Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

Choosing Joy !!

2016年11月28日 | Good News
人生結局は、常識に従って生きるか、聖書に従って生きるか、Going My Way か Going God’s Way かのどちらか。

自己流に歩めば、その道は広くとも、最後は滅びに至り 神様流に歩めば、その道は狭くとも、必ず永遠の命へと至る

そのような人生に導いてくれるのは正に聖霊の力。よって、クリスチャンにとって最も必要なことは、「聖霊に満たされなさい」この一言に尽きる。



では何故、私達は、聖書を細部にわたって読み、学ぶ必要があるのか?

それは、神様から与えられた人生を、豊かに生きるためである。

歴史を知っている 物事の道理が分かる 人間関係に聡い等々・・

その意味において聖書は、人生を豊かに生きるための実に格好のテキストなのである。


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「自分の十字架」30分de一巻 Intermission

2016年11月16日 | Good News
今日は、30分de一巻の Intermission “キリストの弟子とは?”イエス様が弟子達に「本当にわたしの弟子になりたいのならこうしなさい」と語っておられる5箇所の福音書について語ります。

そのキーポイントとなる言葉が「自分の十字架を背負って」です。これはノンクリスチャンの方々も使われる使う言葉ですが、多くの場合“自分の十字架”とは、生涯、自分が背負い続けなければならない過去に自分が犯した過ちのことを指しています。例えば、自分に隠し子がいたとか、過去人を殺(あや)めてしまったとかです。

また、多くのクリスチャンの人たちは、クレネ人シモンのように、イエス様の十字架を共に担いで行くことだと、考えていますが、それは正しい解釈でしょうか?聖書の御言葉を追いながら確認して行きましょう。

マルコ:8:33-35
イエスは振り返って、弟子達を見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子達と共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

マタイ16:23-25 
イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」 それから、弟子達に言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私の為に命を失う者は、それを得る」

ルカ 9:21-23
イエスは弟子達を戒め、このことを誰にも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。それから、イエスは皆に言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」

マタイ10:34-39
私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。 こうして、自分の家族の者が敵となる。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。 

ルカ14:25-27
大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、誰かが私の元に来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない」

このイエス様のメッセージの対象は全て弟子達に対してです。(マルコ8章、ルカ14章は群衆も含む)そして、これら5箇所全てに共通する言葉は“自分の十字架”です。“私の十字架”ではありません。従って、「イエス様の十字架を共に担う」という解釈は誤りです。 私達はイエス様から救われた側で、救う側ではない事は言うまでもありません。全人類を救済した十字架の業を人間が担える訳がないからです。

また、5箇所の文章の目的語は全て「従いなさい」で、上記の3つの言葉は、「本当にわたし従いたいのなら」という前提で語られていますので、“自分の十字架”とは、真にイエス様に従うための具体的な方法であることが分かります。では、「自分の十字架」の意味について、ローマ書6章8節の御言葉を見てみましょう。

私達の古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならない為であると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私達は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

つまり、“自分の十字架”とは、過去に犯した過ちのことではなく、私達の内に生き続けている自分の古い自我であることが分かります。イエス様の十字架によって罪が滅ぼされ、クリスチャンには永遠の命が与えられているのですが、肉体を持ってこの世に生きている以上、私達の中には古い自我が依然として残っている。ですから、クリスチャンにはクリスチャン特有の葛藤が生じて来ます。そのことをパウロはこう告白しています。

私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まない事をしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則の虜にしているのが分かります。「私は何と惨めな人間なのでしょう!死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。この様に、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(ローマ7:19-25)

さて、ここから適応に入ります。私達は人生における様々な局面において、自分の思いか、神様の思いか、その選択を迫られます。そこでイエス様は、「それがあなたにとって損をするような事であったとしても、信仰的判断をしなさい。それが結果的には真の幸いへと至る道なのだよ」と、私達に言われておられます。

