Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

「エズラ」30分de一巻 Vol-15

2017年01月21日 | Good News
今回、知っておいてもらいたいことは、エズラ、ネへミア、エステルの3巻と、旧約最後の3つの預言書、ハガイ、ゼカリア、マラキの6巻をワンセットとして捉えておくこと。これらは同じタイムテーブルの上で起こっている出来事であり、エズラ、ネへミア、エステルは捕囚後の歴史書、ハガイ、ゼカリア、マラキは捕囚後の預言書で、互いに関連し合っている。

同じタイムテーブルとは、イスラエルがペルシャの支配下にあったということ。南北王朝時代は混乱していたにせよ、取り敢えずは独立国家だった。ところが捕囚後のイスラエルは、王も大祭司もいないペルシャの属国であり、民族的・政治的アイデンティティを喪失していた時代であった。

     

今、世界各地で起っている民族紛争は、更に深刻化さを増しており、そこには必ず民族アイデンティティと宗教の問題が介在している。ペルシャ(イラン)は中東紛争の火種となり、イスラエルはその民族性故に問題となり、逆に日本は民族性喪失の故に世界で孤立している。

これらの書巻が伝えている民族的・宗教的「分離」と、それに基付く国家のあり方は、そのまま現代の民族問題へとつながっており、キリスト教徒という、共同体に属する私達自身も同様の課題を持っている。人類が繰り返している過ちの本質に気付き、その失敗を繰り返さない。私達がこれらの書巻を読む意味はそこにある。


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「日々の出来事 II」30分de一巻 Vol-14

2017年01月14日 | Good News
30分de一巻では、イスラエルに立てられた王に焦点を当てて、そこに神様がどう働かれたのかという視点から話して来たが、南北合計42人の王の中で、サウル、ダビデ、ソロモン、ヨシアともう一人、取り上げるとしたら誰だろうか??

ユダヤ歴史において名君と誉れ高い王がもう一人いる。この王の時に南王国は大きな危機的状況の中にあった。その危機とは、北王国を滅ぼしたアッシリアが、南王国まで下って来て、エルサレムを包囲したのである。この絶体絶命のピンチからユダ王国を守ったのが、ヒゼキア(神は我が力)という王である。

彼に関する記録は、列王記、歴代誌以外にも、イザヤ書で4章にわたって記されている。また、ヒゼキヤの名前は、「箴言」にも登場する。箴言25章から29章迄の5章は、ヒゼキヤが国を治めるための教科書として、書記官に命じてソロモンの言葉を再編集させたものである。

     

ヒゼキアが優れていた点は、イスラエル民族の精神(内面)的改革と、のど元まで迫って来ている敵国の魔の手から国を守った具体(外面)的改革の両方を実践した事である。彼の「国家再建」テーマが、この後に登場するエズラ・ネヘミヤへと受け継がれて行く。彼は非常に優れたリーダーシップと信仰を持った人物であったが、ダビデやソロモンと同様、人間的な弱さも持っていた。

彼が犯した失敗は、アッシリヤの脅威に対して、神殿の財宝や、門や柱に付いていた金を剥がしてまで、金銀財宝を貢いで国を守ろうとしたことである。しかし、国を守ることが出来たのは、金銀財宝ではなく、神による奇跡であったにも係らず、ヒゼキアは晩年にまた同じ失敗を繰り返してしまう。

それは、ヒゼキアが病の床にあった時、バビロンからの使者が遠路はるばる贈物を持って見舞いに遣って来た時(それは明らかな政治工作だったにも係らず)、無防備にもヒゼキアは、バビロンの使者達に神殿の宝物や武器までも全部見せてしまったのである。

神がヒゼキヤに病を与えられたのは、より頼むべきは、金銀財宝ではなく、神なのだということを彼に教えるためだった。そして、ヒゼキアの病を癒し、寿命を延ばされたのは、イスラエルを救うためであった。このヒゼキアの生涯から私達は何を学ぶ事が出来るだろうか?

