Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

續エマオの旅人 (ルカ 24:32)

2015年04月20日 | Good News
えんぢぇる田中の「復活!」シリーズ・ニューバージョン、「エマオの旅人」続編。ヤバいことはご免、とスタコラサッサとエルサレムから逃げ出した暗い顔の二人の弟子、クレオパと“私”。前回引用した芥川龍之介の絶筆「續西方の人」に倣って、「續エマオの旅人」とタイトルしたメッセージ後半。

「復活!」シリーズは当然、且つ毎回のように確認されることだが、十字架と復活はコインの表と裏のようなもので、二つで一つである。イエス様は十字架に架かられた、だけではなく、そして復活された、を語ってこそ福音になる。カトリックのクロスには、しばしば十字架に架かられたままのイエス様を見るが、それでは半分なのだ。半分クリスチャンや半分信仰はあり得ない。聖書も、ほとんど信じているけど、「奇跡」とか「復活」はダメ、ではクリスチャンではない。聖霊の力はそこにない。66巻すべての内容が神様の言葉だ。中庸を重んじる日本人はどうしても曖昧を好み、グレーゾーンに留まりやすい。しかしそれは、光の内にいることではない。聖書の価値観では、光か闇であり、光の内にいなければ、闇の中、つまりサタン側にいるということだ。この大切なポイントに、勝手な自己解釈をしてはならない。

世の中に数多ある宗教は、すべて「教え」を信じている。仏陀の教え、アラーの教え、某教祖の教え。しかし、クリスチャンはイエスの教えを信じているのではない。復活のイエス様を知っているか否か、だ。復活は教えられてわかることではない。教理でもない。これは事実だ。そして復活なしには福音、完全な救いと永遠の命にはなり得ない。他宗教と同じことになる。「十字架と復活」こそが、クリスチャンが伝えるべき、福音の核なのだ。

我々の大将、イエス様は十字架に架けられ、殺されてしまった。これですべて終わりだ。我々も殺されるだろう。」イエス様は、公生涯中に幾度も約束について仰っていた。しかし誰も真剣に受け止めておらず、理解していなかった。復活を信じられない弟子たちは皆、恐れおののき、逃げ出したかった。実際暗い顔のまま逃げ出した“私”もいた。しかし、十字架は終わりではなかった。イエス様はこれが「始まり」だと御存知だった。だからこそ、逃げ出した“私”を追いかけて復活の事実を示し、引き戻して留まらせ、聖霊を授けて弟子にまでしてくださった。教会時代の幕開け、全人類救済計画の始まりのために。

復活がわかって初めて十字架がわかる。そして復活のイエス様に会える。「續エマオの旅人」では、復活がわかるためのキーワードは、「一緒に」だ。最初はイエス様の方から近づいて来てくださった。そして「一緒に」歩きだし、「一緒に」泊り、「一緒に」食事の席に着いた。いつでもイエス様と「一緒に」いること。さて、“私”はそれをほんとうにわかっているだろうか。このエマオの話の中心聖句は、「イエスは生きておられる」(23節)だ。これがあって、「一緒に」歩けるもので、クリスチャンの信仰の原点だ。しかし、当たり前過ぎて、「一緒に」いられる感動がなくなってはいないか。単に聖書を勉強する、単に暗唱聖句を増やす、単に知識を増やす、それだけでは信仰は形にしか過ぎなくなる。信仰の形骸化は、神様が最も嫌われることだ。神様は心をご覧になるのだから。今、ここでイエス様と「一緒に」いるとしたら、“私”はどうするのか。それが御言葉のアプリケーションになる。

そしてもう一つ、更に具体的に実践するためのキーワードは、「聖書全体に亘り」。聖書は総合的解釈が必要だ。そのための牧師のメッセージであり、教会の聖書クラスがある。聖書が全体的に解釈できたら、イエス様が何者かであるかが少しずつわかってくる。一人で、自分の経験や価値観や道徳観で読んでいては、自分勝手な理解、独り善がりの解釈、自分だけのイエス像を作ってしまうからだ。“私”だけの勝手なイエス像を作ってしまうなら、それは自分の言うことを聞き、願いを叶えるような魔法使い的神を求める世の人と同じだ。神様像を勝手に作ってはならない。天地創造の神様は、“私”の神様であっても、“私”だけに幸せをくれる神様ではない。最終的に、すべての被造物が幸せになることを願っていらっしゃる。

