Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

Awakening House Church (7/31/12)

2012年07月31日 | Good News
夏季集中講座(?年前の受験勉強時代みたい)は、黙示録学びを一度お休みして、『福音理解の基礎』をおさらいしました。先日のリバイバル伝道集会でのアプリケーションと宿題を軸に、福音と伝道の本質を掘り下げる学びをいただきました。

先ずは、良き伝道者として必須の7ポイント。
時間厳守。
相手の立場に立ち、相手の言葉で話す。
筋道立てて話す。(起承転結)
実体のある話をする。(自分の体験談も良いが、有名人の実例が説得力がある)
御言葉に、“足さない!”、“引かない!”、“薄めない!”
話しは必ず励ましと慰めで結ぶ。
祈る。聖霊様の力をいただく。

 クリスチャンと一言で言っても、聖霊様200%で自我を完全に手放した中国リバイバルのリーダーのような方もいれば、世の中と教会半々の二束のわらじタイプ、日曜日だけ聖霊バッチを付けて礼拝するサンディクリスチャンなど、いくつかの段階があります。私たちが目下目指すべきは、真のキリスト者として、頭や心だけでなく、霊で信じてイエス様を主として従い、100%聖霊様に包まれた伝道者としての歩み。その伝道者は、「真理(ほんもの)」を周囲に見せ、世にあふれる偽物との違いをはっきりと現すことができるのです。

 続いて、宿題となっていた『嵐を静めるイエス』と『放蕩息子』の2箇所を取り上げて、神様が私たちに語ってくださる御言葉の中で決して外してならないメッセージの受け取り方と、同時に伝えるべきことを言葉化することを習いました。課題の設問はこれ。

 ルカ8章22-25節の主題を教えてください。
 ルカ15章11-32節の主題を教えてください。
 ルカ15章11-32節で主が私達に問われている具体的な課題を教えてください。


 『嵐を静めるイエス』からは、その話を観察&解釈し、全体の基となる御言葉を見つけることから、この箇所の主題『嵐よりも主を畏れることを知った弟子たち』へ導かれました。イエス様こそが天地を創造された神であるという信仰(信頼)があれば、弟子たちは嵐ごときに慌てふためくことはなかったはず。この出来事を通して、最初は嵐を恐れていた弟子たちが、最後は権威を持って自然を制したイエスを畏れるようになりました。『神を畏れる信仰』を根拠にしてこそ、『神がおられるから大丈夫!』と宣言することができるのです。

 『放蕩息子』からは2つの設問。テーマは何かとは分っていも、その奥にあるイエス様の喜び、父なる神様の御心になかなかたどり着けず、再び登場、えんぢぇる画伯お得意の抽象美術!!

  


 イエス様のたとえ話では、まず状況把握のための5W (When, Where, Who, Whom, What)観察から始まります。

 何時→ファリサイ派の人や律法学者が「イエス様は、罪人と食事をしている」と不平と言った時
 何処で→罪人と食事をしているその場で
 誰が→イエス様が
 誰に→ファリサイ派の人々や律法学者たちに
 何をした→このたとえ話をされた

 また、それぞれのたとえの対象を把握することも大切です。これが解釈のベースとなります。

 父神様
 弟悔い改めた罪人
 兄悔い改めていない罪人(律法学者とファリサイ人)

 今回特に考えさせられたのは、『イエス様の気持ち』。この時、イエス様はどう思っておられたのか?そんな基本中の基本の問いすら、着目していませんでした。イエス様は、悔い改めた罪人と食事を共にして、その関係の回復を『喜んでおられた!!』父なる神様は、死んだと思っていた息子の帰還に大喜びだった!!「御心を教えてください」とか、毎日祈っておきながら、イエス様、神様の切なる思いにはスルーだったことに、大ショック。この基本を逃していたら、次の具体的課題はわかるはずもありません。聖書は、正しい解釈があって初めて正しく応用することができるのです。

 放蕩息子のたとえ話の最後は、兄に対する父の問いかけで終わっています。悔い改めた放蕩息子である弟は父との関係を回復することができましたが、兄の方は未だ失われたままなのです。イエス様のたとえ話しは、いつも結論がありません。「それでは、あなたはどうするのか?」この答えをそれぞれが考え、正しく受け取り、そして従うことで、御言葉が成就へ向けて動き出すのです!

 ここでのイエス様から私たちに提議されているポイントは、「道徳的、律法的に正しい人にどのように伝道するのか?」。日本のリバイバルを祈り、またそのために備える私たちは、この問題提議に今こそ解決の道を見出していかなければなりません。

 さて、次回の学びは、8月9日!このアプリケーションと、「信仰とは?」の未完の宿題から始まります。参加ご希望の方は、コメント欄にアプリケーションを記載してください。共に霊的覚醒、聖霊様充満を目指し、日本リバイバルの準備を整える方、お待ちしております。当日参加できなくても、ウェブサイトでのご参加も大歓迎!ご連絡ください。 email: info@goodnewsstaion.com



GNSのメインページはこちら!

