しばらく歴史書が続いて行く。今回のⅠサムエル記は、ユダヤの経典では1と2で一つの書簡であり、預言書に属している。混沌とした士師の時代から、イスラエルに王政ができ、基盤が整い始めるころ、サムエル誕生、ダビデ晩年に至るまで、紀元前1000年前後の約100年間くらいの話で、内容としては「ダビデ記」と言える。
聖書には一般の歴史的読み物と全然違い、主人公を理想化したり、話をストーリー仕立てにすることはない。その登場人物は多くの欠陥と悩みを持っていて、本書の主人公ダビデもまた、神様への揺るぎない信仰を持っている反面、罪をもおかす。その彼についても、聖書は事実は事実として、一切の脚色なくありのままの姿を描いている。罪や弱さを持った欠点だらけの人間に神の恵みが与えられ、不思議な形で用いられつつ、歴史が動かされていくのだ。「30分de一巻」では、歴史的出来事ではなく、登場する人物に焦点を当てて話を進められ、今回はハンナ、サムエル、サウルが取り上げられた。
ハンナ:
ハンナはサムエルの母であり、その名前の意味は「恵み」。彼女は、聖書に登場する女性の中でも覚えておくべき一人である。本書にあるハンナ賛歌は、マリア賛歌と共に新旧聖書の双璧を成す信仰告白だからだ。ハンナと夫エルカナ、そしてペニナの関係は、創世記でのサラとアブラハム、ハガイの関係に似ている。二人の女の戦いをめぐる相関図において、エルカナは実にできた夫で、ハンナを慰め、励ます。しかし彼女の心の奥底にある苦悩は治まることなく、ハンナは心を注ぎ出す祈りへ追い込まれていく。
彼女の祈りの特徴は、「万軍の主よ」「主に在って」「主に」と、身を絞るような神様への訴えかけであり、その祈りは1章11節で、命を懸けて取引をする意味を持つ誓願に至っている。誓願の祈りは、士師記のエフタ同様、約束厳守が必須。人生崖っぷちの中で誓願を立て、そのハンナの誓願によって誕生した子供がサムエルだった。
同時に、1章5節には、「主がハンナの胎を閉じておられた。」という神様の意図を見ることができる。つまり、神様はサムエルという人物をイスラエルに送るためハンナという一人の女性を用いられ、ハンナが誓願の祈りを立てるのを待っておられたと言える。全能全知の神様は、ハンナの願いも、私たちの必要もすべてご存知だ。その上で祈り続けることを願っておられる。イエス様もルカ伝で「気を落とさずに祈り続けよ」と教えてくださり、ヨハネ4章では、「神様は真の礼拝をする者を求めておられる」とある。私たちクリスチャンはこの神様の思いが抜けてしまっていることがある。神様が祈りを待ち、礼拝者を求めていらっしゃる。ここに、神様と人間との密接な関係を見ることができる。
サムエル:
サムエルは、サウルとダビデに王位を授けた最初の預言者だ。しかしそれだけではない。「先見者」「神の人」とも呼ばれ、7章では「最後の士師」とある。更に、神様の代理人としてサウルとダビデに王位就任の儀式を行った「祭司」でもあった。また、9章の記述からは、当時堕落している祭司たちがサムエルによって再教育されていることがわかる。当時の「神学校教授」でもあったのだ。ハンナの誓願を通して生まれた彼は、イスラエルの礎を作るために派遣されたミスターオールマイティだ。
サムエルという名は、「シェーム(=名前)」と「エル(=神様)」が合わさり、「彼の名は神」という意味を持ち、その名の通り彼はモーセと並び称されている重要人物である。
主はわたしに言われた。「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい。(エレミヤ15:1)
主の祭司からはモーセとアロンが 御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと主は彼らに答えられた(詩編99:6)
神様の言葉を蔑ろにしていると中身が徐々に腐り始め、いずれ外部に浸食し始める。士師の時代、イスラエルの人は神様の御言葉をちゃんと聞いていなかった。腐り始めていたのだ。その状態を修復するため、神様はサムエルを用いて原点回帰を働きかけられた。これは現代の私たちにも同じことが言える。信仰生活とは礼拝だけしていればよいものではない!神様の知恵を持って生きるためには、絶えず聖書を読み、正しく理解して、検証できる実践力を蓄える必要がある。聖書の学びは不可欠であり、それを知的欲求を満足させるに留まらせてはならない。聞いた御言葉を反復すること。それがえんぢぇる師が繰り返して言う「アプリケーション」なのだ。
サウル:
サウルはイスラエルの人々の切望によって最初の王となった人。しかし、そのイメージは、嫉妬深く、被害妄想持ち、神経質で、ダビデを苛めて殺そうとまでした嫌な奴ではないだろうか。しかし、彼は初めからダメな奴ではなかった。彼は、一農夫から神様に選ばれ、人に対しても家族に対しても素直で従順であり、サムエルにも謙遜で、文句のつけようのない人物像を10章までに見る。神様は彼の心を新たにされ、預言もし、柔軟であり、しかも背が高くてイケメンだった。まさに初代王にふさわしい選びの器だったのだ。
