○池波正太郎『真田太平記』全12冊(新潮文庫)新潮社 1987-1988
久しぶりの「読んだもの」更新である。全12冊、さすがに3週間かかってしまったが、長いとは思わなかった。おもしろかった。
実は、池波正太郎を読むのは初めてである。敬愛する丸谷才一さんが、よく褒めていらっしゃる作家なので、いつかは読んでみようと思っていたが、時代小説というジャンルが苦手で、これまで全く手が出なかった。なるほど、知性的だが情の温かみも備え、濡れ場もあるが下世話になり過ぎない、品のある娯楽小説だと思った。
これでも私は、学生の頃、司馬遼太郎の歴史小説にハマったことがある。司馬遼太郎もいい。しかし、40を過ぎたら「司馬遼太郎が好き」という人物より、「池波正太郎が好き」という人物と付き合いたい。一緒に飲む酒も旨そうだし。
私は戦国時代について、小学生並みの知識しかない。真田幸村といえば、私は、NHKの人形劇『真田十勇士』を思い出す世代だが、あの番組も、戦国武将の名前と複雑な歴史背景が理解できなくて、途中で見るのを止めてしまった記憶がある。
今回はだいじょうぶだった。30年以上の歳月を扱った小説で、有名無名のさまざまな人物が登場するが、ひとりひとり、見事に描き分けられていて、全く混乱しなかった。
真田昌幸(幸村の父)が築城した上田には、7、8年前に行ったことがある。同じとき、別所温泉と安楽寺にも行った。実は、一昨年、信州松代(幸村の弟・真田信之が移封された)を訪ね、真田宝物館も見ている。
しかし、詳しいことは記憶に残らなかったので、今年の春、和歌山県九度山町に行ったとき、「真田庵」という遺跡があるのを見て不思議に思った。関ヶ原の合戦以後、昌幸・幸村は九度山に蟄居を強いられ、昌幸はこの地で没したのである。
幸村は、最後は大阪城南方の茶臼山から出撃し、戦死したという。なんと!茶臼山といえば、この連休に出かけた大阪市立美術館のある天王寺公園のすぐそばではないか。というわけで、私は既に真田氏ゆかりの地を、数々踏破しているのだが、こうなると、上田も九度山も、ぜひもう一度、行ってみたいと思った。
それにしても、幸村という人物は、思っていたよりずっと損な人生を送っている。慶長5年、関ヶ原合戦の折、上田城で徳川秀忠の軍を迎え討ったのが34歳。しかし、このときは父・昌幸の影に隠れてあまり目立たなかったらしい。以後はひたすら九度山の蟄居を耐えて過ごし、元和元年、大阪夏の陣に出撃し、49歳で戦死した。つまり、いちばん大きな仕事のできる壮年期を無為に過ごしている。そして、ようやく訪れた最後のチャンスは、無能無策な豊臣秀頼の家臣団のもとで、ほとんど勝機のないものだった。にもかかわらず、最後の一瞬において、華々しい武勇を示し、後世に「真田幸村」の名を不朽のものとした。不思議な人物である。
真田一族以外では、加藤清正という人物を見直した。武断派の印象が強かったが、どうもそれだけの武将ではないらしい。清正が築城技術の全てを投入したという熊本城も見に行きたい!
作者は、死に赴く幸村とその将兵たちを書くにあたって「直属の上官が信頼に足る人物でなければ、兵は喜んで死ねるものではない」という旨を、さらりと書き添えている。むろんそこには、自身の戦争体験がある。そうか。司馬遼太郎もそうだけど、昭和の歴史小説・時代小説の書き手には、戦争という「死を覚悟した経験」があり、その体験を通して、戦国の武将たち、女性、足軽、草の者たちと向き合っているのだ。だとすれば、もはや「死」を知らない世代の時代小説はどのように変貌していくのだろう? そんなことも考えた。
久しぶりの「読んだもの」更新である。全12冊、さすがに3週間かかってしまったが、長いとは思わなかった。おもしろかった。
実は、池波正太郎を読むのは初めてである。敬愛する丸谷才一さんが、よく褒めていらっしゃる作家なので、いつかは読んでみようと思っていたが、時代小説というジャンルが苦手で、これまで全く手が出なかった。なるほど、知性的だが情の温かみも備え、濡れ場もあるが下世話になり過ぎない、品のある娯楽小説だと思った。
これでも私は、学生の頃、司馬遼太郎の歴史小説にハマったことがある。司馬遼太郎もいい。しかし、40を過ぎたら「司馬遼太郎が好き」という人物より、「池波正太郎が好き」という人物と付き合いたい。一緒に飲む酒も旨そうだし。
私は戦国時代について、小学生並みの知識しかない。真田幸村といえば、私は、NHKの人形劇『真田十勇士』を思い出す世代だが、あの番組も、戦国武将の名前と複雑な歴史背景が理解できなくて、途中で見るのを止めてしまった記憶がある。
今回はだいじょうぶだった。30年以上の歳月を扱った小説で、有名無名のさまざまな人物が登場するが、ひとりひとり、見事に描き分けられていて、全く混乱しなかった。
真田昌幸(幸村の父)が築城した上田には、7、8年前に行ったことがある。同じとき、別所温泉と安楽寺にも行った。実は、一昨年、信州松代(幸村の弟・真田信之が移封された)を訪ね、真田宝物館も見ている。
しかし、詳しいことは記憶に残らなかったので、今年の春、和歌山県九度山町に行ったとき、「真田庵」という遺跡があるのを見て不思議に思った。関ヶ原の合戦以後、昌幸・幸村は九度山に蟄居を強いられ、昌幸はこの地で没したのである。
幸村は、最後は大阪城南方の茶臼山から出撃し、戦死したという。なんと!茶臼山といえば、この連休に出かけた大阪市立美術館のある天王寺公園のすぐそばではないか。というわけで、私は既に真田氏ゆかりの地を、数々踏破しているのだが、こうなると、上田も九度山も、ぜひもう一度、行ってみたいと思った。
それにしても、幸村という人物は、思っていたよりずっと損な人生を送っている。慶長5年、関ヶ原合戦の折、上田城で徳川秀忠の軍を迎え討ったのが34歳。しかし、このときは父・昌幸の影に隠れてあまり目立たなかったらしい。以後はひたすら九度山の蟄居を耐えて過ごし、元和元年、大阪夏の陣に出撃し、49歳で戦死した。つまり、いちばん大きな仕事のできる壮年期を無為に過ごしている。そして、ようやく訪れた最後のチャンスは、無能無策な豊臣秀頼の家臣団のもとで、ほとんど勝機のないものだった。にもかかわらず、最後の一瞬において、華々しい武勇を示し、後世に「真田幸村」の名を不朽のものとした。不思議な人物である。
真田一族以外では、加藤清正という人物を見直した。武断派の印象が強かったが、どうもそれだけの武将ではないらしい。清正が築城技術の全てを投入したという熊本城も見に行きたい!
作者は、死に赴く幸村とその将兵たちを書くにあたって「直属の上官が信頼に足る人物でなければ、兵は喜んで死ねるものではない」という旨を、さらりと書き添えている。むろんそこには、自身の戦争体験がある。そうか。司馬遼太郎もそうだけど、昭和の歴史小説・時代小説の書き手には、戦争という「死を覚悟した経験」があり、その体験を通して、戦国の武将たち、女性、足軽、草の者たちと向き合っているのだ。だとすれば、もはや「死」を知らない世代の時代小説はどのように変貌していくのだろう? そんなことも考えた。