Good News Station 聖書熟(塾ではない)に参加してくれた皆さん、熱心に聴いてくれて感謝でした。
今回学んだことのアプリケーションと、この学びに期待することを、コメントに投稿しておいてください。
それが確認出来た段階で次に進みます。次回は今月19日(木)10:00am~2:00pm アナハイで行う予定です。 詳細はまた後ほど。
黙示録を学ぶ理由
初代教会と現代の教会の力の差はどこにあるのか? 彼らが待ち望んでいたのは、死後の世界で会うイエスではなく、再びこの地上に来られるイエスであった。この世の悪が滅ぼされ、新しい神の御国で神と共に生きる。その燃えるような再臨への思いが、初代教会の原動力であった。
私達はこの信仰告白を、実生活の上において回復しなければならない。再臨は論議するものではなく、キリスト者が歩むべき信仰生活の実現なのだ。大切なことは、終末に関する詳細な知識を得ることではなく、キリストにある真の希望に目覚め、主と共に歩む霊的生活の刷新である。キリスト者にとっての「終末」は、論議の対象などではなく、信仰生活の指針そのものなのだ。
さて、プロテスタント教会には、様々な教理・教派が存在しているが、黙示録が語る終末という概念において、次の三つの指針においては全てに共通している。
イエス・キリストがもう一度、この地上に来られる。
そこでキリストを主とする者とそうでない者とが二つに分割される。
サタンの支配が終わりを告げ、神の国が到来する。
聖書が裁きを語る3つの理由
「裁き」があることは事実だから。
イエス・キリストが2000年前にイスラエルの地に存在し、十字架に架けられたのは事実。そして、復活されて天に昇り、再臨を約束されたことも事実。「裁き」は再臨と同時に行われる。その「裁き」によって、神の御国が始まるのである。
警告しなければわからない人がいるから。
聖書は「裁き」が現実にあることについて全人類に警告していると同時に、そのことを知っているクリスチャンに対しても、日常生活に埋没することにないようにと警鐘し続けている。神の前において、半分クリスチャン、もう少しでクリスチャンといった中途半端な立場はあり得ない。裁きの時が来てから、それに気付くのでは遅すぎるからだ。
裁きの問題は既に解決済みだから。
罪による裁きの問題は、すでにイエス・キリストの十字架によって解決されている。キリストを信じる者は決して有罪の判決を受けることはない。何故なら、罪に対する罰は、キリストの十字架によって執行済みだからである。従って、私達の人生における最も重要な決断は、罪をどうするかではなく、キリストに対する態度をどうするか、なのである。
黙示録は聖書の総括
黙示録は、神の約束と預言の成就であり、全66巻の完結編(旧約から348回引用)である。黙示録がなければ、聖書は結論のない書物になってしまう。黙示録を読まずして、聖書を読んでいることにはならない。また、聖書の総集編である黙示録は、聖書全体とリンクしており、黙示録だけを読んで意味を理解することは不可能。黙示録を正しく理解するためには、聖書全体をバランス良く読み、総合的に理解することが要求される。
黙示録の記述はその通りに起こる
黙示録には、人間の3分の1を殺す2億の軍隊が登場するが(9:15-16)、本書が記された2千年前の全世界人口は1億人足らず、剣と弓による戦争で、2億の軍隊が人間の3分の1が殺すことなど到底理解不可能で、人々はこの記述は何かの喩えであると考えていた。しかし、第二次世界大戦と核開発以来、黙示録に対する理解が大きく変わった。黙示録に記されている数字は、既に現実のものとなっている。聖書は自分の先入観や道徳観念を入れないで、先ずそのまま読むことが大切である。聖書が、地上の3分の1が焼けるというのなら、文字通りそうなり、海の3分の1が血に変わると言うのなら、文字通りにそうなるのである。
黙示録に人間の類推は通用しない
