Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

和解の血

2015年10月31日 | Good News
「罪の報酬は死」という鉄則を曲げることなく、私達を永遠の罪と死の法則から救うための唯一の方法、それが十字架だった。

十字架によって、神の怒りがなだめられ、私たちの罪が購われ、神と人間との和解が成立した。

この「宥め」、「購い」、そして「和解」が、「キリストが十字架上で成された3つの業」である。

こうして「罪と死の法則」が、「永遠の命をもたらす霊の法則」へと変えられたのである。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらは全て神から出ることであって、神は、キリストを通して私達を御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私達にお授けになりました。つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私達に委ねられたのです。ですから、神が私達を通して勧めておられるので、私達はキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

ここで5回登場した「和解」という言葉の主語は常に「神」。

神から人間に対して手を差し伸べられた「和解」に、 一人でも多くの人々を導くことがクリスチャンに委ねられている。

「キリストに代わってお願いします」の「お願いします」と訳された「パラカレオー」という言葉には、

「宥める、 元気付ける、慰める、傍に呼び寄せる」という意味があり、その名詞が「パラクレートス/聖霊」である。

神はこのようにあなたのことを愛し、再び神と共に生きる道を切り開いてくださったのである。

     
 {写真:イスラエル地中海沿岸、クファルビトキンにあるツァフリルさんの店では、ユダヤ人とアラブ人が同じテーブルに着いた場合、必ず半額にしているという。今月初めから暴力や混乱が相次ぎ、パレスチナ人の全面的な蜂起の不安が高まっている中、両者の共存を後押しすることが目的だ}



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人生の壷

2015年10月23日 | Good News
お金、地位、名誉、若さ、健康等々、誰もが求めてやまないこれ等のものは、いつかは必ず、失う時が来るのであって、
それを自分の人生の希望としてしまうと、その希望は最終的に失望に終ってしまう。

自分の目的が分かっていないまま、ただ目先に掲げた目標を追い続けることには限界がある。目的と目標は違うのである。

目的は、自分の人生における究極のゴールのことで、目標は、そのゴールに到達する為に必要な通過点である。

つまり、自分は何をしたいのかと言うHavingと、その目的を達成するためのDoing 、それが自分に与えられた仕事・使命であるという、Being。

この Havingと、Doingと、Beingが一体になっている人、こういう人が人生の成功者であって、有名だとか、お金があるとかないとか、そういう事とは関係ないのだ。

聖書の有名な言葉に、「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉がある。

人はただ食べる為に、生活する為だけに生きているのではなく、人生にはお金には換えられない、何かもっと大切なものがある。

大体、このような意味で捉えられているが、そこには肝心の主語が抜けているので、これだけだと意味は通らない。

この言葉の後にはこう続く。「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と。

つまり、この言葉の意味は、「私たちは自分で生きているのではなく、神によって生かされているのであり、その神の言葉に従った時に、私たちが生きていくために必要なものは、神がちゃんと備えてくださるのだ」という事である。

お金も、子供も、友達も、人生の目的にはなり得ない。人間は自分が一番大事にしているものに支配されてしまうからだ。

その対象を聖書は偶像と呼び、それに支配されている状態が偶像礼拝と言う。この偶像礼拝に陥ったままでは、結果的に人間は滅びに向かってしまう。キリストの十字架は、人間をがんじがらめに縛っている、あらゆる束縛からあなたを解放してくれる唯一の方法である。

たとえ、仕事に失敗しても、一文無しになったとしても、子供が自分の願わぬ方向へ進んでしまったとしても、最愛の人を失ったとしても、それであなたの人生が終わってしまうわけではない。

キリストを信じ、キリストにより頼む人生に、決して敗北はない。

キリストに人生を託すと言うことは、キリスト以外の全てのものから解放されるという事なのだ。

あなたが人生の岐路に立った時、あなたはあなたを助けてくれる真理の言葉をお持ちだろうか?

