「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

モーツァルトはやはり「生身の天才」だった

2024年02月14日 | 音楽談義

「クラシックといっても、つまるところバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン・・、結局この3人に尽きるよ。」とは、よく聞く言葉。

たしかに彼らが欠けたクラシック界というのは想像するだに恐ろしい。


ただし、じぶんの場合はこの40年ほど明けても暮れてもモーツァルトなので、別にバッハとベートーヴェンが居なくなってもさしたる痛痒を感じない・・ま、バッハは少し困るかな(笑)。

「よくもまあ飽きもせずに」といったところだが、あの天真爛漫な何ら作為のない音楽は唯一無二ともいえるもので、とうてい他の作曲家が追随できるものではない。

フルートに堪能なオーディオ仲間が「モーツァルトの作品を吹くときは不思議にウキウキして楽しくなる。」と言ってたが、とても分かるような気がする。

さて、音楽からその人物像に至るまでだれにも負けない「モーツァルト通」だと秘かに自負し、大概のことは精通しているつもりだが、唯一いまだに気になっているのがオペラ「皇帝ティートの慈悲」。

実は、あまり評判が良くないのだ(笑)。

モーツァルトは1791年に亡くなり、その年に作られたのがあの最高傑作とされるオペラ「魔笛」だが、その作曲を中断してわずか18日間で作曲したとされているのが「皇帝ティートの慈悲」だ。

「にわか作り」の失敗作とか、最晩年の作品にもかかわらず「音楽の密度が低い」など散々。

ただし、あの有名なケッヘル博士の分類による作品番号では「魔笛」は「K・620」で「皇帝ティートの慈悲」は「K・621」なので、最後のオペラの称号は「皇帝ティートの慈悲」に当てられてもおかしくないはず。

ここでモーツァルトにおけるオペラの位置づけについて少々述べておくと、それは他の作曲家たちとはまったく違っていて、いわば「金城湯池」のようなもので、世にモーツァルトファンを自称する人は数多いが、真のファンかどうかを嗅ぎ分けるポイントは「オペラを好むか否か」の一点にかかっているといっていい。

彼の音楽の神髄はオペラでしか味わえないものだからである。

たしかにオペラ以外にも傑作は山ほどある。

珍しく己の心情を素直に吐露している「ピアノ・ソナタ群」、(コラムニストの石堂淑郎氏によると「湧き出る欲求の赴くままに、報酬の当てもなく作られた故か、不思議な光芒を放って深夜の空に浮かんでいる」)をはじめ、筆舌に尽くしがたい美しいメロディを持った幾多の名曲があるのを認めるのは吝かではない。

しかし、芝居の中で音楽によって命を吹き込まれた登場人物が生き生きと躍動する感覚と、展開時におけるリズム感、たとえばレチタティーボ(語り口調の叙唱)からアリア(詠唱)などへ場面が切り換わる時などの間合いの美しさと絶妙な呼吸感にはとうてい及ぶべくもないのである。

で、話は戻ってモーツァルトは35年の短い生涯だったにもかかわらず15ものオペラをモノにしているが比較的出来がいいというか有名なのは5つ前後で後はほとんど顧みられることがない。

あの天才にしてアタリ・ハズレがこれほどあるのだからモーツァルトの作品といっても盲信は禁物・・、「皇帝ティートの慈悲」にしても、おそらく出来がイマイチなので「最後のオペラ」にふさわしくないとされてきたのだろうとずっと思ってきた。

そうは言いつつも、「皇帝ティートの慈悲」を実際に聴いてみるに如くはない。どうやら長年の疑問にやっと終止符を打つときがきたようだ。

      

いつものようにオークションで手に入れたCD盤(2枚組)だが未開封の新品だった。指揮はアーノンクール(故人)。

昨日(13日)じっくり腰を据えて聴いてみた。

モーツァルト晩年の音楽に共通している「寂寥感」と「透明感」はたしかに感じられるものの、どこといってとらえどころのないオペラとの印象はどうしても拭えなかった。

「天才とは努力し得る才だ」(「ゲーテとの対話」)と、文豪ゲーテは言ったがモーツァルトほどの天才にしてもある程度の(作曲する)時間は必要だったのかと思うと感慨深い。

モーツァルトはやはり「生身(なまみ)の天才」だったんだなあ・・(笑)。



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