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Awakening House Church (7/19/12) 黙示録4-5章 天上での礼拝

2012年07月26日 | Good News
祭壇にある救いの根拠

血を流すことなしには罪の赦しはあり得ないのです。(ヘブル9:22)

 神はその国々の国民性を大切にしておられる。農耕民族である日本の『水の文化』に対し、遊牧民族であるイスラエルは『血の文化』である。彼らは血に命が宿っていると考え、食事を共にすることは、同じ血で結ばれた同胞関係であることを示す行為である。従って、血による贖い、契約の血というのはユダヤ人にとっては生活に根ざした概念であり、彼らの歴史・文化の土台となっている。

 その価値観は、創世記3-4章の出来事から発生している。アベルとカインの話に注目してみよう。カインは地の産物を神に奉げ、アベルは羊の初子を奉げた。(当時肉食は存在しない)すると神は、アベルの供え物を顧みられたが、カインと供え物は顧みられなかった。それでカインは怒りのあまり、弟のアベルを殺してしまう。一見、意味不明なこの創世記の事件に、人間にとっての『救いの根拠』が、明確に記されている。

 カインは決して、二番煎じの奉げものをしたわけではない。そうであれば、彼は弟を殺してしまうほど怒りはしなかったはずである。彼が殺人にまでに至った理由は、自分の行いが神に拒否されてしまったことによる失望と嫉妬の故である。カインは必死に自分の努力によって救いを得ようとした。だが、もし人が努力によって救われるのであれば、どこに救いの基準を置くべきなのか?また、その救いの基準を置いた途端、そこまで到達出来ない者は皆、滅んでしまうことになる。

 だから神は、たとえ力がなくても、たとえ知恵がなくても、たとえ病んでいても、ただキリストの十字架を仰ぐ者を全て救うことにされたのである。カインは『自己義認』、アベルは『信仰義認』のモデル。犠牲による救いの原型は、エデンの園を追われたアダムとイブを守るために、神が動物の犠牲によって与えられた皮の衣であり(3:21)、アベルが奉げた羊の初子は(4:4)、私達のために十字架に架かられたイエス・キリストの予表である。

 ノアは新天地で一番最初に祭壇を築き(8:20)、アブラハムは旅の先々で最初に祭壇を築いた(12:7、13:8、22:8-9)。しかし、一箇所だけアブラハムが祭壇を築かなかった場所があった。そして彼はそこで問題を起こしてしまったのである。(12:10-20)この祭壇を築くという行為は、神の怒りを宥め、罪の贖いをし、神と和解するという意味であり、この行為を経てはじめて、人生に祝福が与えられることを彼らは知っていた。

 エジプトでファラオに次いでNo2の地位にいたはずのヨセフの子孫達が、400年の間に奴隷になってしまったのは、彼らが祭壇を築くことを忘れてしまっていたからである。だからモーセは出エジプトを果たした後の荒野で最初に祭壇を築いたのである。(出17:15)神に祭壇を築かない(礼拝をしない)者は皆、サタンの奴隷になってしまうのだ。以下、旧約の聖徒達が祭壇を築いた箇所である。

イサク(26:25)
ヤコブ(33:20)
ヨシュア(8:30)
ギデオン(6:24)
マノア(13:19)
イスラエルの民(21:4)
サムエル(上7:17)
ダビデ(下24:18、25)
ソロモン(列上3:4)
ヨシア(歴下35:16)
イエシュア、ゼルバベル(エズラ3:2-3)
ネヘミア(10:34)
イザヤ(56:7、60:7)
アモス(9:1)
マラキ(1:7、2:13)


現代の祭壇

 モーセが神に祭壇を奉げることによる救いの契約の締結を行った時、(出24章)天国の存在が未だ啓示されていないはずの旧約の時代に、黙示録4章6節に登場する天上での礼拝が瞬間現れ、モーセたちは天上での礼拝に参加した。この天上礼拝に至らせたモーセの契約を包括し、全人類のために完璧に備えられた救いの祭壇こそ、イエス•キリストの十字架の血による新しい契約である。

 イエス・キリストが、全人類の罪の身代わりとなって、十字架上で死んでくださったことにより、神の怒りが宥められ、私達はサタンの奴隷から贖なわれ、神と人とが完全に和解することが出来た。故に、私たちはこのイエス・キリストを通して、創造主である神の元へ帰ることが出来るようになったのである。

傷や汚れのないキリストの尊い地によるのです。(Iペテロ1:19)

御子イエスの血によって、あらゆる罪から清められます。(Iヨハネ1:7)

キリストの血によって近い物となったのです。(エペソ2:13)

更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル9:11-12)

キリストの血は、私達の良心を死んだものから清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか?(ヘブル9:14)

自分の身体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなた方が成すべき礼拝です。(ローマ12:1)