聖書を全体的に理解するための5ポイント。
 学ぶこと
 求めること
 委ねること
 神様を愛すること
 隣人を愛すること

そしてこの5ポイントを行っているのが教会だ。教会にはイエス様がいらっしゃる。イエス様が愛した教会には、たとえイエス様が目に見えなくても「愛し愛されている」関係がそのままあり、そこにイエス様が生きておられる。家族と一緒で、物理的な距離が離れていても愛の関係は変わらない。メッセージも聖書の学びも人生を変える命の時間だ。そんな教会で、イエス様と「一緒に」いて、話を聞き、聖書を学び、感動して留まり、お食事を分け合う。教会に必要なのは正確なプログラムではない。ただ、このポイントだけだ。

「我々はエマオの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」

前回も引用した芥川の文章のように、今まで意気消沈して暗い二人の弟子が、生き生きと燃える人に変えられたその感動に触れた時、私たちの心も燃える。「感動」は人を変える。そしてクリスチャンの感動は一時的なものではない。それは、真の感動とは、環境や状況で生じる一時的なものではなく、イエス様に愛されることで生まれるものだからだ。感動のない人生なんてつまらない。感動したことがないなら、ぜひ教会へ!教会の使命は、あなたと「一緒に」感動ある人生を送ること。そのための家の教会です。

ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。美味しい食事を囲みながら、えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を語り合いましょう 命の時間を持ちましょう 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI



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エマオの旅人 (ルカ 24:32)

2015年04月10日 | Good News
イースターは、えんぢぇる田中の「復活!」シリーズが定番。が、今年のイースターはちょっと違います。なんとバージョンアップ!しかし、相変わらずの「復活!」魂での熱弁は変わらずです。今回は暗い部屋に閉じ籠ってぶるぶる震えていた弟子たちでなく、ヤバいことはご免、とスタコラサッサとエルサレムから逃げ出した暗い顔の二人の弟子。その名はクレオパと○○○。以下、歴代の復活レポートと音声、動画もリストアップしてみましたので、復習&『○○○』を事前に考えてから、ニューバージョン復活メッセージをお聴きください。


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以下、復活メッセージの歴々。

イエス復活!#1
http://blog.goo.ne.jp/goodnewsstation/e/13be77b1d7949a5d1e442f4b349499ae

イエス復活!#2
http://blog.goo.ne.jp/goodnewsstation/e/85cadd23f02e7d963d6568dc191aa959

クリスチャン復活!
http://blog.goo.ne.jp/goodnewsstation/e/07e81eb9898fe2f3c6300bd6cf13fdd2

イエス復活!#3
http://blog.goo.ne.jp/goodnewsstation/e/c8aa432b33571dd768fd4d8fd02ed570

イエス復活!(動画)
https://youtu.be/CJzfJ4_Qz3U

イエス復活!(音声)
https://youtu.be/WPlIZZAL36Y


復活シリーズ:ニューバージョン「エマオの旅人」は、レンブラント他、多くの絵画にもあるルカ24章のストーリー。今日新たに教えられたポイントは以下の通り。

ヴィジュアル ザ・あらすじ
これは、今までくらーーーい顔で、不安そうに怯えていた人が、イエス様と出会うことで生き生きと燃える男に変えられた話。
ロサンゼルス教会には上の絵がある。そのためか、私の中では、「くらーーーい顔で歩いていた二人」の印象が薄かった。イエス様と語らいながらのんびりと歩く道のり、、、いいなぁ、とまで安直に考えていた。でもそうではなかった。イエス様と出会って変えられ、方向転換する「弟子」の話なのだと知らされた。一枚画が、暗光の動画に変えられた感じ。

