夏からずっと来てくださっている参加者の方たちと、もっとコネクトしたいという思いがあり、今日のAHCは参加者の方達に自分を語っていただくことから始めました。初めての方も来てくださり、和気あいあいとした雰囲気が出来たように思います。
さて、「こっちの世界からあっち(クリスチャン)の世界にどうやって移ったのだろう?」というのは、私自身が未信者の頃、よく思った事です。そこで、今日は、クリスチャンになって一年のマキさんと、クリスチャン歴10年以上のアコさんに、それぞれの証を話してもらいました。証というのは、はやり個人から直接聞く時に、その感動とパワーがあると思います。ずっと来てくださっている未信者のMさんとKさん。初めて参加してくれた仏教徒の友人のYさん。そして、初参加ですが、クリスチャン歴の長いHさん。それぞれに感じたことを話してくださいました。
印象的だったのは、Yさんが話すうちに、自分のうちにあった思いがあふれてきて、涙ながらに、証に感動してくださったことを話してくれたこと。 彼女は「今日は来て良かった。また参加させてください」と話してくれました。聞いている私もうれしかったです!
そして、「私には、みなさんみたいな感動的なことってないんです。でも、聖書に信じなさいと書いてあるから、信じようと思い、信じるに至った」と語ってくださったクリスチャン歴の長いHさん。それこそ、その従順な彼女の思い、そしてそれに応え、信仰を与えてくださる神様 に感動させられます。主はそれぞれの個人に、神様にしかできない方法で愛を示してくださるのです。
今日は聖書の中から一人、イエス様でとの特別な出会いを証する人、ヤコブを紹介させていただきました。このヤコブは、「主の兄弟」と呼ばれ、新約の中にある「ヤコブの手紙」の筆者であるヤコブです。まず、ヤコブの兄であったイエスの出生を見てみましょう。
イエスは、聖霊によって妊娠したマリアから、マリアの夫ヨセフのもとに誕生しました。マタイの福音書の中に、ヨセフとマリアは婚約をしていたけれど、二人が一緒になる前にマリアが妊娠したと書かれています。マリアは聖霊によって身ごもったのです。
イエスが誕生した後、ヨセフとマリアの間には、少なくとも7人の男子と女子が生まれています(マタイ13:55)。弟たちの名前は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダです。ユダヤ文化では年上を重んじる ので、この名前の順番は年齢順に書かれていると考えられます。つまり、ヤコブは、イエスに続く次男になるわけです。妹たちについては、「姉妹」と複数で書かれているので、2人以上いたと推定できます。
神を父に持つイエスと、人間ヨセフを父に持つヤコブという図がはっきりします。イエスとヤコブの兄弟の子供時代を想像してみたいと思います。
イエスとヤコブ兄弟は、ガリラヤ地方にあるナザレという小さな田舎町で育ちました。ナザレは、人口役400人、舗装された道などなく、土屋医師で作られた平屋の家が集まり、公共の建物はほとんどない小さな町だったそうです。人々は、いくつかの家が共有する中庭で、近所の人たちと料理をし、食事を共にし、石で作った カップ、ボウルで食事をしていたそうです。この時代のユダヤ人たちの主食は、パンです。イエス、ヤコブ兄弟も他の弟たちといっしょに、一つのパンをさいて、いっしょに食事をし、家の手伝いをしていたのでしょう。
ルカの福音書の2章にイエスの子供時代についての記述があります。
40節:幼子は、ますます成長して強くなり、知恵に道、そして神の恵みがその上にあった。
47節:聞く人々はみな、イエスの賢さやその答えに驚嘆していた。
52節:イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
イエスの小さい頃の事はこれしか書かれていませんが、イエスがどんな少年だったか想像できると思います。おそらく、親マリアとヨセフから期待されて育ったことでしょう。イエスの幼い兄弟たちのことは書いてありませんが、想像してみることは出来ると思います。賢く、神の恵みにあふれ、人から愛された兄イエス。知恵に満ちあふれた完璧な兄イエス。このイエスと衣食住を共に育ったヤコブにはどんな思いがあったでしょうか。
次に出てくるイエスと兄弟たちの記述は、マルコの福音書3章31節から35節にあり、イエス宣教活動が始まっています。母マリアと兄弟たちは、群衆が集まっているので、家の中に入れません。そこで、人をやってイエスを呼ばせるのですが、イエスは出て来ず、「わたしの本当の母、兄弟は神の御心を行う人です」と言ったのです。ヤコブたちからしれみたら、気が変になっている兄をつれもどそうとやって来たのに、逆に、イエスから、あの人たちは、わたしの母でも、兄弟でもないと言われてしまったわけです。しかも、人々の前で。