キリストは、あなたに与えられた使命を通して、社会の幸せ、家族の幸せ、そしてあなたの幸せを切に願っておられるのである。



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救いの聖岩

2015年10月16日 | Good News
麦打ち場は広々として、風通しが良く、大きく平らな岩がある。

そこで刈り入れた麦の穂を岩の上に、太陽の光で乾燥させた後に並べ、麦穂を打つこうして実と殻を分けて収穫する。

こうした収穫作業をベースにキリストが話された、マタイ13章の「麦と毒麦」のたとえ話。

これは終末時代に生きる私たちへの重要なメッセージである。

先ず、麦打ち場に麦を置く前に、麦と毒麦を分別する必要がある。

もし、麦と毒麦を一緒に麦打ち場で打ってしまうと、麦に異物が混ざって全体がダメになってしまうからである。

毒麦は麦と同じ畑に一緒に生えており、外見上、本物の麦とほとんど見分けがつかない。

また、根が繋がっているので、毒麦を抜こうとすると、麦も一緒に抜かれてしまう。

なので、毒麦は収穫する段階で注意深く選別し、火で焼いておかなければならなかった。

「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである(マタイ13章39節」

そして、終末の時には、それと同じような事が起こるから「耳の有る者は聞きなさい(マタイ13章43節)」とイエスは警告された。

畑は世界の事であると同時に、教会の事でもある。つまり地域教会には、クリスチャンとノンクリスチャン、そして偽クリスチャンの3種類の人達がいる。

そして最後の収穫の時に、麦と毒麦とが分けらる。この「分ける」という言葉が、日本語で「裁き」と訳されているのである。

教会の土台は、麦と毒麦を、実と殻を「分ける」ための裁きの岩である。

そこには、人間の感情・感覚・道徳観などが入り込む余地は全くない。

完全なる聖さ、完全なる義、完全なる赦しがあってこそ、神の国は成立するからだ。そしてそこに入るためには、完全なる分割が要求される。

そこで私たちがすべきことは、そのような完全さを目指すことではなく、そんなことは自分には出来ないことを悟ることである。

この同じ場所に、キリストはもう一度、裁き主として来られる。

しかし、神は人間に対する怒りを、私達が感謝し、礼拝するための場所と変えて下さった。

ダビデ最後の失敗のエピソードは、神の怒りと裁きではなく、神の憐れみと赦しがテーマなのである。



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神のインテリジェンス

2015年10月12日 | Good News
正確で適切な情報を如何に入手し、それを如何に生活に適応させているかで、人生は大きく変わって行く。これを誤ると、人生に大きな損失を招く事がある。

情報は、Deta、 information 、intelligence の大きく3つに分類され、最後のインテリジェンスとは、自分が生き残るための特殊情報という意味である。

毎日、新聞や雑誌、テレビやインターネットなどから流れて来る膨大な情報を、ただ見て知っているだけでは、何の意味も持たない。

それはかえって、その情報の洪水に溺れてしまい、意味があるのかないのか分からないまま、そのほとんどが無駄に流れ去っていく。

聖書は、人類の歴史上、最大のインテリジェンスである。

「あなたは何者なのか?」、「あなたは何処から来たのか?」、そして「あなたは何処へ行くのか?」この問いに、聖書はいつも答えている。世の中の全ての問題、そしてそれらの解決策の全てが聖書から解き明かすことが出来るのだ。

聖書は、何千年間も人々を騙し続けて来た嘘八百か、人類に対する神のメッセージか、その二つに一つ。

折角聖書が家にあっても、それを自分のためのインテリジェンスに変えて行かない限り、それは単なる情報の一つとして終わってしまう。

聖書はあなたが検討するに値する、いや検討すべき重要なインテリジェンスなのだ。

計画な目的意識を持って、情報を収集・選択する。自分の人生の課題設定、問題提議、自分に本当に必要な情報とは何かを知っている人は、無駄な情報に溺れるようなことはない。