エマオの位置

エマオは、エルサレムより10キロ程西にある場所。二人はエルサレムを出て西へ向かって歩いていた。神の国は、朝日の出る方向である東にある。一方、西は日が沈む方角であり、二人は闇に向かって歩いていたのだ。少し前には、意気揚々とエルサレム入城をイエス様と一緒に果たし、歓声と希望の中にいたはずなのに、、、と思いながら、人を避けて失望と落胆に向かって歩いていた二人だった。「エルサレムに留まりなさい。」というイエス様との約束も無視し、信仰を捨てて絶望への道を歩いていたのだ。その二人を、イエス様は追いかけてきてくれた。

暗い二人とは?
これはイエス様が復活された当日夕方のこと。この日、二人はイエス様復活のことを女たちから聞いて知った。でも、二人は復活を信じていなかった。これは、現代も同じ。復活を信じていないクリスチャンの顔だ。罪に苛まれ、暗い顔のまま、当てもなく信仰から遠ざかるように歩いている。彼らにとって、すべては既に終わってしまった出来事。イエス様との関係は自分の身に起きたことではあるが、全部終わった「過去」のことで、その言葉には意味も目的もない。私の「証し」はそうではないか。イエス様は復活されて、今なお生きておられ、もうすぐに再臨される私の王、と「今」を語っているだろうか。

霊的視力
二人は、最初イエス様とはわからなかった。聖書の話を聞き、一緒に泊まることをお願いして、食事の席で賛美して祈ってパンを受け取った時、イエス様とわかった。そしてわかるな否や、イエス様はいなくなった。二人が霊的盲目の時は見えていたイエス様は、霊の目が開けた途端に見えなくなった。霊の世界と人間の世界の繋がりと同じようだ。

方向転換
その後、二人は泊まることもせず、すぐにエルサレムに引き返して行った。西へ向かっていたのを、180度転換し、東のエルサレムに一目散に戻って行った。そして戻ったエルサレムで、二人はまたイエス様に出会う。悔い改めを示す言葉、『メタノイア』の意味は方向転換。しかし、方向を変えるだけではなく、実際に戻っていくことが必要だ。

クレオパと
そして、一番のキーポイント!二人の内、一人はクレオパと名前が記されている。そして、もう一人は?もう一人の名前は、一生懸命探したところで聖書に書いてはない。書いていないのは、理由がある。それはこのもう一人が「私」だと気付くため。クレオパと私、川村睦美とイエス様の話として読まなければ、神様からのメッセージはわからない。聖書は、「私」に書かれたものだ。第三者視点では、決してわからない。イエス様は、「私」のために十字架につき、贖いの業を成し遂げてくださったのだから。

「我々はエマオの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」これは芥川龍之介の絶筆「續西方の人」の最後の言葉である。彼も聖書を読んでいた。イエス様を知的に知ろうと努めていた。が、知識や感情で信じても、ほんとうに信じていることにはならい。信じる、委ねるは、知的領域ではなく、霊的領域のことだ。霊に触れてくださった時、イエス様が「私」にとって何者かがわかる。イエス様の十字架がわかり、復活を知る。復活がわかって初めて十字架がわかり、イエス様に会える。後半は、復活がわかるためのキーポイントが語られるが、「イエス復活!」に続く素晴らしい、心が燃える復活メッセージでした。感謝!


ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。美味しい食事を囲みながら、えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を語り合いましょう 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI


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悪魔の正論 (ローマ 6:16)

2015年04月04日 | Good News

妖怪ウォッチの流行に伴い、妖怪も注目を集めている。メディアでは特集番組が放送され、あちこちの町おこし運動や観光誘致のポイントにもなっている。八百万の神やアミニズムを信仰する多くの日本人は、河童のミイラが子宝をもたらすと聞けば、鰯の頭も信心から状態で、妖怪にすらご利益を求めて奉っている。