全て、疲れた人、重荷を負っている人は、私の所に来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

多くの人達は、クリスチャンになると生活において様々な事が制約されると恐れ、躊躇しています。また、クリスチャンになったら、クリスチャンになる前より、人生に悩むようになったと、言う人もいます。ですが、このマタイ11章の御言葉にありますように“イエス様の荷は軽い”のです。ですから、もしあなたがクリスチャンとして歩む事が重いと感じているのなら、それは自分が重いと思い込んでいるか、イエス様の荷ではない荷を抱え込んでいるか、そのどちらかなのです。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得る。(マタイ10:39 )

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私の為に命を失う者は、それを得る。(マタイ16:25) 

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 (マルコ:8:35)

“戦場において他者を守ることが出来る者は、自分を守る事へとつながり、自分の保身ばかり考えている者は結果的に身の破滅を招く”これは武士道にもつながるこの世の普遍的な価値観です。天地創造の神様に従って生きることは、自然の法則に従って生きることであり、それは永遠の命へとつながる生き方なのです。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。(マタイ10:37)

もし、誰かがわたしの元に来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 (ルカ14:26)

 自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。(Iテモテ5:8)

人の救いを説く福音が、伝道のためには親族を犠牲にしても構わない等と、教えるはずはありません。ルカ14章の「これを憎まないなら」の「憎む」は、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(マラキ1:2-3、ローマ9:13)の「憎む」で、これは、カインとアベル、イシマエルとイサク、エサウとヤコブ、マナセとエフライム、天地創造以来続く、神様の選びの計画のことを意味しています。それは、文字通り「憎む」という意味ではなく、『兄は弟に仕える、弟が先で、兄が後』という、優先順位のことなのです。

つまり、クリスチャン生活の基は、神様か家庭か、神様か夫か、神様か子供か、という二者選択ではなく、神様を愛し、神様に愛されることによって、夫も、子供も、真に愛することが出来る様になると言う逆説的真理のことです。真の愛は献身であって、自己愛の裏返しではありません。イエス様を第一にすることが、真に配偶者の為、子供の為になる。何故なら、イエス様はいつも、私達の最善しかなさらないからです。

救いは、イエス様の十字架の恵みによって、無償で与えられました。それから私達の人生は、イエス様(聖霊)と共に歩む人生へと変えられました。その過程において、自我を取るか、神様を取るか、その判断は私達自身に委ねられています。「たとえそれが苦難の道であっても、信仰的判断をしなさい。あなたはわたしと共に、永遠の神の御国建設に向かって歩んでいるのだから」と、イエス様は言っておられます。イエス様に従って行きましょう。ハレルヤ





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「KINGS」30分de一巻 Vol-11

2016年11月13日 | Good News
ソロモンの死後、イスラエルは北南に二つに分裂し(BC922)、約200年間続いた北イスラエル王国は、アッシリアによって崩壊(BC722)する迄、19人の王が登場し、北王国より約150年間長く続いた南ユダ王国は、バビロンによって崩壊(BC586)する迄、20人の王が登場した。北王国には良い王は一人もいなかったが、南王国には8人の賢王(アサ、ヨシャパテ、ヨアシュ、アマツヤ、ウジヤ、ヨタム、ヒゼキア、ヨシア)がいた。本書は、イスラエル王国全盛期から崩壊へと至る、約400年間(BC1000〜600)の神の恵みと裁きの歴史である。

南王国では王が変わっても王朝自体が変わる事はなかったが、北王国は、新しい王朝が現れる度に、古い王朝は完全に根絶やしされた。そのような状況下に神から派遣されたのが、エリアを始めとする預言者達である。彼らは時の権力者に対し、「 人間による国家の私物化は必ず崩壊を招く!」と警告を発し続けた。

