Good News Report

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「彼の名は神」30分de一巻 Vol-9

2016年10月29日 | Good News
しばらく歴史書が続いて行く。今回のⅠサムエル記は、ユダヤの経典では1と2で一つの書簡であり、預言書に属している。混沌とした士師の時代から、イスラエルに王政ができ、基盤が整い始めるころ、サムエル誕生、ダビデ晩年に至るまで、紀元前1000年前後の約100年間くらいの話で、内容としては「ダビデ記」と言える。

聖書には一般の歴史的読み物と全然違い、主人公を理想化したり、話をストーリー仕立てにすることはない。その登場人物は多くの欠陥と悩みを持っていて、本書の主人公ダビデもまた、神様への揺るぎない信仰を持っている反面、罪をもおかす。その彼についても、聖書は事実は事実として、一切の脚色なくありのままの姿を描いている。罪や弱さを持った欠点だらけの人間に神の恵みが与えられ、不思議な形で用いられつつ、歴史が動かされていくのだ。「30分de一巻」では、歴史的出来事ではなく、登場する人物に焦点を当てて話を進められ、今回はハンナ、サムエル、サウルが取り上げられた。

ハンナ:
ハンナはサムエルの母であり、その名前の意味は「恵み」。彼女は、聖書に登場する女性の中でも覚えておくべき一人である。本書にあるハンナ賛歌は、マリア賛歌と共に新旧聖書の双璧を成す信仰告白だからだ。ハンナと夫エルカナ、そしてペニナの関係は、創世記でのサラとアブラハム、ハガイの関係に似ている。二人の女の戦いをめぐる相関図において、エルカナは実にできた夫で、ハンナを慰め、励ます。しかし彼女の心の奥底にある苦悩は治まることなく、ハンナは心を注ぎ出す祈りへ追い込まれていく。

彼女の祈りの特徴は、「万軍の主よ」「主に在って」「主に」と、身を絞るような神様への訴えかけであり、その祈りは1章11節で、命を懸けて取引をする意味を持つ誓願に至っている。誓願の祈りは、士師記のエフタ同様、約束厳守が必須。人生崖っぷちの中で誓願を立て、そのハンナの誓願によって誕生した子供がサムエルだった。

同時に、1章5節には、「主がハンナの胎を閉じておられた。」という神様の意図を見ることができる。つまり、神様はサムエルという人物をイスラエルに送るためハンナという一人の女性を用いられ、ハンナが誓願の祈りを立てるのを待っておられたと言える。全能全知の神様は、ハンナの願いも、私たちの必要もすべてご存知だ。その上で祈り続けることを願っておられる。イエス様もルカ伝で「気を落とさずに祈り続けよ」と教えてくださり、ヨハネ4章では、「神様は真の礼拝をする者を求めておられる」とある。私たちクリスチャンはこの神様の思いが抜けてしまっていることがある。神様が祈りを待ち、礼拝者を求めていらっしゃる。ここに、神様と人間との密接な関係を見ることができる。

サムエル:
サムエルは、サウルとダビデに王位を授けた最初の預言者だ。しかしそれだけではない。「先見者」「神の人」とも呼ばれ、7章では「最後の士師」とある。更に、神様の代理人としてサウルとダビデに王位就任の儀式を行った「祭司」でもあった。また、9章の記述からは、当時堕落している祭司たちがサムエルによって再教育されていることがわかる。当時の「神学校教授」でもあったのだ。ハンナの誓願を通して生まれた彼は、イスラエルの礎を作るために派遣されたミスターオールマイティだ。

サムエルという名は、「シェーム(=名前)」と「エル(=神様)」が合わさり、「彼の名は神」という意味を持ち、その名の通り彼はモーセと並び称されている重要人物である。

主はわたしに言われた。「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい。(エレミヤ15:1)

主の祭司からはモーセとアロンが 御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと主は彼らに答えられた(詩編99:6)

神様の言葉を蔑ろにしていると中身が徐々に腐り始め、いずれ外部に浸食し始める。士師の時代、イスラエルの人は神様の御言葉をちゃんと聞いていなかった。腐り始めていたのだ。その状態を修復するため、神様はサムエルを用いて原点回帰を働きかけられた。これは現代の私たちにも同じことが言える。信仰生活とは礼拝だけしていればよいものではない!神様の知恵を持って生きるためには、絶えず聖書を読み、正しく理解して、検証できる実践力を蓄える必要がある。聖書の学びは不可欠であり、それを知的欲求を満足させるに留まらせてはならない。聞いた御言葉を反復すること。それがえんぢぇる師が繰り返して言う「アプリケーション」なのだ。