また、サウルの方がダビデ、ソロモンより優れている点がある。ダビデは優れたリーダーシップを持っていたが、彼には致命的欠陥があった。アンチイクメンだったのだ。ダビデは子育てに失敗し、その子ソロモンもまた、良い出来とは言い難い。しかし、サウルはその息子ヨナタンを立派に育て上げ、親子関係も良好だった。Ⅱサムエル記では、ダビデもこう謳っている。
サウルとヨナタン 愛され喜ばれた二人 鷲よりも速く、獅子よりも雄々しかった。命ある時も死に臨んでも 二人が離れることはなかった。
しかし18章以降、ダビデとヨナタンが心を通わせるようになって以降、ややこしい問題が絡み、事は複雑な様相を見せる。ダビデの父はエッサイ、しかしその母の名前ははっきりと記載されておらず、詳しい話しは一切ない。が、彼の母はアヒノナム、サウルの奥さんだ。聖書中最大の問題発言が本書20:30にある。サウルがヨナタンに激怒して思わず発してしまった言葉だ。この発言やその後の下りから、ダビデはヨナタンの異父兄弟だと分かり、前後状況もクリアになる。ダビデはエッサイの長兄から疎まれていた、ミカルとの間にも子はなかった、互いに兄弟と呼ぶダビデとヨナタンの親愛の情。サウルは妻の裏切りに対する感情転移でダビデを憎み、募るその思いが段々と主の命令を守らなくさせ、神様の言葉を退け、破滅の道へ進むことになる。
サウルの聖書における評価は、ダビデ、ソロモンと比べると雲泥の差である。しかし、ソロモンも晩年はおかしな行動をとり、ダビデも致命的失敗をしている。失敗したという意味においては、三人は同じ位置にあるはずだ。しかしダビデとソロモンには信仰があった。サウルは全能の神の存在も知り、預言もでき、礼拝もした。しかし、彼には信仰がなかった。礼拝は形骸化し、嫉妬による怒りの連鎖で感情が制御不可能となり、悔い改めができないまま最期を迎えてしまった。「捨てられた」という傷が、彼を悪霊の餌食としてしまったのだ。
信仰は賜物だ。持て、と言われて持てるものではない。だからこそ、私たちは賜物を求め、常に信仰を吟味をする必要がある。クリスチャンであっても、神様のため教会のため、と言いながら、自分のため、自分を神とするためにしていないだろうか。神様の前に出て、謙虚に求める時、御言葉は、現在進行形で適応し続けなければならないこれらの御言葉が恵みとして与えられる。それが神様の愛だ。
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。 悪魔にすきを与えてはなりません。(エフェソ4:26-27)
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。(Ⅱコリント13:5) (Report by Mu )
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聖書には一般の歴史的読み物と全然違い、主人公を理想化したり、話をストーリー仕立てにすることはない。その登場人物は多くの欠陥と悩みを持っていて、本書の主人公ダビデもまた、神様への揺るぎない信仰を持っている反面、罪をもおかす。その彼についても、聖書は事実は事実として、一切の脚色なくありのままの姿を描いている。罪や弱さを持った欠点だらけの人間に神の恵みが与えられ、不思議な形で用いられつつ、歴史が動かされていくのだ。「30分de一巻」では、歴史的出来事ではなく、登場する人物に焦点を当てて話を進められ、今回はハンナ、サムエル、サウルが取り上げられた。
ハンナ:
ハンナはサムエルの母であり、その名前の意味は「恵み」。彼女は、聖書に登場する女性の中でも覚えておくべき一人である。本書にあるハンナ賛歌は、マリア賛歌と共に新旧聖書の双璧を成す信仰告白だからだ。ハンナと夫エルカナ、そしてペニナの関係は、創世記でのサラとアブラハム、ハガイの関係に似ている。二人の女の戦いをめぐる相関図において、エルカナは実にできた夫で、ハンナを慰め、励ます。しかし彼女の心の奥底にある苦悩は治まることなく、ハンナは心を注ぎ出す祈りへ追い込まれていく。
彼女の祈りの特徴は、「万軍の主よ」「主に在って」「主に」と、身を絞るような神様への訴えかけであり、その祈りは1章11節で、命を懸けて取引をする意味を持つ誓願に至っている。誓願の祈りは、士師記のエフタ同様、約束厳守が必須。人生崖っぷちの中で誓願を立て、そのハンナの誓願によって誕生した子供がサムエルだった。
同時に、1章5節には、「主がハンナの胎を閉じておられた。」という神様の意図を見ることができる。つまり、神様はサムエルという人物をイスラエルに送るためハンナという一人の女性を用いられ、ハンナが誓願の祈りを立てるのを待っておられたと言える。全能全知の神様は、ハンナの願いも、私たちの必要もすべてご存知だ。その上で祈り続けることを願っておられる。イエス様もルカ伝で「気を落とさずに祈り続けよ」と教えてくださり、ヨハネ4章では、「神様は真の礼拝をする者を求めておられる」とある。私たちクリスチャンはこの神様の思いが抜けてしまっていることがある。神様が祈りを待ち、礼拝者を求めていらっしゃる。ここに、神様と人間との密接な関係を見ることができる。
サムエル:
