見もの・読みもの日記

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ラストエンペラーの時代/紫禁城の黄昏

2005-05-08 09:22:35 | 読んだもの(書籍)
○R.F.ジョンストン著、中山理訳『完訳・紫禁城の黄昏』上・下 祥伝社 2005.3

 上巻のオビに「『東京裁判』と『岩波文庫』が封殺した歴史の真実!」、下巻に「日本人の中国観、満州観が、いま根底から覆る!」とあるのを見て、首をひねった。何か、定訳を覆す新資料でも出たのかしら? 岩波文庫の『紫禁城の黄昏』は、一度読みたいと思いながら、読んだことがない。いい機会なので、この際、完訳版を読んでみることにした。

 著者のR.F.ジョンストンはイギリス人。英国の行政官として、清末から民国初年の中国に滞在し、1919年から清朝最後の皇帝・溥儀の英語教師を努め、1930年に大陸を離れた(1931年に満州事変が起こり、1932年に溥儀は満州国執政に就任する)。

 著者と出会ったとき、宣統帝溥儀は13歳。5歳のときに辛亥革命が起こり、民国政府の成立を「承認」したが、相変わらず、紫禁城内で宮女や宦官に囲まれ、「皇帝」として育っていた。著者は、少年皇帝を、旧中国の悪しき慣習(内務府によって象徴される)から切り離し、正しく導こうと努力し、多感で聡明な少年溥儀もそれによく応えた。世界情勢について語り合い、スポーツを楽しみ、車の運転を習うなど、微笑ましいエピソードにあふれているけれど、「日本人の中国観が覆る」ほどのものではないと思う。

 民国初期、革命熱に浮かされていたのは少数の学生たちだけで、大多数の民衆は、共和国を支持せず、むしろ君主制の復活を望んでいたことを、著者は本書で繰り返し語っている。訳者は「あとがき」で、この点を特に取り上げて「興味深い」と語り、「当時の全人口の九十パーセントを占める農業人口のうち、八、九人は皇帝の復位を望んでいたという」から「ごく大まかに計算しても、三億数千万の民衆は君主制を望んでいたことになる」と、わざわざ人口換算まで示してくれている。

 これ、そんなに興味深いかなあ。君主制だろうが、共和制だろうが、平和で豊かな生活があればいい、というのが、いつの時代も民衆の本音ではないか。ただそれだけのことだろう。別に彼らは熱烈に君主制を待望していたわけではない。そのことは著者のジョンストンもよく分かっていたから、中国人の帝師たちと対立しても、少年溥儀を「皇帝らしく」育てることよりも、「どんな境遇でも通用する」人格を養うことに固執してたわけだし。

 本書の最後は、軍閥の領袖間の争いに巻き込まれ、身の危険を感じた溥儀が、日本公館に駆け込み、日本公使がこれを保護した事件で終わっている。著者はその後に日本が受けた「執拗な告発」、すなわち「日本公使館が皇帝を受け入れたのは、日本の『帝国主義』の狡猾な策略の結果」であるという見解を強く否定する。このへんが訳者の言う、「歴史の真実」の眼目なのだろう。

 また訳者は「あとがき」で、東京裁判に召喚された溥儀が「もっぱらソ連から言われたとおりに証言し」すべては日本の軍閥の仕業であるという答弁に終始したことを指弾している。これについて、弟の溥傑が「日本軍閥はわれわれを利用したかもしれないが、われわれも彼らを利用しようとしたことを、どうして証言しないのか」と語ったというのは興味深い。

 しかし、訳者は「(溥儀が)『私は日本の力を借りて満州国皇帝の座に復活したかったのだ』と証言し、本書が証拠資料として採用されていたら」と残念がるけれど、そこまでの効果があるかなあ、本書に。正直、私にはそのように読めなかった。

 本書は、特殊な境遇におかれた人々の記録として一定の史料価値は持っている。そして、少年皇帝溥儀の溌剌とした姿、人民の平安を希求する素直な心は伝えているが、後年、なぜ彼が「すべては日本の軍閥の仕業である」と言わざるを得なかったのか、「ソ連の圧力に屈して」と言ってしまえば簡単だけど、その内面の「文学的真実」が、むしろ私は知りたい。その答えは、残念ながら本書にはない。

 あと、気になったのは「内務府の役人はすべて満州人だった」という記述が本当なのか、確認したい。もうひとつ「宦官はすべて漢人だった」というのも。清朝末期の宮廷ではそうなのかな。満州人は宦官にならなかったという意味か。後考を待って留保。

[参考]宦官列傳(個人サイト):清代の宦官については調査中。
http://www.toride.com/~fengchu/index.html
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