サウル:
サウルはイスラエルの人々の切望によって最初の王となった人。しかし、そのイメージは、嫉妬深く、被害妄想持ち、神経質で、ダビデを苛めて殺そうとまでした嫌な奴ではないだろうか。しかし、彼は初めからダメな奴ではなかった。彼は、一農夫から神様に選ばれ、人に対しても家族に対しても素直で従順であり、サムエルにも謙遜で、文句のつけようのない人物像を10章までに見る。神様は彼の心を新たにされ、預言もし、柔軟であり、しかも背が高くてイケメンだった。まさに初代王にふさわしい選びの器だったのだ。

また、サウルの方がダビデ、ソロモンより優れている点がある。ダビデは優れたリーダーシップを持っていたが、彼には致命的欠陥があった。アンチイクメンだったのだ。ダビデは子育てに失敗し、その子ソロモンもまた、良い出来とは言い難い。しかし、サウルはその息子ヨナタンを立派に育て上げ、親子関係も良好だった。Ⅱサムエル記では、ダビデもこう謳っている。

サウルとヨナタン 愛され喜ばれた二人 鷲よりも速く、獅子よりも雄々しかった。命ある時も死に臨んでも 二人が離れることはなかった。

しかし18章以降、ダビデとヨナタンが心を通わせるようになって以降、ややこしい問題が絡み、事は複雑な様相を見せる。ダビデの父はエッサイ、しかしその母の名前ははっきりと記載されておらず、詳しい話しは一切ない。が、彼の母はアヒノナム、サウルの奥さんだ。聖書中最大の問題発言が本書20:30にある。サウルがヨナタンに激怒して思わず発してしまった言葉だ。この発言やその後の下りから、ダビデはヨナタンの異父兄弟だと分かり、前後状況もクリアになる。ダビデはエッサイの長兄から疎まれていた、ミカルとの間にも子はなかった、互いに兄弟と呼ぶダビデとヨナタンの親愛の情。サウルは妻の裏切りに対する感情転移でダビデを憎み、募るその思いが段々と主の命令を守らなくさせ、神様の言葉を退け、破滅の道へ進むことになる。

サウルの聖書における評価は、ダビデ、ソロモンと比べると雲泥の差である。しかし、ソロモンも晩年はおかしな行動をとり、ダビデも致命的失敗をしている。失敗したという意味においては、三人は同じ位置にあるはずだ。しかしダビデとソロモンには信仰があった。サウルは全能の神の存在も知り、預言もでき、礼拝もした。しかし、彼には信仰がなかった。礼拝は形骸化し、嫉妬による怒りの連鎖で感情が制御不可能となり、悔い改めができないまま最期を迎えてしまった。「捨てられた」という傷が、彼を悪霊の餌食としてしまったのだ。

信仰は賜物だ。持て、と言われて持てるものではない。だからこそ、私たちは賜物を求め、常に信仰を吟味をする必要がある。クリスチャンであっても、神様のため教会のため、と言いながら、自分のため、自分を神とするためにしていないだろうか。神様の前に出て、謙虚に求める時、御言葉は、現在進行形で適応し続けなければならないこれらの御言葉が恵みとして与えられる。それが神様の愛だ。

怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。 悪魔にすきを与えてはなりません。(エフェソ4:26-27)

信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。(Ⅱコリント13:5)  (Report by Mu )




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「友情」30分de一巻 Vol-8

2016年10月16日 | Good News
起承転結がはっきりしていて、美しい文学作品のような素晴らしい文章が紡がれる“ルツ記”。サラッと読んでしまえば、「あぁ~良い話だなぁ~」で終わってしまうかも知れませんが、今迄学んだ聖書の事柄や、当時の時代背景などを照らし合わせると、とてつもなく偉大で深い神様の愛と計画が読み取ることが出来る書簡です 結論を先に言ってしまえば、このルツ記で創世記3章15節のメシア預言が、初めて具体的に示されたのです

まず、つめ。ここで、今迄学んだ聖書の適応が必要になりますが、「ルツはモアブ人であった」事をよく理解しておかなければなりません。モアブ人は、ソドム滅亡の際に登場したアブラハムの親戚であるロトの子孫です。つまり、ユダヤ人とは親戚関係にあたるのですが、モアブ人は偶像礼拝を行っていた為、ユダヤ人からは忌み嫌われていました。民数記の25章には、モアブ人の女によってイスラエル人が偶像礼拝や淫行を行って神の裁きがくだり、その裁きによって2万4千人が死んでしまったという記事があります。モアブ人であるルツが、周囲から差別の目で見られていたことは、当時の社会背景を考えますと、ごく当然のことでした。