 この地上における人間のあらゆる営みの中で、最も尊く、最も価値があり、最も崇高な行為。それは神への礼拝である。私達クリスチャンは、「都合が悪い」、「子供の食具合が悪い」から礼拝に行かないのではなく、だからこそ、礼拝をすべきである。それが私達の『人生の祝福の源』だからである。

 この世でどんなことが起きようとも、イエスがお生まれになった時から今日に至るまで、天上では礼拝がずっと礼拝が続けられている!つまり、現世においても、来世においても、輝ける勝利は既に神と私達の元にあるのだ。ハレルヤ


コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Awakening House Church

2012年07月26日 | Good News
 AHC Awakening House Church

 今、多くの教会は、教会の枝となって懸命に奉仕している人達は全体の二割。その他はお客さんの状態です。

 しかし、それは主が望んでおられる教会の姿ではありません。

 教会とは、この世の権威や価値観の管轄外にある神の国の領事館です。

 そこは、互いに祈り合い、信頼し合い、助け合える関係で成り立っています。

 その調和と霊的一致は、互いの賜物を引き出すことによってはじめて生まれます。
 

 そして、御言葉の理解と信仰の成長は、ほぼ比例すると言って良いでしょう。

 何故なら、主と私達との関係は御言葉によって結ばれ、その言葉を正しく理解することは、成長の為に必要不可欠だからです。

 神の御心を深く知ること、真理を新たに発見することによって生まれる感動は、この世が与える喜びとは全く異質のものです。

 このような霊的交わりと学びの場が、クリスチャンライフの中心となっていなければなりません。

 
 日本のリバイバル(霊的戦い)の先頭には、主が立たれます。

 しかし、戦士が整えられなければ主はリバイバルを起こすことが出来ません。

 従って、霊の戦士である私達に課せられていることは、一人一人が戦死として整えられること。

 大教会をつくることでも、大きなイベントを企画することでもありません。

 今、日本に必要なのは、『家の教会』であり、福音を人々に語ることが出来る『万人祭司』です。

 事実、それが日本には決定的に欠けており、そこを通過して日本でリバイバルが実現することはありません。
 

 私達には一人一人、主から与えられた使命があります。

 その使命を遂行する方法は違っていても、その究極的な目的は一つだけ。

 それは、一人でも多くの魂の救いです。

 真理を発見した喜び、人が救われた喜び、そして天で主と共にいる喜び。

 これ以上に人生を賭ける価値のあるものがあるでしょうか?

 どうか、日本のリバイバルのために立ち上がってください。

 AHCの発展が、日本のリバイバルに小さな一歩を踏み出すことになるのです。

 共に主の御心を実践して行きましょう! (田中啓介牧師)




GNSのメインページはこちら!
 


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

揺るがない希望

2012年07月25日 | Good News
日本による日本人のためのリバイバル企画第二弾!!

来る8月3日、GIVICにてリバイバル集会を開催致します。
今、日本人が忘れてしまっている日本人としてのアイデンティティ回復が、
日本のリバイバルに必要不可欠であることを、
現在日本で巡回伝道中の田中啓介師をお迎えして熱く語っていただきます。
クリスチャンは勿論、ノンクリスチャンの方も聞き所満載の『日本人論』。
今こそ私達は耳を澄まし、力を頂く時です。
ご都合をお合わせの上、ぜひご参加ください!


タイトルは、

大和魂と日本のリバイバル




詳細はこちらをクリック!

8月3日(金) 7:30om~9:30pm
 『Friday Gospel Night』
 場所:Gospel Venture International Church
    17811 S Western Ave Gardena, CA 90248
 連絡:714-287-9324(担当:Ako)



GNSのメインページはこちら!

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

集会のお知らせ

2012年07月24日 | Good News
どなたでもご参加出来ます。


7月28日(土) 5:00~8:00pm
 『カリフォルニア居住の日本人クリスチャンが日本リバイバルのために何が出来るのか?』
 場所:20 Cabazon Irvine CA 92602
 連絡:818-243-3810 (担当:Megu)


7月31日(火)10:00am~14:00pm
 『よい子の黙示録』
 場所:107 S,Emerald PL Anaheim, CA 92804
 連絡:714-287-9324(担当:Ako)
  

8月3日(金) 7:30om~9:30pm
 『Friday Gospel Night』
 場所:Gospel Venture International Church
    17811 S Western Ave Gardena, CA 90248
 連絡:714-287-9324(担当:Ako)



GNSのメインページはこちら!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武士道と福音 <The Soul of Japan>

2012年07月22日 | Good News
 「最近、エンジェルの話って黙示録ばっかなんですよ~。昔は普通~(?)のほのぼのした話もしていたんですけどねぇ…」と、先日の集会でアコから言われてしまったので、明日の礼拝は黙示録から少し方向を変え、大和魂、つまり武士道と福音”について語ることにした。

 と、某所での予告とは裏腹に「ほのぼの」からはほど遠く、「武士道の模範こそイエス・キリストであり、福音こそが武士道の完成形!! クリスチャンなら知らねばならぬ史上の大和魂の実践者たちに学ぶ、日本人の福音はこれだ!」と叫ぶいつも通り(いえ、いつも以上かも)の超ホットなメッセージ!レポートアップの前に、ダイジェスト動画をどうぞ!!