礼拝中心の生活 彼の改革の中心は、国力や税制の見直しではなく、礼拝の見直しだった。それが結果的に、のど元まで迫って来ているアッシリアの魔の手から国を守ることが出来た原因。イスラエル民族の内面的改革と、敵国から国を守った外面的改革。このイスラエルの「国家再建」テーマをヒゼキアは実践した。

人事を尽くして天命を祈る 彼がアッシリアの攻撃に備えて水路をつくったように、自分達の能力で出来る事は、力を尽くしてしたからこそ、神への祈りは強固なものとなる。

ヒゼキアの改革の後に訪れたのは平和ではなく、アッシリアの攻撃だった。病の床で、継承者の育成や、バビロンへの対応を神に問われた等々、ヒゼキアは繰り返し、神に試された人物であった。私達Cの究極的目的は神の御国到来。神の器は、その為に徹底的に練られる。しかし、それも長い目(永遠の観点)で見たら、感謝なこと。

私達は、終末時代を生きる最後のクリスチャンとして、神の御国建設成就に向かって、あらゆる困難も最終的には祝福に繋がっていくんだという信仰に立ちつつ、今年2017年も、主にあって乗り切って行こう


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えんぢぇる流黙示録講解

2017年01月07日 | Good News
イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。(1:1−3)

黙示録の冒頭、「イエス・キリストの黙示」とは、キリストに関する黙示ではなく、「キリストから与えられた黙示」という意味。神は最後の12弟子、ヨハネに天使を送り、当時、激しい迫害の中にいたクリスチャンたちのために、今まで誰にも明かされなかった神の奥義を伝えた。黙示とは、アポカリュプシス(覆いを取る・幕が開ける)という意味である。
    
     

元旦メッセージに続く2017年第2回礼拝メッセージは、何と黙示録から!こんな教会も珍しい?? しかし、この数年、年頭のメッセージでは混乱の世界情勢が語られ、その通り迷走を極めつつあるように、今年もまた激動の2017年になるだろう。イエス様が十字架に架けられてから約30年後、ユダヤ戦争が勃発した。ローマ軍に包囲されたエルサレムの人々は、その時どんなメッセージを聞いていただろうか。生きるか死ぬかの瀬戸際で「神は愛です!」等の曖昧なものであるはずはなく、生き残るための緊張感に満ちるメッセージだったはずである。それは終末時代を迎えつつある私達も、ある意味で同じ状況にいるのである。ユダヤ戦争の時、聖書の言葉に従って山(ペトラ)に逃げて助かった人もいれば、状況に流されて殺された人もいた。霊の覆いのかかった日本。今こそ、聖書の、そして黙示録が語る終末を知る時が来ている。

今日の箇所は、6章に記されている第七の封印。ここは、大艱難時代の幕開けを告げる重要な箇所で、最初、天使の号令によって四人の騎士が登場する。ところが、この大切な幕開けに関して、いきなり解釈が分かれているである。色の違う馬に乗った騎士四人の、赤は戦争を、黒は飢饉や経済不均衡を、蒼白は死、疫病を表している。しかし最初の白い馬に乗った騎士については、キリストであるという意見と、反キリストであるという真逆の意見がある。これは、どちらとも取れるとか、どちらでも理解可能といったことではなく、答えは白か黒かそのどちらか。答えは黒。これは明らかに偽キリストのことだ。

第一の理由:四人の騎士は、白が征服、赤が戦争、黒が飢饉、そして蒼白が死という、終末時代に起こる恐怖と戦慄の象徴する四つのセットである。この四人の騎士によって人類の1/4が死滅すると書かれているのを、しっかりと読み取ろう。死と戦慄の象徴である最初の白い馬がイエス様の救いではあるはずがない。