どう考えても異邦人の自分は軽蔑されるし、故郷に帰ってもどうやって生きて行っていいのかさえ分からない。そんなお先真っ暗な状態でも付いて行くと言う選択をしたルツは、普通に考えたらあり得ないことで、逆にモアブの地に留まったオルパの方が、常識的な選択でした。でもこの状況は、創世記でモアブの地を選んだロトと、イスラエルの地へ向かったアブラハムと重なります。神様が喜ばれる選択と言うのは、どちらかと言えば、自分的には損だとか、そっちにだけは絶対に行きたくない!と言うような選択の場合が多いのです。

ですが、苦しくとも、神様に喜ばれる選択をしたルツは用いられ、ルツとボアズとの間にオベデが生まれ、それからの何とイスラエルの王ダビデが誕生し、救世主イエス・キリストへとつながる事となりました。ユダヤ人に忌み嫌われていた民族の女性によって、士師の時代の、ぐちゃぐちゃになりかけた、ユダヤ人の系図が回復されたのです。神様の前では全く分け隔てない、民族を超えた神の民としての友情が、ここに表されました。この神の選びの民であるイスラエル人と、異邦人との一致こそが、神様の究極的な目的なのです

   

つ目は、贖いの原形です。当時のイスラエルには“レヴィラート婚”なる社会習慣がありました。これは、戦争や病気等で短命の時代、もし子供がないまま夫が死んでしまった場合、死んだ夫の兄弟が未亡人となった兄弟の妻と再婚して、子孫を絶やさぬようにするというものです。この習慣は特にユダヤ人にとっては、創世記の「産めよ増えよ地に満ちよ」この神様の命令に従う意味がありました。(この習慣は日本にもありましたが、儒教の浸透によって江戸時代中期の武家社会から少しずつ廃れ初め、明治8年には太政官指令によって禁止されました)

日本語の聖書では、「払い戻しの権利がある一番近い親戚のひとり」とか「家を絶えさせないようにする責任のある人のひとり」等と訳されていますが、これをヘブル語で「贖い主(ゴーエール)」と言います。また、当時は家族や親戚が、戦争によって土地を失ってしまったり、他国の奴隷にされてしまったりと言うことがありました。これを助ける際にも、同じ「ゴーエール」と言う言葉が使われました。つまり、ヘブル語の「贖い主」とは、どこか高い所から「救ってやろう」ではなく、そうなってしまったのは、その人のせいではないのだけれど、「その人を心配するあまりに、多大な犠牲と代価を払って、愛する家族を買い戻す」という意味なのです。つまり、これがイエス・キリストの十字架の贖いの原形なんです

そして、つ目がメシア誕生の原形です。ルツ記4章13節には、ボアズがルツを娶ってルツが男の子を“身ごもった”と言う記事がありますが、ここを注意して読んでみると、“主が身ごもらせた”と書いてあります。普通なら“ボアズが彼女のところに入ったので彼女は身ごもった”と書かれる筈です。通常、身ごもる(妊娠する)という言葉は、ヘブル語の“ハーラー”という動詞が使われますが、この箇所では“身ごもる”ではなく“受胎”と言う名詞が使われています。この言葉には“神が与える”、“神が願いを叶える”と言う意味が含まれています。

この“受胎”と言う言葉は、旧約聖書では本書以外には、ホセア書9章11節にしか出てきません。この箇所は、神様の裁きについて書かれてあります。これは、ギブア、ぺエル、ギルガルの罪による裁きで、ギブアは士師記19章のベニヤミン族の蛮行、ぺエルは民数記25章の事件、そしてギルガルは当時の偶像礼拝の中心地でした。ところが、この神様の裁きが、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と信仰告白をした、1人のモアブ人の女性ルツの祈りと献身によって赦され、イスラエルの王、そして、全世界の購い主であるイエス・キリストへと繋がる“受胎”が与えられたのです

聖書にある神の摂理とは、人間には決して考えの及ばない、最高に美しく素晴らしいものです。高学歴であるとか、家系であるとか、民族だとか、どれだけ出世したかなどの、人間的な価値観では、神に用いられるかどうかは関係がないのです。例え弱くても、例え小さくても、神様によって正しい選択をして、神様によって苦しい所も乗り越えたら、神様はあなたを、そして私でも大きく用いて、神の民としてくださいます。ルツ記は、そんな素晴らしい神の計画が読み取れる、素晴らしい書簡です。日々の選択を、神様に喜ばれ用いられるものとして行きたいものですね。ハレルヤ (Report by Yuka)




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「救済者」30分de一巻 Vol-7

2016年10月03日 | Good News
聖書の原題は、1章1節からの由来でしたが、士師記というタイトルは、2章16節から来ています。

主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。

この箇所の「Shofetim・裁く・助ける」という言葉から来ているのですが、「士師」とか「裁き司」では一般的に意味が通じませんので、「解放者、救済者」と理解すれば分かりやすいと思います。