GNSのメインページはこちら!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よい子の黙示録Ⅲ 「天上での礼拝」

2012年07月19日 | Good News
よいこの黙示録、第三回目講義のテーマは「天上での礼拝」。黙示録の4章5章から、「礼拝すること」と「救いの意味」について学びました。第一回目の学びから、主が呼び集められ、集められる人が増やされ、それぞれが学ぶ情熱を受け取っています。

参加したお一人は、「夏中に黙示録22章、行きましょう!」とやる気満々!(「ほんとにィ」と思う私???)
えんぢぇる講師も、「よい子の」を忘れて熱く語る150分!(脱落ギリギリの私???)
主の御心がなりますように、と祈ります。(私がどうあれ、主の御言葉は止まらない。。。ハレルヤ

情熱溢れるレポートはご指名(使命?)3名が分担して執筆中。

読んだらすぐに教会へ駆け込み、礼拝したくなってしまうよう、神様の思いを伝えたいと思い、また次回の学びに更に新しい仲間を得られ、主の御言葉が広がって行くことを大いに期待しています。近日公開!

「4-5章の概略(天上での礼拝)」
「第一、第二、第三の天の関係」
「祭壇と礼拝に現れる救いの根拠」

という内容になる予定です。お楽しみに!!




☆エンジェル田中のホボ毎日記はこちら!



GNSのメインページはこちら!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次回「よい子の黙示録Ⅲ」お知らせ

2012年07月17日 | Good News
 次回7月19日の「よい子の黙示録Ⅲ」のテーマは、「天上での礼拝」です。

 前回「中国宣教レポート」の続きを行うと予告しましたが、恵さんが現在帰国中で参加できない為、延期することにしました。

 ですので、4章と5章の両方を読み、課題と共に次回の学びに臨んでください。

 また、「よい子の黙示録講座」は、オープン・パブリックですので、どなたでも参加可能です。

 但し、自分のことだけで伝道する気持ちのない人は、この学びからは何も得ることは出来ません。

 参加を希望される人に、予習と伝道は必須です。
 

 7月19日(木)10:00am~1:30pm
 11Del Carlo Irvine CA 92606
 連絡:714-287-9324(担当:キム明子)



GNSのメインページはこちら!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よい子の黙示録Ⅲ(4-5章 予告)

2012年07月13日 | Good News
 「 イエスは生ける水、この水をもっともっといただかなければ!という思いでいます。
  見ておくと理解に役立つ聖書の箇所があると思うのですが、お示しいただけますか?(めぐみ)」


  黙示録の4-5巻には、天上での礼拝について記されてあります。

 その光景が、二つの巻に亘って記されているには理由がありますが、その各巻のタイトルは何であるかを思い巡らせながら読んでください。

 また、イザヤ6章、エゼキエル1章と10章などは、前もって読んでおく必要があるでしょう。

 しかし、天上での礼拝の様や、ケルビム、セラフィムなどに関する詳細について調べることは、意味はないとは言いませんが、第一義的な理由にはなりません。

 それを知らなければ天国に行けないわけではありませんし、どんなに私たちが考えようが、それは私たちの想定を遥かに超越した世界であることは間違いありませんし、何より、私たちはいつか必ずその光景を実際に見ることが出来るのですから。

 それより、もっともっと大切なことがあります。

 天上での礼拝光景が、私たちに示されている理由とその目的です。

 
 一つ、黙示録理解の奥義をお伝えします。


 十字架の預言で有名な「詩編22章」の、特に25節以降を黙想し、祈りつつ、読んでから、黙示録4-5巻に臨んでください。

 この行程を経なければ、この巻が私たちに提示されている本当の意味を知ることは出来ないと私は確信しています。


 また、4巻に記されている天上での礼拝光景は、旧約(出エジプト記)に一瞬ですが、登場します。

 実は、ここが最も大切な旧約との関連箇所であり、今回特にアプリケーションすべき所です。

 黙示録と出エジプト記との関連は、一般的にはあまり重要視されていないようですが、正しい黙示録理解には必要不可欠です。

 
 良い機会ですので、出エジプト記全体を読みながら、その箇所を探して見てください。

 旧約に初めて現れた天上での礼拝光景。

 その意味が、今、私たちの礼拝と救いの意味に深くつながっています。

 
 次回、学びの時に期待しつつ。(田中)



GNSのメインページはこちら!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よい子の黙示録Ⅱ in Los Angeles