第二の理由:四人の騎士は巻物の封印を解かれて出現している。小羊であるイエス様が封印を解き、その後、天使が号令をかけて登場したのが四人の騎士。その4人の内の一人が、封印を解いたイエス様であるというのは、文脈的に不自然。戦争、飢饉、疫病、これらが終末時代に起こる戦慄と恐怖の事実。それによって実に20億人以上が死ぬことになる。その最初に来るのが、征服の象徴としての反キリストである。

第三の理由:この白い馬の騎士が、黙示録19章に登場する白馬の騎士と同一視されているのは、19章の白馬の騎士が間違いなくイエス様だからである。しかし、その登場は艱難期の後期だ。最初に6章で登場し、後でまた再度登場すると言うのは、タイムテーブル的に不自然。大トリは一番最後に登場するのがセオリーだ。

第四の理由:6章の白い馬の騎士は「勝利の上に勝利を得ようと出て行く」とあるが、勝利を求めて出て行くというのは、自分の力によってと読み取れる。キリストはすでに、神の絶対的な力で勝利したのだから、更に勝利を求める必要はない。人の目には英雄であり、救世主に見えるその人は、神の力を踏みにじって現れる反キリストだ。

第五の理由:6章の白馬の騎士は弓を持っているが、19章の白馬の騎士は持っていない。では弓は聖書でどのように扱われているだろうか。エフェソ書にある「神の武具」リストに記述はない。かえって、「火の矢」が悪による道具としてある。また、ホセア1章7節では、弓によって救わないと書かれている。聖書において弓は信仰の道具としては記されていない。また、白馬の騎士は矢を持っていないので、弓が武器ではないことをアピールし、平和を装って現れるとも解釈出来る。

最後の決定的な理由:6章の白い馬の騎士も、19章の白馬の騎士も冠を身に付けている。しかし、その原語によると、それぞれの冠は別物なのだ。6章の冠は「ステファノス」で、これは勝利者に与えられる冠。一方19章の冠は「ディアディーム」であり、王冠。王たる人しかかぶれない特別な冠なのだ。

6章の白馬の騎士と19章の白馬の騎士の共通点は、白馬に乗っているという点だけ。反キリストは、キリストを装って登場するから、反キリストなのだ。この点を多くのクリスチャンが勘違いをしている。同じような恰好をして、キリストを装って現れる。6章の騎士は反キリストである。

この後、話しは、「蒼白い馬」と「反キリスト」に関して写真を見ながら、かなり衝撃的な内容の説明に入ったが、一部個人情報が入っていることと、興味本位な話題だけが先行しないようにと、教会員向けの限定された話しとなった。「地獄への道は、人の善意という小石で敷き詰められている」という含蓄深い言葉がある。本当は誰もが「世界平和」を願っている。自爆テロも、核の保有も。その中心に「人間」がいるか、「神」を置いているかによって、この世は着実に終末へと向かっている。

終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。(ダニエル12:9-10)

キリストから遡る事約600年前に、ダニエルに啓示されていた封印が、イエス・キリストの出現によって、遂に解き明かされる時が来たの。 聖書を読むことは、人間にとって大きな祝福である。しかし、「この書を読む者は幸いである」と、特別に明記されているのは、この黙示録だけなのである。(Report by Mu )



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えんぢぇる流元旦メッセージ

2017年01月01日 | Good News
2017年が明けました!元旦の今日は恒例の「30分de聖書」はお休み。そのかわりにルカによる福音書15章1節から17章10節までの新年に相応しいメッセージです

ルカによる福音書は、ユダヤ人以外の人達(書かれた当時はギリシア人)に向けて、イエス様のことを伝えようとして書かれた福音書です。ギリシア人はユダヤ人に比べると論理的に物事を捉えようとする傾向が強く、彼らにとっての最大の関心事は「命とお金」でした。(どの時代もどの国でもあまり変わりませんが・・・)そのような世的な価値観に対して、クリスチャンはどのように「命とお金」に向き合っていけば良いのか?イエス様はそのことを3章にわたってお話しされました。それがルカ15章1節から17章10節までです。章は異なりますが、これはイエス様が同じ時、同じ場所、同じ対象に向けて話された一つのお話です。その内容を起承転結に分けると以下のようになります。

