本書は、エリヤが活躍した時代から、北王国がアッシリアに、南王国がバビロンに滅ぼされる迄の約250年間(BC850〜600年)の歴史で、聖書全体から見ても非常にエピソードが豊富な書巻である。しかし大切なことは、やっと400年間の奴隷生活から解放され、神の約束の地にやっと辿り着き、イスラエル国家をやっと創設したのもつかの間、国は二つに分裂し、今度はバビロンの奴隷にされてしまう所で本書が終わっている事である。私達はこのようなイスラエルの歴史の背後にある霊的教訓を学び、それを私達の人生に適応させることが必要である。
イスラエルの歴史において、神の奇跡が頻繁に起きた時代は大きく3つの期間に限られる。1つはモーセが活躍した出エジプトの時代、2つ目はエリア・エリシャが戦ったこの列王記の時代。そしてイエス・キリストの時代である。その目的を一言で言えば、“偶像礼拝と戦い”である。
神はこの時代に、民を悔い改めに導くさために、預言者を派遣された。その北王国 代表が、エリヤとエリシャであり、南王国がイザヤとエレミアである。彼らに託されたメッセージは、“神に従えば国は栄え、神に反すれば国は滅びる。外国に頼るのではなく主に信頼せよ”特にこの時代に、イザヤによってキリストの十字架の救いと、エレミアによってキリストによる新しい契約(福音)の預言がされた事は特筆される。
また、エリシャが行なった10の奇跡の内、4章42-44節に記されている“パンの奇跡”は、4つの福音書全ての登場する“5千人の給食”の奇跡のモデルであり、“ナアマンの癒しの奇蹟”は、異邦人であっても、神の前にへりくだり、御言葉に従順に従えば、救われるという、キリストの福音の原則につながる奇跡である。
彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。(23章25節)
ヨシアは、ソロモン以降の王様の中で、神から最大級の賛辞を与えられている王である。ところが彼は、何の意味もない戦いで、非業の死後を遂げてしまう。このように、私達の人生には、この世の知恵ではどうにも理解不能で、計り知る事が出来ない事が起きて来る。ただ、神の目的は、一人でも多くの魂の救いであって、それの計画遂行のために、私達が神にどのような形で用いられるのか?それは神にしか分からない。
神を愛する者達、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私達は知っています。(ローマ8章28節)
「共に」とは、「神の計画に従って召された者たち」が、「神の計画に従って召された者たち」のために働く。つまり、他の誰かの救いのために、自分の人生が用いられる。それが、「万事相働きて益と成す」という意味なのである。
従って、一見無謀に思えるヨシアの死も、実は神の計画の一部として、民全体の救いの為に用いられた。何故、ヨシアの死を早める必要があったのか?それは私達には分からない。しかし、大切なことは、自分の頭で納得出来るか・出来ないかではなく、神の計画は必ず時に叶って成就するのだという事を知り、神の愛と正義に信頼する者として、その事実を謙虚に受け止める事にある。
神の視点による歴史的・時間的スパン。私達にはその時は分からないが、時が来て、歴史の点と点が結ばれた時、そこにイスラエルの歴史の経過全般にわたって、人々を悔い改めさせ、祝福に導くために神が働かれていた意図を知ることが出来る。イスラエルの民を悔い改めと救いに導こうとしておられる神と、それを必死で阻止しようとするサタンとの霊的戦い。今、その戦いが、終末時代に向け、佳境に入って来ているのである。
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