マリアとヤコブの気持ちを考えてみてください。マリアには、イエスについて天使から預言をいただいているので、違った思いがあるかもしれません。しかし、弟ヤコブは、おそらく、裏切られた、辱められた、理解できない、なぜ!?という感情があったのではないでしょうか。ヤコブが、兄イエスを神の子イエスと信じる事ができなかったことは明らかです。それから先のイエスの公の活動、十字架での死の場面に、弟ヤコブの名はでてきません。
第一コリント人への手紙15章4節から7節に、パウロが、復活したイエスが弟子たち、五百人以上の兄弟たちに同時に現れ、次いでヤコブに現れ、その後すべての信徒に現れ、自分にも現れたと記しています。7節「ヤコブに現れ」と書かれていることに注目です。このヤコブは、イエスの弟ヤコブです。他の弟子や兄弟たちと一緒にではなく、イエスはヤコブのためだけに、復活した姿を現したのです。最初のヤコブたちの反応の後、イエスの3年の宣教生活にまったく姿を現さなかった弟ヤコブ。その不信者のヤコブの前に、復活したイエスは現れたのです!この時のヤコブの思いを想像してみてください。
20年以上も共に生活して来た兄のイエス。賢く、何をしても完璧な兄のイエスは、本当に神の子だったのだ!救い主、メサイアなのだ!一つのパンをともに分けて食べたあのイエスが、命のパンだった!神殿で教師たちと話しをしていたイエスは、神自身だったのだ!
おそらく、ヤコブの頭の中に、小さい頃にいっしょに生活し、見て来たイエスの仕草、声、言葉遣い、弟たちに示された愛情が思い起こされたと思います。そして、家を出て、宣教に出てしまったイエスについて聞いた話し。これらが、ヤコブの中で一致し、納得以上の確信を与えられたのです。
イエスは、愛するヤコブとの肉親の家族関係を崩し、ヤコブを永遠に生きる神の家族に生まれ変わらせるために、現れたのです。イエスは、自分を信じなかった弟ヤコブを赦し、愛をもって救いに来たのです。この復活したイエスとの出会いで、ヤコブは永遠に変えられました。
その後のヤコブは、使徒行伝1章14節で、弟子たちと集まり、心を合わせて熱心に祈っていたと書かれています。また、ガラテヤ人への手紙2章では、弟子ペテロ、ヨハネと名を連ね、エルサレム教会の3本柱の一人とまで言われました。また、異邦人宣教からエルサレムに戻って来たパウロとも面会し、長老を代表す者となっています。
主の兄弟と呼ばれるヤコブが、兄イエスを「主イエス」、“Our glorious Lord Jesus Christ”と呼ぶ者に、イエスの恵みによって変えられたのです。そして、主イエスを、独特な立場から知っているヤコブは、あのヤコブの手紙を書いたのです。この手紙は、新約の中の他のどの著者よりも、イエスの教えからのイラストレーションが多い書であると言われています。
いつも、言われる「話しの結末の大切さ」ですが、ヤコブの手紙の5章の締めくくりを見てみましょう。
「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、誰かがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになる、と知るべきです。」
ヤコブ自身が罪人であったのに、神の子イエスが復活後に現れ、真理に連れ戻してくれて、自分を永遠の死から救い出してくれた!という、ヤコブ自身の証なのです。
2000年近く前に生きたヤコブに現れた復活のイエス様は、今もここにいて、私たちの前に現れ、一人でも多くの人に永遠の命を与えたいと望み続けています。
さて、「こっちの世界からあっち(クリスチャン)の世界にどうやって移ったのだろう?」というのは、私自身が未信者の頃、よく思った事です。そこで、今日は、クリスチャンになって一年のマキさんと、クリスチャン歴10年以上のアコさんに、それぞれの証を話してもらいました。証というのは、はやり個人から直接聞く時に、その感動とパワーがあると思います。ずっと来てくださっている未信者のMさんとKさん。初めて参加してくれた仏教徒の友人のYさん。そして、初参加ですが、クリスチャン歴の長いHさん。それぞれに感じたことを話してくださいました。
印象的だったのは、Yさんが話すうちに、自分のうちにあった思いがあふれてきて、涙ながらに、証に感動してくださったことを話してくれたこと。 彼女は「今日は来て良かった。また参加させてください」と話してくれました。聞いている私もうれしかったです!