黙示録はイエス昇天後65年、エルサレム崩壊から35年後、最後に生き残っていた12弟子の一人、エペソ教会の長老ヨハネが流刑先のパトモス島で見た幻を、神の霊によって記した書物である。聖書には約40人の著者がおり、各巻にはそれぞれ筆者の特徴を読み取る見ることができる。しかし、この黙示録に関しては、人間の知識、理性、感情、類推が入り込む余地が一切ない100%神の霊感によって記されている。
黙示録には様々な解釈の方法があるが、代表的なものとしては、これは2千年前に起こった出来事だと考える「過去派」、教会史全般の中で起こることだと考える「歴史派」、将来的に起こることだと考える「未来派」、そして、黙示録にある記述は歴史的事件とは関係なく、神の世界が象徴的に記されていると考える「霊解派」がある。しかし、黙示録の意味を、そのいずれかに限定させてしまうことは、明らかな間違いである。
1章19節に、「見たこと(1章)を、今あること(2-3章)を、今後起ころうとしていること(4-19章)を書き留めよ」 とあるように、黙示録は、過去に起こったこと、現在起きていること、これから起こることが、立体的(螺旋状)に記されている。例えば、7つの教会は、黙示録が執筆された当時に、西アジア地方(現在のトルコ)に現存していた教会であり、また、2千年間の各時代を象徴する教会であり、また、現在地上に存在している教会のタイプでもあるのだ。サタンは人間が聖書を読むことをあらゆる手段を使って、私達が聖書を読むことを阻止しようと動く。特に読んでほしくないのが黙示録。何故なら、黙示録には、サタンの完全な敗北と神の国到来が明確に示されているからである。黙示録を難しい・恐ろしい等の理由で敬遠しているのは、既に悪魔の策略に嵌まっているということを、全ての教会・クリスチャンは認知すべきである。
7つの教会への手紙
これら7つの教会は全て、困難な問題に直面していた。主はその全ての教会、全ての信徒の問題の本質を鋭く見抜かれ、戒め、叱咤し、慰め、励まし、そして手紙の最後を、「勝利する者への約束」で結ばれた。主は、教会が地上における信仰生涯を全うし、新しいエルサレムへと到達するように、今日も導いておられる。黙示録は、7(神の完全数)という数字で構成されているが、この手紙も7つの内容で構成されている。
受信者
各教会には、神の使信を伝える「天使」が存在しており、7つの書簡は全て、「~の教会の天使にこう書き送れ」という文頭で始まっている。
送信者
これら7つの手紙の差出人であるイエス・キリストの権威の表明。
霊的状態
イエスは、「わたしは知っている」と、全ての教会の霊的状態を明らかにされる。
賞賛と叱責
イエスは、各教会の霊的状態に対して、賞賛し、叱責される。7つの教会の内、スミルナとフィラデルフィアは賞賛され、エフェソ、ペルガモ、ティアティラ、サルデスの4つは賞賛と叱責の両方があり、ラオデキアは叱責のみで、一つも誉められていない。このラオデキアの教会が、現代を象徴している教会である。
再臨の勧告
イエスは「わたしは来る」という約束通り、もう一度、この地上に戻って来られる。
“霊”が告げることへの勧告
「耳のある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」7つの手紙は全てこう締めくくられている。「耳ある者」とは、神の御旨を求め、聞き従う者のこと。教会にけるクリスチャンの言動・活動は、各自の自由意志に任されているのである。
勝利者への約束
神の御声に聞き従った者(勝利者)への報酬が、全ての教会に約束されている。
エペソ教会 →初めの愛を忘れていないか?(△)
スミルナ教会 →恐れるな!死に至るまで忠実であれ!(◎)
ペルガモの教会 →信仰的妥協をしていないか?(△)
テアテラの教会 →不品行・偶像礼拝に陥っていないか?(△)
サルデスの教会 →信仰を建前にしていないか?(△)
フィラデルフィアの教会 →主を証し続けよ!(◎)
ラオデキアの教会 →自己欺瞞に陥っていないか?(X)