起(15:1-32):失われたものの回復
承(16:1-13):不正な管理人の話
転(16:14-18):律法と神の国
結(16:19-31):金持ちとラザロ
適用(17:1-10):赦し、信仰、奉仕

それでは、これらの話を、イエス様は誰に向かって話されたのかと言うと・・

起(15:1-32):その場にいる人々、特にファリサイ派の人々や律法学者に向かって
承(16:1-13):イエス様の弟子たちに向かって
転(16:14-18):その場にいる人々、特にファリサイ派の人々や律法学者に向かって
結(16:19-31):その場にいる人々、特にファリサイ派の人々や律法学者に向かって
適用(17:1-10):イエス様の弟子たちに向かって

このお話し全体を貫いている共通したディティールが一つあります。それは何でしょう? 答えは「お金」です。お金についてイエス様はどのようなことをおっしゃったのでしょうか?
    
    

起(15:1-32):この箇所で、イエス様は3つワンセットのたとえ話をされていますが、
       いなくなった羊も、なくした銀貨も、その人が持っている「財産=お金」です。
       しかし、この3つの話の共通点は、失ったものが戻って来た所有者
       (羊飼い、銀貨を所有していた女性、放蕩息子の父親)の喜びです。
       もう一度、誰に対してこの話が語られているかに注目しください。イエス様は、
       自分を批判しているファリサイ派の人々や律法学者に対して、天の父である神が、
       自分の元に帰って来る人を喜んで迎えてくださる事を3度も繰り返して語られておられます。

承(16:1-13):ここでは、イエス様は弟子たちに向かってお話しをされています。
       この話はこの世的には「随分とおかしい?」と思われている箇所ですが、
       「不正でまみれた富で友だちを作れ」とイエス様が言ったのは、
       「この世の富を利用して、クリスチャンとして伝道しなさい」と言う意味です。
       お金はこの世で生活するための必需品。ですから、そのお金を神の国のために賢く
       使う必要があるのです。でも、天国に行ったら、お金は必要ありません。だからこそ、
       この世で生活する上において「お金に支配されるのではなく、お金を支配しなさい」
       と、イエス様は語っておられます。

転(16:14-18):そして、イエス様は再び、その場にいる人々やファリサイ派の人々と律法学者に向かって、
       「律法と神の国」について話されます。当時の富裕層や知識階級の人々には「繁栄の神学」
        という考え方が根底にありました。それは、豊かな生活と健康=信仰の証しであり、それ
        とは逆な人たち(徴税人、羊飼い、娼婦等々)や病気の人は、神から見放された不信仰な人。
        と、考えられていました。しかし、イエス様は、そのような考え方を否定され、律法や行い
        によっては天国に行くことはできない、ただ、罪を悔い改め、イエス様を信じた者だけが、
        天国に行くことができるという、十字架による新しい契約の到来を告げられました。
       

結(16:19-31):イエス様は続いて、「金持ちとラザロ」の話しを用いて、ファリサイ派の人々や律法学者
        に向かって、お金持ちでも天国に行けないことを伝えます。

適用(17:1-10):そして、イエス様は最後にもう一度、弟子たちに向かって、この世でクリスチャンとして、
        富に仕えず、神に仕えるために生きる為の具体的な方法を教えました。
それが、「赦し、信仰、奉仕」です。この3つを実行するのにお金は必要ありません。
むしろ、お金が介在しては、できないことばかりです。

新年にあたり、皆さんにはそれぞれ抱負や夢、希望があることでしょう。しかし、クリスチャンとして、神様の子どもとして、この世で生きるためには何が必要なのか?神様はどんなことを私たち一人一人に望んでいらっしゃるのだろうか?このメッセージから改めて考えつつ、2017年を始めていきましょう (Report by Mimita )

     
  (礼拝後のコーヒータイム!)           (愛知県とロサンゼルスから来てくれました!バックは庭の山茶花)



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