そして、「私には、みなさんみたいな感動的なことってないんです。でも、聖書に信じなさいと書いてあるから、信じようと思い、信じるに至った」と語ってくださったクリスチャン歴の長いHさん。それこそ、その従順な彼女の思い、そしてそれに応え、信仰を与えてくださる神様 に感動させられます。主はそれぞれの個人に、神様にしかできない方法で愛を示してくださるのです。
今日は聖書の中から一人、イエス様でとの特別な出会いを証する人、ヤコブを紹介させていただきました。このヤコブは、「主の兄弟」と呼ばれ、新約の中にある「ヤコブの手紙」の筆者であるヤコブです。まず、ヤコブの兄であったイエスの出生を見てみましょう。
イエスは、聖霊によって妊娠したマリアから、マリアの夫ヨセフのもとに誕生しました。マタイの福音書の中に、ヨセフとマリアは婚約をしていたけれど、二人が一緒になる前にマリアが妊娠したと書かれています。マリアは聖霊によって身ごもったのです。
イエスが誕生した後、ヨセフとマリアの間には、少なくとも7人の男子と女子が生まれています(マタイ13:55)。弟たちの名前は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダです。ユダヤ文化では年上を重んじる ので、この名前の順番は年齢順に書かれていると考えられます。つまり、ヤコブは、イエスに続く次男になるわけです。妹たちについては、「姉妹」と複数で書かれているので、2人以上いたと推定できます。
神を父に持つイエスと、人間ヨセフを父に持つヤコブという図がはっきりします。イエスとヤコブの兄弟の子供時代を想像してみたいと思います。
イエスとヤコブ兄弟は、ガリラヤ地方にあるナザレという小さな田舎町で育ちました。ナザレは、人口役400人、舗装された道などなく、土屋医師で作られた平屋の家が集まり、公共の建物はほとんどない小さな町だったそうです。人々は、いくつかの家が共有する中庭で、近所の人たちと料理をし、食事を共にし、石で作った カップ、ボウルで食事をしていたそうです。この時代のユダヤ人たちの主食は、パンです。イエス、ヤコブ兄弟も他の弟たちといっしょに、一つのパンをさいて、いっしょに食事をし、家の手伝いをしていたのでしょう。
ルカの福音書の2章にイエスの子供時代についての記述があります。
40節:幼子は、ますます成長して強くなり、知恵に道、そして神の恵みがその上にあった。
47節:聞く人々はみな、イエスの賢さやその答えに驚嘆していた。
52節:イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
イエスの小さい頃の事はこれしか書かれていませんが、イエスがどんな少年だったか想像できると思います。おそらく、親マリアとヨセフから期待されて育ったことでしょう。イエスの幼い兄弟たちのことは書いてありませんが、想像してみることは出来ると思います。賢く、神の恵みにあふれ、人から愛された兄イエス。知恵に満ちあふれた完璧な兄イエス。このイエスと衣食住を共に育ったヤコブにはどんな思いがあったでしょうか。
次に出てくるイエスと兄弟たちの記述は、マルコの福音書3章31節から35節にあり、イエス宣教活動が始まっています。母マリアと兄弟たちは、群衆が集まっているので、家の中に入れません。そこで、人をやってイエスを呼ばせるのですが、イエスは出て来ず、「わたしの本当の母、兄弟は神の御心を行う人です」と言ったのです。ヤコブたちからしれみたら、気が変になっている兄をつれもどそうとやって来たのに、逆に、イエスから、あの人たちは、わたしの母でも、兄弟でもないと言われてしまったわけです。しかも、人々の前で。