やっと約束の地に入ったイスラエル部族には、それぞれ土地が割り当てられましたが、その段階で先住民との戦いは未だ終わっていませんでした。反イスラエル勢力は未だ各地に点在しており、イスラエル民族を脅かしていたのです。当時のイスラエルには、モーヤやヨシュアのような指導者はおらず、約束の地に入ったと言う安心感の故か、烏合の衆と化した民は早くも偶像礼拝に陥っていました。それで神はその時、その地域、その相手ごとに、救済者を送ってイスラエルの民を守られたのです。

本書は、彼らがカナンの地に入ってから、イスラエルが王制によって建国される迄(BC1400-1100)約300年間の、政治的指導者、宗教的指導者、国を導く預言者、それどころか政府も、首都さえなかった混沌とした時代に活動した12人の救済者たちと、イスラエル民族の歴史が記されているのが本書の内容です。

さて、本書のキ−ワードとなる御言葉が、21章中計4回(17:6、18:1、19:1、21:2)登場します。

その頃イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見える事を行っていた。 

実は本書を歴史的観点から見ますと、本書は旧約中でも、私達にとって非常にメッセージ性が濃い、ある意味身近な書巻であると言えます。何故なら、この士師の時代は今の日本の状態と重なるものがあります。それでは、現代に生きる私たちに士師記がどのように適応できるのでしょうか?今日は、本書から4つポイントでお話しをします。



人間の失敗の歴史から学ぶ
イスラエル民族の歴史には、有史以来、繰り返されている一つのサイクルがあります。

①神に選ばれ、神と契約を結んだ民にもかかわらず神を忘れ、神との関係から離れて行く( 背信)
②他の神々にひれ伏す( 偶像礼拝)
③イスラエルの人々の生活が脅かされる( 堕落)
④イスラエルの部族間や異民族間での争いが起きる( 崩壊)
⑤イスラエルの人々が主に助けを求める( 悔い改め)
⑥神が救済者や預言者を遣わしてイスラエルの人々を助ける( 回復)

このようなことが繰り返されるのは、士師記の2章10節に書かれているように、「信仰の継承(自分の家族は勿論、次世代への継承)」が成されていない事が原因です。そしてそれは、私たちの生活が、危機的な状況に陥ることを意味しています。

現代におけるクリスチャンの立場
現代に生きる私たちクリスチャンは、この世に神様から遣わされた「士師!」であるという自覚を持つことが大切です。12士師は、12部族や12弟子に比べると、非常にマイナーな存在です。彼らはダビデやエリアのような国民的ヒーローではなく、ごく普通の人、非常にクセのある人、女性に弱い乱暴者や仲間たちからのけ者にされているような人たちでした。神は聖人君子のような人物でなく、欠陥だらけの人間をあえて選ばれるのです。そして彼らは限られた時代・部族・地域の救いに向けて神様から派遣された地域限定型救済者でした。 私達も現代日本という特殊な時代・国に神様から使わされている存在なのです。

自分が与えられているもので行動する
当時のペリシテ人は、すでに鉄器を武器として使用していました。しかし、当時のイスラエルの人々には、鉄を精製する技術はなく、そんな状況の中で、サムソンはロバの顎の骨を武器にペリシテ人を倒したのです。また、シャムガルの武器は何と牛追い棒でした。「そんな、まさか?!」と思われるかも知れませんが、ここに神様の力が士師を通して現されています。そして今も、神様を信じるクリスチャンには、常識を超越した神様の力が聖霊様によって与えられているのです。

2コリント8章11-12説には、このように書かれています。
だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。

聖霊の力により頼む
士師たちはどのようにして神様の使命を成し遂げることができたのでしょうか?彼らの力の秘訣が聖書にこう記されています。
オテニエル 主の霊が彼の上に臨み(3:10)
ギデオン   主の霊がギデオンを覆った(6:34)
エフタ    主の霊がエフタに臨んだ(11:29)
サムソン 主の霊が彼を奮い立たせた(13:25)、主の霊が激しく彼に降った(14:6、19、15:14)

また、新約聖書(ヘブル書11:32)に取り上げられている士師が4人(ギデオン、バラク、サムソン、エフタ)います。上記の4人と比較すると、オトニエルのかわりにバラクの名が挙げられていますが、彼ら12人は全て神によって立てられた救済者であり、神様に用いられるの力はいつも聖霊から来ます。

私たちの力はいつも神様から来るという事を信じ、聖霊に依り頼むこと、それは士師記の時代も、現代に生きる私たちの時代も同じです。いつも御声に耳を傾け、聖霊に従い、自分の思いで先走らないことが大切です。イエス様と繋がること。それが、聖霊の力を得るという事につながります。イエス様とつながってさえいれば、私たちクリスチャンは必ず、自分が置かれた場所で花を咲かす事が出来るのです (Report by Mimita


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