2012年07月10日 | Good News
Good News Station 聖書熟(塾ではない)に参加してくれた皆さん、熱心に聴いてくれて感謝でした。
 今回学んだことのアプリケーションと、この学びに期待することを、コメントに投稿しておいてください。
 それが確認出来た段階で次に進みます。次回は今月19日(木)10:00am~2:00pm アナハイで行う予定です。 詳細はまた後ほど。


黙示録を学ぶ理由
 初代教会と現代の教会の力の差はどこにあるのか? 彼らが待ち望んでいたのは、死後の世界で会うイエスではなく、再びこの地上に来られるイエスであった。この世の悪が滅ぼされ、新しい神の御国で神と共に生きる。その燃えるような再臨への思いが、初代教会の原動力であった。

 私達はこの信仰告白を、実生活の上において回復しなければならない。再臨は論議するものではなく、キリスト者が歩むべき信仰生活の実現なのだ。大切なことは、終末に関する詳細な知識を得ることではなく、キリストにある真の希望に目覚め、主と共に歩む霊的生活の刷新である。キリスト者にとっての「終末」は、論議の対象などではなく、信仰生活の指針そのものなのだ。

 さて、プロテスタント教会には、様々な教理・教派が存在しているが、黙示録が語る終末という概念において、次の三つの指針においては全てに共通している。

イエス・キリストがもう一度、この地上に来られる。
そこでキリストを主とする者とそうでない者とが二つに分割される。
サタンの支配が終わりを告げ、神の国が到来する。

聖書が裁きを語る3つの理由
「裁き」があることは事実だから。
 イエス・キリストが2000年前にイスラエルの地に存在し、十字架に架けられたのは事実。そして、復活されて天に昇り、再臨を約束されたことも事実。「裁き」は再臨と同時に行われる。その「裁き」によって、神の御国が始まるのである。

警告しなければわからない人がいるから。
 聖書は「裁き」が現実にあることについて全人類に警告していると同時に、そのことを知っているクリスチャンに対しても、日常生活に埋没することにないようにと警鐘し続けている。神の前において、半分クリスチャン、もう少しでクリスチャンといった中途半端な立場はあり得ない。裁きの時が来てから、それに気付くのでは遅すぎるからだ。

裁きの問題は既に解決済みだから。
 罪による裁きの問題は、すでにイエス・キリストの十字架によって解決されている。キリストを信じる者は決して有罪の判決を受けることはない。何故なら、罪に対する罰は、キリストの十字架によって執行済みだからである。従って、私達の人生における最も重要な決断は、罪をどうするかではなく、キリストに対する態度をどうするか、なのである。


黙示録は聖書の総括
 黙示録は、神の約束と預言の成就であり、全66巻の完結編(旧約から348回引用)である。黙示録がなければ、聖書は結論のない書物になってしまう。黙示録を読まずして、聖書を読んでいることにはならない。また、聖書の総集編である黙示録は、聖書全体とリンクしており、黙示録だけを読んで意味を理解することは不可能。黙示録を正しく理解するためには、聖書全体をバランス良く読み、総合的に理解することが要求される。


黙示録の記述はその通りに起こる
 黙示録には、人間の3分の1を殺す2億の軍隊が登場するが(9:15-16)、本書が記された2千年前の全世界人口は1億人足らず、剣と弓による戦争で、2億の軍隊が人間の3分の1が殺すことなど到底理解不可能で、人々はこの記述は何かの喩えであると考えていた。しかし、第二次世界大戦と核開発以来、黙示録に対する理解が大きく変わった。黙示録に記されている数字は、既に現実のものとなっている。聖書は自分の先入観や道徳観念を入れないで、先ずそのまま読むことが大切である。聖書が、地上の3分の1が焼けるというのなら、文字通りそうなり、海の3分の1が血に変わると言うのなら、文字通りにそうなるのである。


黙示録に人間の類推は通用しない
 黙示録はイエス昇天後65年、エルサレム崩壊から35年後、最後に生き残っていた12弟子の一人、エペソ教会の長老ヨハネが流刑先のパトモス島で見た幻を、神の霊によって記した書物である。聖書には約40人の著者がおり、各巻にはそれぞれ筆者の特徴を読み取る見ることができる。しかし、この黙示録に関しては、人間の知識、理性、感情、類推が入り込む余地が一切ない100%神の霊感によって記されている。

 黙示録には様々な解釈の方法があるが、代表的なものとしては、これは2千年前に起こった出来事だと考える「過去派」、教会史全般の中で起こることだと考える「歴史派」、将来的に起こることだと考える「未来派」、そして、黙示録にある記述は歴史的事件とは関係なく、神の世界が象徴的に記されていると考える「霊解派」がある。しかし、黙示録の意味を、そのいずれかに限定させてしまうことは、明らかな間違いである。