日本人はご利益に拘るが、欧米人は根拠に拘り、科学で証明できないような摩訶不思議な出来事に、多様な方面からの究明を図る。妖怪ではないが、ガーディアンエンジェルや守護天使とも呼ばれる「サードマン現象」、究極の危機状態に遭遇した時に助けに現れる第三者の存在については、長年研究が重ねられている。米国同時テロの際、炎に包まれるビルから避難した人の証言がある。火災と煙と非常用シャッターでどうにも身動きができなくなったその時、「わたしについてきなさい。あなたを家に送り届ける。」というはっきりとした声に導かれ九死に一生を得た。クリスチャンとしては、紛れもなく天使の助けと思うことだが、聖書を信仰しない一般的科学的論拠としては、(1)精神状態の混乱が招いた幻覚、(2)多重人格症例、あるいは(3)守護天使の存在など可能性としては挙がるものの、確証を得るには至らない。

物質的領域と人間的領域の相互作用は、何世紀にも亘って研究をされてきているが、殊、霊的領域と人間的領域の研究になると、現代に至っても尚、まったく無視されている。しかし、目に見えない世界を信じる人は年々増加し、50年前から数えると倍増というデータもある。霊的世界について、聖書ははっきりと語っている。そのポイントを確認しよう。

人間に類推できない未知の世界は理解できなくて当たり前

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(Ⅱテモテ3:16)

聖書は、人間の類推では信じられないこと満載の書物だ。天地創造の神様、数多の奇跡、イエス様の贖い、復活と再臨。その内、理解できる部分だけ、あるいは好きな部分だけ信じているのは、ほんとうの意味で信じることではない。無限であり、永遠の神様が人間に類推できなくて当然と言えば当然なのだ。逆に、人間の理屈にすべて当てはめて理解できれば、それこそ眉唾。ここに、「人間創った神」か、「人間作った神か」の違いがある。自分には理解しえない未知の世界があるのは確か。それに否定的態度を取るのは愚かであり、知らない世界に対するオープンな気持ちとチャレンジ精神を抱いてこそ、新しい世界が広がっていく。

神がいるなら悪魔もいる

神様という言葉に抵抗のある人はほとんどいないが、話が天使とか悪魔とかになると、途端に荒唐無稽な御伽噺のように捉えられてしまう。この世界には、光と影、陰と陽、表と裏、 善と悪、男と女、のように必ず二つの対照がある。つまり神が存在しているのなら悪魔も存在し、神に仕える天使がいるのなら、悪魔に使える悪霊も存在する。天使や悪魔は、単に人間の心や善と悪とを象徴的に擬人化したものではない。創世記から黙示録まで、聖書は霊の世界の存在について繰り返し言及し、悪魔について警告しているにも係わらず、教会がこの事について論じないのは、この段階で悪魔の策略に陥っているのだ。犯罪を企む者にとって最も都合が良いのは、自分の存在と自分の目的を相手に知られないこと。私たちに対する悪魔の第一の働きは、自分の存在を隠すことなのだ。悪魔とか悪霊とか、そんな話しを喜んで聞きたいと人など誰もいないが、それは好きとか嫌いとかの観点で捉える問題ではなく、それが聖書にある事実か否かが問題なのだ。C.S.ルイスはこう語った。「サタンに対して無関心であることも、侮ることも、恐れることも、彼らの思うつぼなのである」と。 

悪魔の目的は、神と人間とを切り離すこと

へブル語ではサタン、ギリシャ語ではサタナス、いずれもその意味は「訴える者、告発する者」だ。この世の悪の根本原因は、すべてサタンの誘惑と人間の誤った自主判断に拠る。サタンは、人間の理性や感情に巧妙に働きかけ、この世の美しいものや楽しいものを使って人間を罪の道へ誘う。そして誘惑に陥って罪を犯すな否や告発する。サタンは、目に見える悪意ではなく、正論を持って誘惑してくるのだ。

「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません!」と豪語したペテロには、仲間を出し抜こうとする抑揚した感情があった。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と呟くユダの正論には、自らの誤魔化しの奥にある隠れた心の動きがあった。私たち自身、時に自分の心の動機がわからないまま、言葉を発することがある。この世界、どこを見てもすべて正論が前提で動いている。政治も経済も道徳も。そしてあのイスラム国や北朝鮮であっても、彼らの「正論」によって動いているのだ。その歪んだ確信による「正論」が人を殺している。どこの国も、誰もが自分たちの正当性を主張する。しかしその正論に決定的に欠けているものがある。そこには愛が存在しない。