真の「知性」とは、「自分が何を知らないのか」ということを知ることにある。

それを知るためには、自分よりも大きなもの触れる。自分の中の小さな世界の中で、どんなに主義主張をしてみても、人生に広がりは出て来ない。

どうぞ、皆さん、聖書という素晴らく深淵なインフォメイションに触れてみてください。

そしてそのインフォメイションを、自分の人生・生活に応用出来るインテリジェンスへと変換してください。

ハレルヤ あなたの祝福をお祈りします。



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共感力

2015年10月02日 | Good News
人が誰かに自分のことを話しかけるのは、共感して欲しいから。特に相談事の場合、多くの場合、その人が求めているのは、「答え」ではなく、「共感」なのだ。相手に「共感」している姿勢を示さないまま、「これはこうして、ああしなきゃ!」と、いきなり解決方法をアドバイスしても、当然相手は満足しない。話し相手は答えや感想を求める前に、共感を求めているのだ。

夫婦円満の秘訣は、相手の話に「分かるなぁ~」と共感しながら聴くということ。但し、相手の悩みが深く事が深刻な時にこれと同じ対応をしてしまうと、「何が分かるのよ!」と反発されてしまうだろう。良き聞き手となるには、共感性が前提となるが、話しを聞いて、相手の気持ちを感じ取ることができたとしても、相手と同じ体験をしていない限り、安易に「あなたの気持ちはわかります」とは言えないし、また、たとえ自分が相手と同じ体験をしたとしても、その人と同じように感じ受け取るかどうかは判らない。

「私にも分かります」というのは自分側の意見であって、ここで大切なことは、自分がどうのではなく、ただ相手の気持ちに寄り添い、親身になって話を聞くこと。もし相手が「辛いんです」と言ったら、「その気持ち、判ります」ではなく、「辛いんですね…」と、ただ相手の言葉を繰り返す。私たちは自分の意見や感想を言う前に先ず、相手の話しを親身になって聞くことである。



同じ人が同じ話しをしていても、それを聞く側が、全く異なる理解をすることがある。例えばある人が、「会社の同僚が、上司じゃなくて、自分にばかり相談して来るんで困ってるんです」と言ったとすると、その意図は二通り考えられる。「自分は同僚から頼りにされている・信頼されている」という事を言いたい場合と、文字通り、「本当に困っている」場合がある。

前者の場合、聞き手が「それだったら上司の人に相談したら」と言う、また、その人が本当に困っているのに、「この人自慢している」では、話しにならない。つまり、相手が本当に励ましやアドバイスを必要としているのか?単に共感して欲しいのか?相手が言ってることを額面通り受けて、不適切な事を言ってしまうと、相手を慰めたつもりが、嫌われてしまうという事が、世の中には多々ある。

世の中には、自分とはいろいろな面で違っている人がいるんだという自覚。そうした自覚の上で、「自分がして欲しいと思うことは、もしかしたら相手がして欲しいと思っている事とは違うかも知れない」と、相手の立場からものを見て、考えるように務める。それが、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもてあげなさい」という、イエス・キリストが私たちに望んでおられることなのである。 



「この人だったら話を聞いてくれる」、「この人には何でも話せる」、「この人の前だと何だが安心する」と、感じてもらえる関係が築くことが出来たら、悩める多くの人達をサポートできる存在になれ、互いに良い関係の中で日常生活がおくれるのではないか。世の中が混沌・殺伐化しているだけ、このような関係が家の教会のベースに求められている。

言葉にしていなくても、何となく心と心が通じ合い、互いに共感し合える関係。「この人は今、こういう気持ちでいるだだろうなぁ」と、なんとなく伝わってくる。大切なことは、私たちが相手の気持ちにどう共感するかということではなく、相手から「この人になら話せる」、「この人だったら信頼できる」と感じてもらえること。これが私たちが求める共感力である。

共感というのは私のことではなく、相手のことなのだ。パウロが言ったように、「受けるより与える方が幸いである」と言われたイエスの言葉を、いつも思い出して、それを実践することに務める。これは宗教でも何でもない、誰にも適応出来る普遍的な真理。だからこそ教会という存在は、人々に必要とされ、喜ばれ、自然に成長してものなのである。ハレルヤ
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