数によって構成されているように、ヨハネ福音書もまた7がキーワードになっていると教わった。
7つの会話:7人との対話を通して、イエス様と出会ったその後の結果を見る。
7つの奇跡:人生におけるすべての問題の縮図であり、それらはすべてイエス様の力で変えられる。
7つの宣言:イエス様がどのような存在なのかを、たとえを用いて宣言されている。そして、福音書のまとめとして、十字架上の7つの言葉(次から3週連続)に繋がっていく。
表面的には、どんな宗教も、カルトであっても、良いことしか言わない。人間関係も然り、また私自身も表面を取り繕うことがある。しかしレトリックや上っ面に騙されることなく、根本にあるもの、本来の目的を見極めることが大切。当然、聖書もそうだ。奇跡や癒しばかりに目を留め「よかったね」で終わるのではなく、信じて真の命を受けるために知っていこう。
いつも、1章1〜18を読むと涙が出そうになります。イザヤ9:1〜7のお言葉と重なり感動します。ともかく、まいってしまいます。ヨハネも「7」がキーワードですね。知りませんでした。
よく言われるお言葉は、3:16〜17ですが、聖書に触れている者には聖書全体を語っているお言葉なのですが、まだの方たちには分からないお言葉と思います。
14章から17章は私達の信仰の有り様を示して下さっています。信仰とはイエスをただ信じる事、これしかないことをたびたび言ってきました。この事をお言葉で示して下さり感謝します。
イクススですね。ただ信ずること。イエスを信じ、イエスの中に住まう事が信仰だと思っています。この頃、この世に包まれて考え、感じる事でなく、この世と別な所で感じ、祈る事が出来る様になってきました。もはや別ものというか、「新しく生まれたところ」が分かるようになりました。新しいイエスの所、ここをいつも忘れず、いつも味わい生きて行こうと思っています。
第二コリント5:17〜18を思いだします。色んな聖書箇所では記されています。やっとその自覚が出来てきつつあります。21章はもう一度つながり、自覚を確かなものとイエス様はされたのですね。15節からはアガペオーとフィレオーが使い分けられています。意味が深いですね。英語ではtend(keep). Feed が使われています。(ギリシャ語では一つの単語が使われていると聞いています。これから確かめておきます。)
この15節から17節はいつ読んでも牧師の有り様を示している所と思います。大変な事で身が持たないと思ってしまいます。人にはできないです。それ故、イエス様にお任せするしかありません。イエス様の御心を思い執成しの祈りしかないと思っています。(ピリピ4:6〜7、第一ペテロ5:7)
分かっていても、崩される時があります。しっかりとイエス様につかまり続け、イエス様にお任せするほかないと思っています。すべての良きもの、良き力、強い盾、のイエス様にお従いします。
早く御心が地でなされますように。
早く御国が来ますように。