この約400年の間に、サウルから数えて南北合わせ実に42人の王が登場したが、イスラエル国家のリーダーは、あくまでヤハウェの神であり、人間の王は神の代理人に過ぎず、イスラエルの王は人が選ぶのではなく神が選ぶ。その模範となるモデルがダビデであり、その後を継いだソロモンはイスラエル史上最高の黄金時代をつくった王である。

ある日、ソロモンの礼拝を喜ばれた神が、「 お前が願うものを何でも与えよう」と言われた。そこでソロモンが願ったのは、地位でもお金でもなく、知恵だった。「私はあなたの民を正しく治めることが出来ないような取るに足らない者ですから知恵をください」このソロモンの願いを神は喜ばれた。つまり、彼の富も名声も、彼に与えられた知恵の副産物であった。また、伝道の書、雅歌、箴言の作者でもあるソロモンは、この世のあらゆる究極を経験した人物であった。

しかし、彼の黄金期はそんなに長くは続かなかった。ソロモンの偶像礼拝によって"とこしえ”だったはずの契約が二代限りで終わってしまったのだ。ソロモンの失敗の原因は大きく3つある。

彼は二代目であり、さほど苦労せずに王になった。

彼が建てた王宮は、神との約束でも、民の要求に応えたものではなく、その建設と維持のために、膨大な税金と強制労働が費やされた。彼は民に仕えたのではなく、民に仕えさせた。

彼は主を信じ礼拝していたが、同時に他の神々をも拝んだ。

これらのソロモンの背信によって、ダビデ契約が破棄されてしまったのである。

これらのことを教え、勧めなさい。異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。(1テモテ6:2-7)

エリアが登場したのは、北王国の中でも最悪の王の一人、アハブ王の治世であった。当時のイスラエルでは公然とバアル礼拝が行われるようになっており、エリヤはそれを滅ぼすために一人で850人の偽預言者を相手に勝利した。彼が聖書に登場する数ある預言者の中でも、ひときわ特異な存在である。その理由は・・

死を見ないで天にあげられた
イエスの十字架の前に変貌山でモーセと共に現れた
メシヤ再臨の前にもう一度地上に現われる

見よ、 私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなた達に遣わす。(マラキ3:23)

この預言にあるように、ユダヤ人たちは終末の日に、ユダヤ人の救いのためにエリアが現れると今でも信じている。どのような形でエリアが現れるのか?私達には分からないが、一つだけ分かる事は、変防山で死んだはずのモーセと、天に上げられたエリヤが現れ、また終末の時にエリヤが登場する・・ということは、人間は死んで終わりではないということである。私達は、与えられた復活の特権を覚えて感謝すべきである。ハレルヤ




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「彼の名は神 II」30分de一巻 Vol-10

2016年11月03日 | Good News
今日は、IIサムエル記です。本書はサウルの死後、ダビデが王となり、イスラエルを統一国家としての礎を築き、ダビデの晩年までが記されています。前回のレポートにも書かれているように、ユダヤの教典では預言書とされていますが、登場人物が大勢登場する歴史・人間ドラマとして読むことができます。サムエル記は、イスラエルの歴史の動きと言うより、人間の心の動きの方に焦点が当てられ、そこに神様がどのように介入されているかが主題となっています。

このような、多彩な本書の中心人物である、ダビデの人生を見る時、あまりにもドラマチックで、「私たちの人生や生活に適応できることってある?」と、考えてしまいがちですが、神様にとって、ダビデも私たちも同じ人間です。今日は、ダビデの「信仰のあり方」について焦点を当てながら、本書を読み解いていきましょう

ダビデの7つの信仰表現

ダビデ=「愛される者」
聖書に登場する人々の名前は、その人その者を表しています。ダビデは「愛される者」と言う意味。その意味の通り、ダビデほど、「自分は神様に愛されている」と、実感していた人物は聖書中他にはいないと言ってもいいほどです。詩篇に数多く残されているダビデの詩は、神様に素直な自分の気持ちを表しており、神様を賛美する言葉に溢れています。本書6章で神の箱がエルサレムは運ばれた時、「ダビデは麻のエフォドを身につけて力のかぎり踊った」とあります。その姿を見て、ダビデの妻、ミカルは心の中でダビデをさげすみ、ダビデにいやみを言いますが、ダビデは、自分を王としてくださった神様の前で踊っただけだと全く気にも留めません。

