日本から訪米中のえんぢぇる師を招いての特別コース、第一回のAHCは星に始まり、星に終わった。満天の星、降るような星空を見たことがあるだろうか。ハワイ島に聳えるマウナケア山頂では、立っているその地点以外はすべて星に囲まれる体験ができると言う。湿度や風速などの気象環境が最も適していることに加え、富士山より高い4000メートル以上の標高にあり、また太平洋の真ん中にあって星の光を遮るものが何もないという条件下にあるからだ。星は夜にだけ突如現れるものではないのは、ご承知の通り。星はいつでも空にある。しかし、太陽光や町の光、また空気層や雲に遮断されて、私たちの目に入らない。真理も同じことだ。真理は私たちの前にいつもある。しかし、邪魔して見えなくさせているものが人間の内にあるのだ。それが聖書で言う「罪」だ。
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さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 (ヨハネによる福音書 / 9章 1-3 節)
ヨハネ福音書9章は、一章丸々で生来の盲人の癒しが記されている。病を患う人、どうしようもない苦難に遭った人、悲しみのどん底にある人。彼らは「何故?」「いつまで?」「誰のせいで?」苦しんでいるのか、弟子たちはイエス様に問うた。その姿に、この世の中を見て、あるいは単純に自分の周囲を見回して、同じように問うだろう私がいる。目が見えず、困窮し、悲しむ人を前に、ただ原因を追究し、理由を探す。誰のために?私が納得するために、だ。その人のために、ではない。イエス様は、そんな弟子たちの不毛な質問にはお答えにならなかった。「何故?」「いつまで?」「誰のせいで?」これらは問題を傍観するだけの立場であって、これらに留まっている限り、真の解決はない。たとえ世界規模の環境汚染であっても、直接的な問題ではなくても、それに関わった以上、私はその現実の只中にいる。今や、すべての問題を解決する光があることを知っているのだから。
最初に星観測の条件を記したが、星の光が見えるためには、もう一つの大きな条件がある。当たり前と言えば当たり前だが、「夜であること」。暗闇の中にいるからこそ見える光がある。旧約の聖徒の多くは、闇を経験している。アダムは深い眠りに落とされて、妻を得た。モーセとイスラエルの民は、エジプトに下された暗闇の災いを経て約束の地へ出発した。ヨブはすべてを失い、暗黒の体験をした。ヨナは三日間暗い魚の腹の中にいた。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた(イザヤ9:1 & マタイ4:16)」のだ。そして今、私たちはイエス・キリストという光と共にある。
光であるイエス様は、「通りすがりに見かけられた」人がこれからを生きるための励ましの言葉をくださった。その御言葉によって、彼はシロアムの池まで進み、イエス様の元に帰って来て、証し人となった。イエス様はどうでもよい質問をする弟子に答えをくださらない。御言葉は、それを必要とする盲人に命と共に与えられた。ここで、私は見るべきものを見ていなかった、苦しんでいる人を見ずに状況だけを見ていた、と知った。生来見ることのできない人と、見えるはずのことに目を瞑って見ない人の差は歴然。9章の終わりにイエス様は仰るのだ。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
見えるものと見えないものがある。見えているものと見えていないものがある。何を見るか。黒い点にしか見えなかったものが、実はダルメシアン犬の斑点で、でも更によく見るとそれは犬の絵柄のネクタイで、もっとよく見るとそのネクタイをしている人だった、というように、焦点の移動で見えてくるものがある。光によって遮っている罪を知り、遮断物を捨て去り、自分自身の思いに捕われず、神様の焦点に合わせて「見る」時、見えてくるものが確かにある。それが真理だ。(Mu)
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わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(Ⅱコリント4:18)