サムエルは、サウルとダビデに王位を授けた最初の預言者だ。しかしそれだけではない。「先見者」「神の人」とも呼ばれ、7章では「最後の士師」とある。更に、神様の代理人としてサウルとダビデに王位就任の儀式を行った「祭司」でもあった。また、9章の記述からは、当時堕落している祭司たちがサムエルによって再教育されていることがわかる。当時の「神学校教授」でもあったのだ。ハンナの誓願を通して生まれた彼は、イスラエルの礎を作るために派遣されたミスターオールマイティだ。
サムエルという名は、「シェーム(=名前)」と「エル(=神様)」が合わさり、「彼の名は神」という意味を持ち、その名の通り彼はモーセと並び称されている重要人物である。
主はわたしに言われた。「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい。(エレミヤ15:1)
主の祭司からはモーセとアロンが 御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと主は彼らに答えられた(詩編99:6)
神様の言葉を蔑ろにしていると中身が徐々に腐り始め、いずれ外部に浸食し始める。士師の時代、イスラエルの人は神様の御言葉をちゃんと聞いていなかった。腐り始めていたのだ。その状態を修復するため、神様はサムエルを用いて原点回帰を働きかけられた。これは現代の私たちにも同じことが言える。信仰生活とは礼拝だけしていればよいものではない!神様の知恵を持って生きるためには、絶えず聖書を読み、正しく理解して、検証できる実践力を蓄える必要がある。聖書の学びは不可欠であり、それを知的欲求を満足させるに留まらせてはならない。聞いた御言葉を反復すること。それがえんぢぇる師が繰り返して言う「アプリケーション」なのだ。
サウル:
サウルはイスラエルの人々の切望によって最初の王となった人。しかし、そのイメージは、嫉妬深く、被害妄想持ち、神経質で、ダビデを苛めて殺そうとまでした嫌な奴ではないだろうか。しかし、彼は初めからダメな奴ではなかった。彼は、一農夫から神様に選ばれ、人に対しても家族に対しても素直で従順であり、サムエルにも謙遜で、文句のつけようのない人物像を10章までに見る。神様は彼の心を新たにされ、預言もし、柔軟であり、しかも背が高くてイケメンだった。まさに初代王にふさわしい選びの器だったのだ。
また、サウルの方がダビデ、ソロモンより優れている点がある。ダビデは優れたリーダーシップを持っていたが、彼には致命的欠陥があった。アンチイクメンだったのだ。ダビデは子育てに失敗し、その子ソロモンもまた、良い出来とは言い難い。しかし、サウルはその息子ヨナタンを立派に育て上げ、親子関係も良好だった。Ⅱサムエル記では、ダビデもこう謳っている。
サウルとヨナタン 愛され喜ばれた二人 鷲よりも速く、獅子よりも雄々しかった。命ある時も死に臨んでも 二人が離れることはなかった。
しかし18章以降、ダビデとヨナタンが心を通わせるようになって以降、ややこしい問題が絡み、事は複雑な様相を見せる。ダビデの父はエッサイ、しかしその母の名前ははっきりと記載されておらず、詳しい話しは一切ない。が、彼の母はアヒノナム、サウルの奥さんだ。聖書中最大の問題発言が本書20:30にある。サウルがヨナタンに激怒して思わず発してしまった言葉だ。この発言やその後の下りから、ダビデはヨナタンの異父兄弟だと分かり、前後状況もクリアになる。ダビデはエッサイの長兄から疎まれていた、ミカルとの間にも子はなかった、互いに兄弟と呼ぶダビデとヨナタンの親愛の情。サウルは妻の裏切りに対する感情転移でダビデを憎み、募るその思いが段々と主の命令を守らなくさせ、神様の言葉を退け、破滅の道へ進むことになる。
サウルの聖書における評価は、ダビデ、ソロモンと比べると雲泥の差である。しかし、ソロモンも晩年はおかしな行動をとり、ダビデも致命的失敗をしている。失敗したという意味においては、三人は同じ位置にあるはずだ。しかしダビデとソロモンには信仰があった。サウルは全能の神の存在も知り、預言もでき、礼拝もした。しかし、彼には信仰がなかった。礼拝は形骸化し、嫉妬による怒りの連鎖で感情が制御不可能となり、悔い改めができないまま最期を迎えてしまった。「捨てられた」という傷が、彼を悪霊の餌食としてしまったのだ。
信仰は賜物だ。持て、と言われて持てるものではない。だからこそ、私たちは賜物を求め、常に信仰を吟味をする必要がある。クリスチャンであっても、神様のため教会のため、と言いながら、自分のため、自分を神とするためにしていないだろうか。神様の前に出て、謙虚に求める時、御言葉は、現在進行形で適応し続けなければならないこれらの御言葉が恵みとして与えられる。それが神様の愛だ。
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。 悪魔にすきを与えてはなりません。(エフェソ4:26-27)
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。(Ⅱコリント13:5) (Report by Mu )
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