エペソ教会 (初代教会を象徴)
エフェソはアンティオケ、アレキサンドリアと並ぶ、地中海地域三大都市の一つで、パウロが三年間滞在して造り上げ、ヨハネが長老を務めていたと言われるこの教会は、当時西アジア地方(現在のトルコ)に点在していた諸教会のヘッドであった。正しい信仰理解、よく奉仕し、聖書中、最も成熟した大人の教会であったこのエペソ教会に、主は「一つだけ言っておくことがある」と言われた。それは、「あなたは初めの愛から離れてしまった(2:4)』という根本原理からの逸脱であった。主はいつも私達の動機を見ておられる。神にとって愛がなければ無に等しく、愛がなければ、何の益にもならない。(Ⅰコリント13:2-3)人間社会は、結果さえ良ければ全て良しと判断するが、主はいつも何をしたのか(Doing)ではなく、どうであったのか(Being)ということを重点に見ておられるのである。
スミルナ教会 (迫害期の教会を象徴)
スミルナはエペソの北西約56キロにある商業都市として栄えた美しい港町である。スミルナという言葉は「没薬」を意味し、没薬は殉教を表している。スミルナ教会は殉教者の教会である。この手紙には叱咤の言葉は一つもなく、また、7つの手紙の中で最も短い。スミルナ教会に対し主は長く話す必要はなかったのである。ただ主はこの教会に、「死に至るまで忠実でありなさい」と書き送られた。真のクリスチャンは、これからの時代に迫害に遭うので、その苦難を耐え忍びなさいと言っておられるのである。
しかし、確かにクリスチャンには試練の時が与えられるが、その期間は定められており、長くは続かない。ダニエル1章12節に、「どうか私たちを10日間試してください」とあり、また、復活した主が昇天された後、弟子達はエルサレムに留まり、聖霊のバプテスマが降るまで、10日間彼らは一心に祈り続けた。彼らにとって、その試練の時が必要だったからである。10日間というのは、そういう意味である。
スミルナ教会には、ヨハネの弟子で、ポリュカルポスという教会教父の殉教の話しが残されている。彼はユダヤ人達から告訴され、ローマに対する反逆罪で火刑に処せられた。当時90歳近いポリュカルポスにさすがのローマ兵がこう言った。「我々はあなたのような老人を殺したくはない。イエスを知らないとさえ言えば、それで放免してやる」と。しかし、ポリュカルポスは、「私は80年間近く主にお仕えして来たが、主は一度として私を拒むことはなさらなかった。その主を、どうして今更私が拒むことが出来ようか!」と、自ら殉教の死を選んだのである。
ペルガモ教会 (ローマ監督時代の教会を象徴)
ペルガモは、「塔」と「結婚」という意味があり、政治と宗教が一体となった教会という意味。つまり、ローマ帝国と結婚した教会である。この教会には、「バラムの教え」と、「ニコライ派の教え」という大きな問題があった。それに対して主は、「悔改めよ」と警告しており、この「悔い改めよ」という言葉は、スミルナとフィラデルフィアの教会以外に全て登場する。
バラムとは、民数記22-24章に登場する人物で、当時イスラエルの敵国だったモアブの王からイスラエルを呪わせるために雇われた偽預言者である。しかし、神の加護により、イスラエルを呪うことが出来ないことが分かったバラムは、イスラエルの兵舎にモアブの女性を送るようモアブの王に提言し、さらに偶像まで浸透させ、イスラエルを破滅に追い込んだ。つまり、バラムの教えとは、教会を破滅に導くサタンの画策・知恵のことである。
ニコライとは、「民が勝つ」という意味で、人権主導型主義によるこの世と迎合した世俗的信仰、伝道もしない、弟子訓練もしない、水で薄めたような骨抜きの信仰のこと。エペソ教会は、このニコライ派の教えを退けていたが、ペルガモ教会は、これと妥協してしまっていた。しかし、そのような堕落した中にあっても、イエスは信仰を守り通し、勝利を得るものは、白い小石を与えようと言われた。この白い小石とは、当時の裁判に使われていた無罪の証明であり、主の十字架における無罪の宣言である。(ヨシア8:32)