 1章19節に、「見たこと(1章)を、今あること(2-3章)を、今後起ころうとしていること(4-19章)を書き留めよ」 とあるように、黙示録は、過去に起こったこと、現在起きていること、これから起こることが、立体的(螺旋状)に記されている。例えば、7つの教会は、黙示録が執筆された当時に、西アジア地方(現在のトルコ)に現存していた教会であり、また、2千年間の各時代を象徴する教会であり、また、現在地上に存在している教会のタイプでもあるのだ。サタンは人間が聖書を読むことをあらゆる手段を使って、私達が聖書を読むことを阻止しようと動く。特に読んでほしくないのが黙示録。何故なら、黙示録には、サタンの完全な敗北と神の国到来が明確に示されているからである。黙示録を難しい・恐ろしい等の理由で敬遠しているのは、既に悪魔の策略に嵌まっているということを、全ての教会・クリスチャンは認知すべきである。



7つの教会への手紙
 これら7つの教会は全て、困難な問題に直面していた。主はその全ての教会、全ての信徒の問題の本質を鋭く見抜かれ、戒め、叱咤し、慰め、励まし、そして手紙の最後を、「勝利する者への約束」で結ばれた。主は、教会が地上における信仰生涯を全うし、新しいエルサレムへと到達するように、今日も導いておられる。黙示録は、7(神の完全数)という数字で構成されているが、この手紙も7つの内容で構成されている。

受信者
 各教会には、神の使信を伝える「天使」が存在しており、7つの書簡は全て、「~の教会の天使にこう書き送れ」という文頭で始まっている。

送信者
 これら7つの手紙の差出人であるイエス・キリストの権威の表明。

霊的状態
 イエスは、「わたしは知っている」と、全ての教会の霊的状態を明らかにされる。

賞賛と叱責
 イエスは、各教会の霊的状態に対して、賞賛し、叱責される。7つの教会の内、スミルナとフィラデルフィアは賞賛され、エフェソ、ペルガモ、ティアティラ、サルデスの4つは賞賛と叱責の両方があり、ラオデキアは叱責のみで、一つも誉められていない。このラオデキアの教会が、現代を象徴している教会である。

再臨の勧告
 イエスは「わたしは来る」という約束通り、もう一度、この地上に戻って来られる。

“霊”が告げることへの勧告
 「耳のある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」7つの手紙は全てこう締めくくられている。「耳ある者」とは、神の御旨を求め、聞き従う者のこと。教会にけるクリスチャンの言動・活動は、各自の自由意志に任されているのである。

勝利者への約束
 神の御声に聞き従った者(勝利者)への報酬が、全ての教会に約束されている。


エペソ教会 →初めの愛を忘れていないか?(△)
スミルナ教会 →恐れるな!死に至るまで忠実であれ!(◎)
ペルガモの教会 →信仰的妥協をしていないか?(△)
テアテラの教会 →不品行・偶像礼拝に陥っていないか?(△)
サルデスの教会 →信仰を建前にしていないか?(△)
フィラデルフィアの教会 →主を証し続けよ!(◎)
ラオデキアの教会 →自己欺瞞に陥っていないか?(X)
 

エペソ教会 (初代教会を象徴)
 エフェソはアンティオケ、アレキサンドリアと並ぶ、地中海地域三大都市の一つで、パウロが三年間滞在して造り上げ、ヨハネが長老を務めていたと言われるこの教会は、当時西アジア地方(現在のトルコ)に点在していた諸教会のヘッドであった。正しい信仰理解、よく奉仕し、聖書中、最も成熟した大人の教会であったこのエペソ教会に、主は「一つだけ言っておくことがある」と言われた。それは、「あなたは初めの愛から離れてしまった(2:4)』という根本原理からの逸脱であった。主はいつも私達の動機を見ておられる。神にとって愛がなければ無に等しく、愛がなければ、何の益にもならない。(Ⅰコリント13:2-3)人間社会は、結果さえ良ければ全て良しと判断するが、主はいつも何をしたのか(Doing)ではなく、どうであったのか(Being)ということを重点に見ておられるのである。


スミルナ教会 (迫害期の教会を象徴)
 スミルナはエペソの北西約56キロにある商業都市として栄えた美しい港町である。スミルナという言葉は「没薬」を意味し、没薬は殉教を表している。スミルナ教会は殉教者の教会である。この手紙には叱咤の言葉は一つもなく、また、7つの手紙の中で最も短い。スミルナ教会に対し主は長く話す必要はなかったのである。ただ主はこの教会に、「死に至るまで忠実でありなさい」と書き送られた。真のクリスチャンは、これからの時代に迫害に遭うので、その苦難を耐え忍びなさいと言っておられるのである。

 しかし、確かにクリスチャンには試練の時が与えられるが、その期間は定められており、長くは続かない。ダニエル1章12節に、「どうか私たちを10日間試してください」とあり、また、復活した主が昇天された後、弟子達はエルサレムに留まり、聖霊のバプテスマが降るまで、10日間彼らは一心に祈り続けた。彼らにとって、その試練の時が必要だったからである。10日間というのは、そういう意味である。