マリアとヤコブの気持ちを考えてみてください。マリアには、イエスについて天使から預言をいただいているので、違った思いがあるかもしれません。しかし、弟ヤコブは、おそらく、裏切られた、辱められた、理解できない、なぜ!?という感情があったのではないでしょうか。ヤコブが、兄イエスを神の子イエスと信じる事ができなかったことは明らかです。それから先のイエスの公の活動、十字架での死の場面に、弟ヤコブの名はでてきません。
第一コリント人への手紙15章4節から7節に、パウロが、復活したイエスが弟子たち、五百人以上の兄弟たちに同時に現れ、次いでヤコブに現れ、その後すべての信徒に現れ、自分にも現れたと記しています。7節「ヤコブに現れ」と書かれていることに注目です。このヤコブは、イエスの弟ヤコブです。他の弟子や兄弟たちと一緒にではなく、イエスはヤコブのためだけに、復活した姿を現したのです。最初のヤコブたちの反応の後、イエスの3年の宣教生活にまったく姿を現さなかった弟ヤコブ。その不信者のヤコブの前に、復活したイエスは現れたのです!この時のヤコブの思いを想像してみてください。
20年以上も共に生活して来た兄のイエス。賢く、何をしても完璧な兄のイエスは、本当に神の子だったのだ!救い主、メサイアなのだ!一つのパンをともに分けて食べたあのイエスが、命のパンだった!神殿で教師たちと話しをしていたイエスは、神自身だったのだ!
おそらく、ヤコブの頭の中に、小さい頃にいっしょに生活し、見て来たイエスの仕草、声、言葉遣い、弟たちに示された愛情が思い起こされたと思います。そして、家を出て、宣教に出てしまったイエスについて聞いた話し。これらが、ヤコブの中で一致し、納得以上の確信を与えられたのです。
イエスは、愛するヤコブとの肉親の家族関係を崩し、ヤコブを永遠に生きる神の家族に生まれ変わらせるために、現れたのです。イエスは、自分を信じなかった弟ヤコブを赦し、愛をもって救いに来たのです。この復活したイエスとの出会いで、ヤコブは永遠に変えられました。
その後のヤコブは、使徒行伝1章14節で、弟子たちと集まり、心を合わせて熱心に祈っていたと書かれています。また、ガラテヤ人への手紙2章では、弟子ペテロ、ヨハネと名を連ね、エルサレム教会の3本柱の一人とまで言われました。また、異邦人宣教からエルサレムに戻って来たパウロとも面会し、長老を代表す者となっています。
主の兄弟と呼ばれるヤコブが、兄イエスを「主イエス」、“Our glorious Lord Jesus Christ”と呼ぶ者に、イエスの恵みによって変えられたのです。そして、主イエスを、独特な立場から知っているヤコブは、あのヤコブの手紙を書いたのです。この手紙は、新約の中の他のどの著者よりも、イエスの教えからのイラストレーションが多い書であると言われています。
いつも、言われる「話しの結末の大切さ」ですが、ヤコブの手紙の5章の締めくくりを見てみましょう。
「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、誰かがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになる、と知るべきです。」
ヤコブ自身が罪人であったのに、神の子イエスが復活後に現れ、真理に連れ戻してくれて、自分を永遠の死から救い出してくれた!という、ヤコブ自身の証なのです。
2000年近く前に生きたヤコブに現れた復活のイエス様は、今もここにいて、私たちの前に現れ、一人でも多くの人に永遠の命を与えたいと望み続けています。