ティアティラ教会 (中世暗黒時代の教会の象徴)
ティアティラとは、「女性の冠」という意味で、使徒16章に登場する紫布商人・ルディアが住んでいた街である。この街は繊維産業などの商業が盛んで、この街で仕事をするためには、街で開催される諸々の行事、儀式、祭りに等に参加することが義務付けられていた。この教会には、「愛、信仰、奉仕、忍耐」があったにも係わらず、その裏で恐ろしい偶像礼拝と宗教的姦淫が行なわれていた。この愛と姦淫の信じ難いギャップが、このティアティラ教会の特徴である。このことは、ローマカトリックのことを考えるとよく分かる。この信じ難いギャップは、ローマカトリックの現状そのままである。
殉教した26聖人をはじめ、マザー・テレサや井深八重などのカトリックの人たちの愛と奉仕に嘘はない。社会に出て行き、神の愛を人々に示しなさい、貧しい者を助けなさい、これは、神の御心に叶う実に素晴らしい愛の実践である。しかしその反面、ローマ法王という単なる人間を神の代理としたり、イエスの母マリアを崇拝したり、7つの奇跡をつくったり、人間に聖人の位と付けたり等々、完全に間違った教理を捏造している。
更に、カトリックが中世の暗黒時代において行って来た宗教裁判や魔女狩りほどサタン的な光景は、この地上には存在しなかった。彼らが聖書を独占し、自分達の権力のために利用し、また間違った教理によって、今迄どれだけ人間を殺し、迫害して来たことか!? このような行為は、サタンの仕業以外の何ものでもない。
ところが、主は24節でこう言われた。「このような人達の中にいて、この女(教会)の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなた方に言う。わたしは、あなた方に別の重荷を負わせない」と。確かに彼らは、教理的に間違ってはいるが、一部のカトリック教徒達の愛と奉仕の行いは本物であり、神に対する純粋な信仰、人々に対する愛を保っているのであれば、罪に定められることはないと言われたのである。
サタンの奥深さとは、逆に聖書を用いて人々を迷わすことである。御言葉を使って人を裁き、間違った教理で人を不安と滅亡に陥れるのである。一方、プロテスタント教会も実に様々な教派に分かれており、それぞれが自分達が一番正しいと主張している。その中には自分達の教理や伝統を、聖書よりも上に置いている教団も少なくない。そのような自己流解釈は、決してカトリックだけに見られるものではない。主はいつも私達の信仰の純粋さ、動機を見ておられるのである。
サルデス教会 (宗教改革時代の教会)
サルデスはBC1200年頃から美術工芸の街として栄え、高原に位置する難攻不落の要塞都市として知られていた。ところが、恵まれた自然要塞に安住し、過去に二度BC6年にペルシア、AD3年にローマに征服された。この街にはキュベレという女神を祭った神殿があり、AD17年の大地震以降、この街は二度と甦ることはなかった。教理は正しくても、実行が伴なっていない言行不一致の教会。それがこの教会の問題であった。
現在のプロテスタント教会の柱は、宗教改革の理念を引き継ぎ、「信仰のみ」、「聖書のみ」、「万人祭司」の3つである。私達はこれを当然のことと受けとめているが、実際は、信仰のみと言いながら、救いに条件をつけ、聖書のみと言いながら、教会の伝統や教理を聖書よりも上に置き、万人祭司と言いながら、キリストを証ししていない。それが、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」という意味である。
フィラデルフィヤ教会 (世界宣教時代の教会の象徴)
フィラデルフィヤとは、フィレオー(愛)とアルデフォス(兄弟)という言葉の合成語で、兄弟愛という意味である。BC150年頃に創立され、当時繁栄を極めたギリシアのアテネと並び評された(小アテネ)街。この街で使用されていたコインのデザインは開かれた扉。それは、開かれた福音の扉を意味する。この教会もスミスナと同じく、主の叱咤の言葉は一つもない。今までカトリックの独占下にあった聖書を、世界に宣べ伝えた時代の教会で、ジョージ・ミュラー、スポルジョン、チャールズ・フィニー、ハドソン・テイラー等は、この時代に活躍した人々である。
「ダビデの鍵」とは、「伝道の鍵」という意味。エルヤキムは、南ユダ王国のヒゼキヤ王の家臣で、ダビデの子孫である。フィラデルフィヤの教会には、この、伝道の鍵が預けられていたのである(イザヤ22:22)。その理由は、この教会は非力だが、主の御言葉を忠実に守り、イエスの名を人々に告白していたからである。フィラデルフィヤの教会は、7つの教会の中では規模的には最も小さな教会(家の教会)であった。
人々は大きな教会の大きな出来事、大きなイベントの何か新しい教えを期待するが、その多くは生きているようで、実は死んでいるのである。終わりの時に生きるキリスト者は、たとえ小さな群れであっても、主に拠り頼む、主に忠実である教会である。大きなホールで行なわれるショウ的イベントに参加することで、信仰を求めるのではなく、普段の生活で自分の信仰を証しして行くことが大切なのである。
ラオデキヤ教会 (現代の教会を象徴)
ラオデキヤは工業・商業が盛んで、銀行、商店、劇場、寺院などが立ちんだ、7つの教会があった街の中では、最も経済的に最も繁栄していた街であった。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者(原罪を持った人間生来の姿)であることが分かっていない。」
つまり、迫害されるどころか、何一つ不自由のない経済的に繁栄した教会。しかし、教会生活が生活のアクセサリーと化し、福音が自己啓発や成功哲学に摩り替えられてしまっている。この状態は、「わたしはあなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。」と言われたスミルナ教会と全く対照に位置している。
本書の最大の特徴は、7つの手紙中、この手紙だけが、叱責のみで一つも賞賛がないことである。その理由は、何一つ不自由のない生活故、悔い改めが欠如した自己欺瞞にあった。この教会に対する「なまぬるさ」という表現は、この街には温泉の配水管が通っていたが、源泉から10キロ近く離れていたため、その多くはなまぬるかったという理由による。この教会の現状は、その名(民を喜ばす・民主主義)が示す通り、教会の中に主がおられず、主が戸の前に立って扉を叩いているという姿に象徴される。
彼らの問題は、自分たちには何の問題もないと考えていたことにあった。このラオデキヤの教会が、多くの場合私達が属している地上最後(現代)の教会であり、イエスが再臨される時期に存在している教会である。この教会に宛てられた手紙こそ、私達が最も注意して読まなければならないメッセージである。この教会には、三つの厳しい勧告が(これを買いなさいと)告げられている。
火で精錬された金:練り清められた純粋な信仰。(工業の発展)
白い衣:信仰(赦しと聖め)による正しい行い。(黒い光沢の羊毛)
目薬:聖霊によって目が開かれる。(フィルギアの目薬)
必死で戸を叩いておられる主の声を聞き、扉を開けるのは私達の役目である。「私は愛する者を叱る」とは、主は決して誰も見放してはおられないという意味である。大切なことは、主の御声に耳を傾け、心(霊)の扉を開けること。それをするための努力も能力も必要ない。そうすれば、主の方から、私達の食卓の席に着いてくださり、輝かしい子羊の婚宴の席での祝福の食事が始まるのである!
神からの手紙に対する私達の応答
Remember! (初めの愛を思い出し!)
Repend! (悔い改め!)
Return! (主に立ち返れ!)
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