 スミルナ教会には、ヨハネの弟子で、ポリュカルポスという教会教父の殉教の話しが残されている。彼はユダヤ人達から告訴され、ローマに対する反逆罪で火刑に処せられた。当時90歳近いポリュカルポスにさすがのローマ兵がこう言った。「我々はあなたのような老人を殺したくはない。イエスを知らないとさえ言えば、それで放免してやる」と。しかし、ポリュカルポスは、「私は80年間近く主にお仕えして来たが、主は一度として私を拒むことはなさらなかった。その主を、どうして今更私が拒むことが出来ようか!」と、自ら殉教の死を選んだのである。


ペルガモ教会 (ローマ監督時代の教会を象徴)
 ペルガモは、「塔」と「結婚」という意味があり、政治と宗教が一体となった教会という意味。つまり、ローマ帝国と結婚した教会である。この教会には、「バラムの教え」と、「ニコライ派の教え」という大きな問題があった。それに対して主は、「悔改めよ」と警告しており、この「悔い改めよ」という言葉は、スミルナとフィラデルフィアの教会以外に全て登場する。

 バラムとは、民数記22-24章に登場する人物で、当時イスラエルの敵国だったモアブの王からイスラエルを呪わせるために雇われた偽預言者である。しかし、神の加護により、イスラエルを呪うことが出来ないことが分かったバラムは、イスラエルの兵舎にモアブの女性を送るようモアブの王に提言し、さらに偶像まで浸透させ、イスラエルを破滅に追い込んだ。つまり、バラムの教えとは、教会を破滅に導くサタンの画策・知恵のことである。

 ニコライとは、「民が勝つ」という意味で、人権主導型主義によるこの世と迎合した世俗的信仰、伝道もしない、弟子訓練もしない、水で薄めたような骨抜きの信仰のこと。エペソ教会は、このニコライ派の教えを退けていたが、ペルガモ教会は、これと妥協してしまっていた。しかし、そのような堕落した中にあっても、イエスは信仰を守り通し、勝利を得るものは、白い小石を与えようと言われた。この白い小石とは、当時の裁判に使われていた無罪の証明であり、主の十字架における無罪の宣言である。(ヨシア8:32)


ティアティラ教会 (中世暗黒時代の教会の象徴)
 ティアティラとは、「女性の冠」という意味で、使徒16章に登場する紫布商人・ルディアが住んでいた街である。この街は繊維産業などの商業が盛んで、この街で仕事をするためには、街で開催される諸々の行事、儀式、祭りに等に参加することが義務付けられていた。この教会には、「愛、信仰、奉仕、忍耐」があったにも係わらず、その裏で恐ろしい偶像礼拝と宗教的姦淫が行なわれていた。この愛と姦淫の信じ難いギャップが、このティアティラ教会の特徴である。このことは、ローマカトリックのことを考えるとよく分かる。この信じ難いギャップは、ローマカトリックの現状そのままである。

 殉教した26聖人をはじめ、マザー・テレサや井深八重などのカトリックの人たちの愛と奉仕に嘘はない。社会に出て行き、神の愛を人々に示しなさい、貧しい者を助けなさい、これは、神の御心に叶う実に素晴らしい愛の実践である。しかしその反面、ローマ法王という単なる人間を神の代理としたり、イエスの母マリアを崇拝したり、7つの奇跡をつくったり、人間に聖人の位と付けたり等々、完全に間違った教理を捏造している。

 更に、カトリックが中世の暗黒時代において行って来た宗教裁判や魔女狩りほどサタン的な光景は、この地上には存在しなかった。彼らが聖書を独占し、自分達の権力のために利用し、また間違った教理によって、今迄どれだけ人間を殺し、迫害して来たことか!? このような行為は、サタンの仕業以外の何ものでもない。

 ところが、主は24節でこう言われた。「このような人達の中にいて、この女(教会)の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなた方に言う。わたしは、あなた方に別の重荷を負わせない」と。確かに彼らは、教理的に間違ってはいるが、一部のカトリック教徒達の愛と奉仕の行いは本物であり、神に対する純粋な信仰、人々に対する愛を保っているのであれば、罪に定められることはないと言われたのである。

 サタンの奥深さとは、逆に聖書を用いて人々を迷わすことである。御言葉を使って人を裁き、間違った教理で人を不安と滅亡に陥れるのである。一方、プロテスタント教会も実に様々な教派に分かれており、それぞれが自分達が一番正しいと主張している。その中には自分達の教理や伝統を、聖書よりも上に置いている教団も少なくない。そのような自己流解釈は、決してカトリックだけに見られるものではない。主はいつも私達の信仰の純粋さ、動機を見ておられるのである。