神様に愛されていることの確信(自己アイデンティティーの確立)
ダビデは自分の自己アイデンティティーを、自分の地位や才能にではなく、ただ、神様に愛されていると言う確信・安心感に、自己アイデンティティーを置いていました。

神様との深い絆
ダビデほど、いつも人間関係に悩まされていた人はいません。自分の長兄であるエリアブには疎まれ、上司であったサウルには殺されそうになり、直属の部下には裏切られ、優秀な部下の妻と不貞を行い、子供同士の争い、そして、子供の死を何度も経験します。それでも、ダビデが信仰を失わなかったのは、ダビデと神様との関係が人間同士の関係よりも前にあったからです。例えば、バト・シェバとの子供が病気になり、死んでしまった時のこと。子供が病気の時は、ダビデは嘆き、悲しみ、断食し、地面に横たわって、神に祈りを捧げていました。しかし、子供が亡くなったと聞いた途端に、断食をやめて立ち上がり、身を清めて、神様に礼拝を捧げ、食事をします。つまりダビデは、神様の領域を理解していたのです。そして、その領域に自分が踏み込むことができない事も、同時に理解していたのです。

          

神様を第一とする
神様と深い絆で結ばれていたダビデは、当然、神様を第一としていました。先ほどのバト・シェバとの子供が亡くなった時、彼が最初にしたことは、礼拝を捧げることでした。それは、自分の子供を神様に委ねる行為でもありました。ダビデはどんな時も、どんなことがあろうとも、神様を第一に行動していたのです。

人の裁きは神様に委ねる
人は、人から嫌なことをされると、相手に仕返しをしたくなります。しかし、ダビデはそうではありませんでした。あんなにもしつこく、自分を殺そうとしたサウルに対して、自ら手を下そうとはしませんでした。絶対的な神様への信頼により、自分自身が犯し得る罪から、神様が守ってくださるのです。

神様への賛美と感謝
詩編を読むと、ダビデがいつも神様に賛美と感謝を捧げていることが分かります。詩篇には、自分の立場の不遇さを神様に嘆き、訴えても必ず、神様が助けてくださると信じ、最後は、神様に賛美と感謝を捧げています。サムエル記下22章のダビデの感謝の歌は、詩篇18篇にも残されています。

神様との契約=礼拝を捧げる
ダビデは「神様が自分を喜んでくださる」ことを知っていました。(23:5)その確信の根底はどこにあるのでしょうか?
それは、預言者ナタンによってダビデに告げられました。(7:5-16、歴上17:4-15)神様と契約を交わした者は全て、神様に礼拝を捧げています。サムエル記下の最後にダビデが語った言葉も礼拝に関することでした。ダビデが「人口調査をする」と言う、神様がしてはいけないとした罪を犯した時も、罪の赦しを請うダビデに対し、神様は祭壇を築き、礼拝を捧げることを預言者を通して言われました。

ダビデは、アラウナの麦打ち場を持ち主のアラウナが受け取ってくださいと言ったにもかかわらず、お金を払って買い取ります。礼拝に対して、犠牲を払うことが当然であるとダビデは考えていました。同じように、この場所は、アブラハムが神様を礼拝するためにイサクを捧げようとした所でした。そして、ソロモンがこの場所に神殿を建て、千年後、この場所でイエス様が十字架にかかり、私たち、全人類の罪を贖ってくださったのです。そして、今、神様に赦された私たちがいます。ダビデと私たち、神様に同じく愛されている者なのです。(Report by Mimita



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