正論の応酬に、「愛」など持ちだせばせせら笑われるだろう。それくら、まったく愛が欠如している。国家間レベルから日常生活に至るまで、正論を振りかざす側と振りかざされた側のやり取りは平行線を辿るのみで、根本的な解決の糸口にはならない。こうして、世の中の正論を巧妙に用いながら、私たちを不幸と混沌へ陥れて行くのが、サタンの奥深いやり口なのだ。

サタンの究極の目的は、人間を苦しめることでも、殺すことでもない。一生、家庭や財産に恵まれていても、最後に神様との関係がなければ、サタンの勝ちであり、すべてを、命すら失っても、最期に主を呼び求めればサタンの負けなのだ。サタンは、神様の最後の審判の時、自らが滅ぼされてしまうことを知っている。だから、一人でも多くの人間を道連れにしようと必死に、ありとあらゆる手を使って唆してくるのだ。

人間は神につくか悪魔につくかの二つに一つ

知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。
つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。(ロマ6:16)

多くの人々、特に日本人は、神様側にいなければサタン側にいることになると理解していない。文化的に、イエスかノーかをはっきり主張せず、敢えて中庸を重んじ、白黒はっきりさせないのがマジョリティであり、良しとしている。しかし、霊の世界に中間のグレーゾーンはない。人間という存在は、神につくか悪魔につくかの二択を自らで選ぶことになっている。神様側につけば罪を赦され、永遠の命を得られる。一方、悪魔側につけば罪の奴隷となって、永遠の滅びになる。しかし徹底した現世主義に根差した自己中心性と霊的無知ゆえに皆、後者を選んでいる。明らかに人間を神から離そうとするサタンの働きに乗ってしまっているのだ。

イエス様に繋がること!

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 (Ⅰペテロ5:7)

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ5:8)

神様側についているために、必要なのは、イエス様に繋がっていること!ただそれだけ。サタンが最も敵視しているのは、クリスチャンの存在。他の人々は策略が功を奏して、知らずと悪魔陣営に繋がってしまっているのだから。ペテロの手紙は、各地に離散していて仮住まいしている選ばれた人たち、つまりクリスチャンに対してのメッセージだ。上記2つは良く知られているッ御言葉だが、前後して繋がっていることに気付いている人は少ない。聖句は呪文ではない。前後、そして全体の内容と意味を正確に把握理解することが大切だ。

ここで、悪魔に食い尽くされそうになっているのは、すぐ前にある思い煩いを任せることができないクリスチャンのことだ。神様と言う最強の味方を知りながら、日々悩みの連続、思い煩いの山。これら悩み煩いが不信仰となって、悪魔が噛みつく餌になる。クリスチャンの最も弱い部分につけ込み、躓かせようと、悪魔が狙う。実に「躓き」のギリシャ語は、スキャンダルの語源であり、人間が神様に躓くことが元祖スキャンダル、という訳だ。

神様に完全に委ねた途端に、サタンは手出しすること適わず、イエス様の前には何もできなくなるのだ。この戦いは、イエス様によってすでに勝利が決定している。決して侮ってはならないものの、神の子にとって悪魔は恐れる対象ではない。ただ、イエス様と繋がっていることだけに、気を配ればよいだけだ。


「全ての人に要請されている最も重要な決断は、心の底からイエスキリストに対する態度を決断することである。 一切のことがそれに懸かっている。」
聖書ハンドブックを著したヘンリー・ハーレーの言葉通り、誰もがこの決断に日々直面する。そのことに、あなたの人生の一切が懸かっている。受難週の今、イエス様の言葉を聞いてほしい。「あなたの罪は赦された。今日、あなたはパラダイスにいる。」この言葉をあなたが選び、確実にあなたのものになりますように。Happy Blessed Easter!




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