サルデス教会 (宗教改革時代の教会)
 サルデスはBC1200年頃から美術工芸の街として栄え、高原に位置する難攻不落の要塞都市として知られていた。ところが、恵まれた自然要塞に安住し、過去に二度BC6年にペルシア、AD3年にローマに征服された。この街にはキュベレという女神を祭った神殿があり、AD17年の大地震以降、この街は二度と甦ることはなかった。教理は正しくても、実行が伴なっていない言行不一致の教会。それがこの教会の問題であった。

 現在のプロテスタント教会の柱は、宗教改革の理念を引き継ぎ、「信仰のみ」、「聖書のみ」、「万人祭司」の3つである。私達はこれを当然のことと受けとめているが、実際は、信仰のみと言いながら、救いに条件をつけ、聖書のみと言いながら、教会の伝統や教理を聖書よりも上に置き、万人祭司と言いながら、キリストを証ししていない。それが、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」という意味である。


フィラデルフィヤ教会 (世界宣教時代の教会の象徴)
 フィラデルフィヤとは、フィレオー(愛)とアルデフォス(兄弟)という言葉の合成語で、兄弟愛という意味である。BC150年頃に創立され、当時繁栄を極めたギリシアのアテネと並び評された(小アテネ)街。この街で使用されていたコインのデザインは開かれた扉。それは、開かれた福音の扉を意味する。この教会もスミスナと同じく、主の叱咤の言葉は一つもない。今までカトリックの独占下にあった聖書を、世界に宣べ伝えた時代の教会で、ジョージ・ミュラー、スポルジョン、チャールズ・フィニー、ハドソン・テイラー等は、この時代に活躍した人々である。

 「ダビデの鍵」とは、「伝道の鍵」という意味。エルヤキムは、南ユダ王国のヒゼキヤ王の家臣で、ダビデの子孫である。フィラデルフィヤの教会には、この、伝道の鍵が預けられていたのである(イザヤ22:22)。その理由は、この教会は非力だが、主の御言葉を忠実に守り、イエスの名を人々に告白していたからである。フィラデルフィヤの教会は、7つの教会の中では規模的には最も小さな教会(家の教会)であった。

 人々は大きな教会の大きな出来事、大きなイベントの何か新しい教えを期待するが、その多くは生きているようで、実は死んでいるのである。終わりの時に生きるキリスト者は、たとえ小さな群れであっても、主に拠り頼む、主に忠実である教会である。大きなホールで行なわれるショウ的イベントに参加することで、信仰を求めるのではなく、普段の生活で自分の信仰を証しして行くことが大切なのである。


ラオデキヤ教会 (現代の教会を象徴)
 ラオデキヤは工業・商業が盛んで、銀行、商店、劇場、寺院などが立ちんだ、7つの教会があった街の中では、最も経済的に最も繁栄していた街であった。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者(原罪を持った人間生来の姿)であることが分かっていない。」

 つまり、迫害されるどころか、何一つ不自由のない経済的に繁栄した教会。しかし、教会生活が生活のアクセサリーと化し、福音が自己啓発や成功哲学に摩り替えられてしまっている。この状態は、「わたしはあなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。」と言われたスミルナ教会と全く対照に位置している。

 本書の最大の特徴は、7つの手紙中、この手紙だけが、叱責のみで一つも賞賛がないことである。その理由は、何一つ不自由のない生活故、悔い改めが欠如した自己欺瞞にあった。この教会に対する「なまぬるさ」という表現は、この街には温泉の配水管が通っていたが、源泉から10キロ近く離れていたため、その多くはなまぬるかったという理由による。この教会の現状は、その名(民を喜ばす・民主主義)が示す通り、教会の中に主がおられず、主が戸の前に立って扉を叩いているという姿に象徴される。

 彼らの問題は、自分たちには何の問題もないと考えていたことにあった。このラオデキヤの教会が、多くの場合私達が属している地上最後(現代)の教会であり、イエスが再臨される時期に存在している教会である。この教会に宛てられた手紙こそ、私達が最も注意して読まなければならないメッセージである。この教会には、三つの厳しい勧告が(これを買いなさいと)告げられている。

火で精錬された金:練り清められた純粋な信仰。(工業の発展)
白い衣:信仰(赦しと聖め)による正しい行い。(黒い光沢の羊毛)
目薬:聖霊によって目が開かれる。(フィルギアの目薬)

 必死で戸を叩いておられる主の声を聞き、扉を開けるのは私達の役目である。「私は愛する者を叱る」とは、主は決して誰も見放してはおられないという意味である。大切なことは、主の御声に耳を傾け、心(霊)の扉を開けること。それをするための努力も能力も必要ない。そうすれば、主の方から、私達の食卓の席に着いてくださり、輝かしい子羊の婚宴の席での祝福の食事が始まるのである!   


神からの手紙に対する私達の応答

Remember! (初めの愛を思い出し!)
Repend! (悔い改め!)
Return! (主に立ち返れ!) 



GNSのメインページはこちら!
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする