Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

発達障害の光

2015年11月21日 | Good News
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:1-3)

私たちは思わぬ苦難に遭遇した時、「どうしてこうなったのか?」、「誰のせいなのか?」「何時までこの苦しみは続くのか?」と神に訴えかける。

しかし、これらの不毛な質問をいくら繰り返しても、実質的な答えに至る事はない。

私たちの問題は、自分が抱えている問題が自分にとってあまりにも大き過ぎて、キリストが見えなくなってしまっている点にある。

イエスはこのような弟子たちの不毛な質問には答えられず、不毛の時代の中で生きるクリスチャンの生き方について答えられた。

そして、この時イエスははっきりと因果応報を否定され、そこからの解放を宣言されたのだ。

発達障害が何故、問題になるのか?それは、人間という字は人の間と書くように、

人は対人関係の中で生きているので、人間関係が破綻した状態で、人は平安や幸福感を得ることが出来ないからである。

本来人間は、神との交わりの中で生きて行くように造られた霊的な存在であり、創造主である神との関係なしに、真の意味で人と正しく関係することは出来ない。

つまり、私たちは皆、生まれながらの障害者なのである。

不条理の原因を解明したところで、解決には至らない。

だが、「どうして?」を「何のために?」と、問い直す時、私たちはそこに一つの答えを見出す事が出来る。

私たちが悩み苦しむ時、それはあなた方の慰めと救いになる。(Ⅱコリント1:6)

イエス・キリストは、私たちのどんな問題よりも大きく、どのような困難よりも力強いお方である。

イエスが生まれつきの盲人の目が開かれたように、私たちがイエスと出会い、どのようなお方であることを知った時、

私たちは癒されて、人生の劇的変化が訪れるのである。ハレルヤ



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天国の仕事

2015年11月14日 | Good News
定年後、経済的に余裕のある人は、趣味や旅行に残された人生のほとんどを使っているが、旅行した回数と人の幸福度が比例するわけではない。単に自分を喜ばす活動は、他の人々に対して、何一つ価値を生み出すことはないからである。

これは仕事に関しても同じ事が言える。人生、ただ自分のためだけに、したいことをしている人たちは、単なる物質主義者、快楽主義者であって、そういう人達は結局、孤独感や空しさの内に、人生を終える事になる。

そのような人生の空しさを、聖書はこう語っている。

ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。

人生のための仕事であって、仕事のための人生ではない。

また、人は誰しも人生の幸せを求めて生きているが、幸せ自体が人生の目的なのではもない。

幸せとは、自分に与えられた使命に生きる過程において、「充実感」、「達成感 」、「満足感」が一致した時に、自然に溢れ出て来るものなのである。

しかし、そこには、“人の役に立つ”、“人から必要とされる”、“人から感謝される”といった要素がなければ、絶対にそうはならない。

仕事は、この世における自分の使命を遂行するために神から与えられるものであり、人の命はその使命を遂行する為に与えられた時間のことなのである。

人は誰しも年を取れば、いつかは働けなくなり、そして死んで行く。

であるなら、金持ちも有名人も、貧乏人も、一般人も、その最終的な地点において大差はない。

つまり、この世における成功は、人間社会における相対的な価値観における一時的な評価に過ぎず、生きるか死ぬかの状況においては、あまり重要なことではない。人間いざという時には、仕事も、資格も、学歴も頼りにはならないのである。

努力して目的を達成することは勿論、大切である。しかし、それよりも大切なことは、自分の周囲の人々と良い関係を保つことえある。何故なら、本当に良いものは獲得するものではなく与えられるものだから。

私達は、どうしても人生の実の方にばかりに注目してしまうが、大切な事は、実の心配をする事ではなく、枝がしっかりと木とつながっている事である。枝とつながってさえいれば、実は自然に付いて行くものなだ。

キリストとの関係を結ぶ事なしに、人との良い関係を結ぶ事は出来ない。仕事はその良い関係を結ぶための人生のツールなのだ。

キリスト信じ、キリストとつながる事が、地上における私達の仕事に、最高の意味を与えてくれることになるのである。ハレルヤ



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砂漠の大河

2015年11月09日 | Good News
詩編の「都に上る歌」は、ユダヤ人にとって民族アイデンティティの根幹を成す聖書箇所の一つである。

彼らは、年に3回行なわれるイスラエル3大祭りの時に、この「都上りの歌」を歌いながら、エルサレムへの長い道のりを歩いていた。彼らは今でも安息日の食事の時に、詩編126編を朗唱している。

バビロンからイスラエルに帰還した人達は、強い民族アイデンティティと信仰の持ち主だった。

ところが、彼らを待っていたのは、黄金のエルサレムどころか、荒れ果てた廃墟。

栄華を極めたソロモン神殿は見る影もなく、度重なるトラブルで再建工事は16年間も中断せざるを得なかった..。


人が神と出会う時は、多くの人が何らかの「苦難」や「深い淵」を経ている。

私たちは人生における様々な苦難に対して、「どうして?」、「何故こんなことが私にだけ!?」と、神にくってかかる習慣が身についているが、人は神に「何故?」と問う前に、実はこの苦難を前にして私たちが神から問われている存在なのである。

どこをどう見ても、こんな荒野に川が流れて来る訳ない!? 

しかし、そんな不毛な地にも、そこに神が介入する時、人間の想像を遥かに越えた状況へと変えられるのあ。

ネゲブの砂漠に大河が流れ来る様に、この日本の地にも、聖霊の波が押し寄せて来る時が必ず来る。

たとえ今、目に見えるような成果がなくても、諦めないで、良い種を蒔き続ければ、いつか必ず収穫の時が来る。

“涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる”

大切な事は、「自分達が蒔いた種は、やがて必ず大きな収穫を生むことになる!」という事を信仰で受け取れるかどうかである。

神の国、新しいエルサレムに顔を上げ、この喜びの歌を口ずさみながら、神の祝福と勝利を事を信じて一歩踏み出して行こう!

御国への巡礼への旅は、もう始まっているのだから。ハレルヤ



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