いまだに現役時代の夢を見ることがある・・。つい30分前もそうだった。
いい夢ならともかく、当時の苦手だった上役から嫌味を言われるシ~ン・・、もういい加減にしてくれ~(笑)。
「上意下達」(じょうい かたつ)、いわばトップダウンのがんじがらめの中で働いた当時の心の傷がいまだに癒されていないらしい。
その点、自営業の人たちはいいなあ~(笑)。
で、そういう窮屈な組織の中で出世した人たちには、自分の経験と照らし合わせて「能力、熱意、人望」の3拍子が揃った方なんだなあと、それなりの敬意を払うことにしている。
日経新聞に不定期だが一週間に一度くらいのペースで「リーダーの本棚」という記事が掲載されている。
経済界、政界、官界などで、功成り名を遂げた方々が、どういう本を読んで啓発されたか、書名と解説がこと細かに述べられている。
中には、大蔵省の主計官だった方が「悠久のバッハ」を愛読書に挙げられたり、たしか人事院の院長だった女性が、ジェフリー・アーチャーのミステリ―を挙げていたりと、多士済々である。
本書はそういう「リーダーの本棚」をまとめた本で、35名の方々が収録されている。それぞれタメになりそうな本ばかりだったが、特に興味を惹かれたのが「山口 廣秀」氏。
日銀マンとして40年務めて、最後の上りが「副総裁」だから、生え抜き職員としては最高位を極めたことになる。33頁にこういう一節があった。
「日本人はなぜ ”さようなら” と別れるのか」と問う竹内整一さん、気軽な また会いましょう ではなく過去を踏まえ、現在を総括し、未来へのつながりも合意する さようであるならば に由来する言葉だと。日本人の精神性や死生観に根ざす別れの表現だと知って新鮮な驚きを感じました。」
つい興味を惹かれて、図書館に走りそして借りてきました。
表紙の裏側にこういう解説があった。
「一般に世界の別れ言葉は 神の身許によくあれかし (Good bye、正確には God be with you が縮まったもの)か、また会いましょう(See you again 」か、お元気で(Farewell)のどれかである。
なぜ日本人は さようなら と言って別れるのだろうか。別れ言葉 さようなら に込めてきた日本人の別れの精神を探求する。」
そして冒頭から作詞家「阿久 悠」(あく ゆう)氏の興味深い「ぼくのさよなら史」という文章が登場してくる。
人間はたぶん さよなら史 がどれくらい分厚いかによって、いい人生かどうかが決まる・・、その根底には次のような時代に対する危機感がある。
「はたして、今の人たちが さよなら という言葉を使うのだろうかと思うことがある。あまり聞いたこともないし、使っている場面を想像することもできない。そうか さよなら はすでに死語になったのだと気づき、ということは別れを自覚することもなくなり、これは全くもって悲劇だなと思えてきたのである。
生活の中で、もう少し大仰にいって人生の中で別れということに無自覚なら、感性にヒリヒリ磨くことも、感傷をジワッと広げることも、それに耐えることもできない。
人間の心というのは、いつも少し湿り気を帯びていなければならないのに、カラカラに乾かしていては味気ない。心に噴霧器で水分を与えるには、切なさや、哀しさや、寂しさの自覚が不可欠である。
人の心は さよなら によって湿りが加わるのである。なぜ さよなら を言わなくなったのだろうか。なぜ別れたことに気がつかないような不思議なことになったのだろうか」
その原因と理由について詳しく述べられていく・・。とても長くなるのでここに納めるのは無理~、興味のある方はぜひご一読ください。
で、そういえば、自分も「さようなら」と言わなくなったことに気づく・・、「それじゃ、また~」がいちばん多いかな。
その使わなくなった理由だが、そう言ってしまうと、もう貴方と二度と会いませんよという最後通牒のように受け止められはしないか、という相手への気遣い、そして何だか自分自身が孤独感に苛まれてしまう・・、といったところかな。
皆様はいかがですか~、そもそも心に「湿り気」がありますか?(笑)
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