昔のCDを聴いているときなどにライナーノートに「宇野功芳」さん(享年86歳)がときどき登場されているので、つい思いだす。ずっと昔の死亡記事を今でも保管している。
ややオーヴァーともいえる表現が有名だった。たとえば共著「クラシックCDの名盤」から、デュ・プレが弾くエドガーの「チェロ協奏曲」についての解説がこれ。
「67年、バルビローリの棒で入れたライブが最高だ。人生の憂愁やしみじみとした感慨に彩られたイギリス音楽に共通する特徴を備えるこの曲を、22歳になったばかりのデュ・プレが熱演している。
第一楽章から朗々たる美音がほとばしり、ポルタメントを大きく使ったカンタービレは極めて表情豊か、造詣はあくまで雄大、ロマンティックな情感が匂わんばかりだ。」
こういう表現ってどう思われます?(笑)
クラシック通の間では評価が二分されており、「この人、またいつもの調子か」と、幾分かの“嘲り”をもって受け止める派と「そうか、そうか」と素直に受け入れる憧憬派と、はっきりしている。
自分はやや冷めたタイプに属しているのでこういう大げさな表現はあまり肌に合わない(笑)。
このほど図書館から「私のフルトヴェングラー」(宇野功芳著:2016年2月8日刊)を借りてきた。刊行日からして死去の4か月前なのでおそらく「遺作」となろう。
20代前半の頃はそれこそフルトヴェングラーの演奏に心から感動したものだった。ベートーヴェンの「第九」「第3番・英雄」、そしてシューベルトの「グレート」・・・。
本書の15頁に次のような記述があった。
「今や芸術家たちは技術屋に成り下がってしまった。コンクール、コンクールでテクニックの水準は日増しに上がり、どれほど芸術的な表現力、創造力を持っていてもその高度な技巧を身に着けていないと世に出られない。フルトヴェングラーなど、さしずめ第一次予選で失格であろう。何と恐ろしいことではないか。
だが音楽ファンは目覚めつつある。機械的なまるで交通整理のようなシラケタ指揮者たちに飽き始めたのである。彼らは心からの感動を求めているのだ。
特にモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなどのドイツ音楽の主流に対してもっと豊饒な、もっと深い、もっとコクのある身も心も熱くなるような演奏を期待しているのだ。
だからこそ死後30年も経ったフルトヴェングラーの音楽を必死になって追い求めるのである。実際に舞台姿を見たこともない、モノーラルレコードでしか知らない彼の音楽を熱望するのである。」
クラシックファンにとって、黄金時代は「1950年代前後」ということに異論をさしはさむ方はまずおるまい。(ジャズもそうかもしれませんね)
綺羅星の如く並んだ名指揮者、名演奏家、名歌手、そして名オーケストラ。その中でも代表的な指揮者がフルトヴェングラー、そしてのちに帝王と称されたカラヤンにとっては黎明期だった。
いつぞやのブログでも紹介したが、ベルリン・フィルのコントラバス奏者だったハルトマン氏がこう語っている。
「カラヤンは素晴らしい業績を残したが亡くなってまだ20年も経たないのにもうすでに忘れられつつあるような気がする。ところが、フルトヴェングラーは没後50年以上経つのに、未だに偉大で傑出している。<フトヴェングラーかカラヤンか>という問いへの答えは何もアタマをひねらなくてもこれから自ずと決まっていくかもしれませんよ。」
だがしかし・・。
本書の中で、フルトヴェングラーがもっとも得意としていたのはベートーヴェンであり「モーツァルトとバッハの音楽には相性が悪かった。」(23頁)とあった。そういえばフルトヴェングラーにはモーツァルトの作品に関する名演がない!
オペラ「ドン・ジョバンニ」という唯一の例外もあるが、このオペラこそモーツァルトらしからぬ作風の最たるものといっていい。
あの “わざとらしさ” がなく天真爛漫、“天馬空を駆ける”ようなモーツァルトの音楽をなぜフルトヴェングラーが終生苦手としていたのか、芸風が合わないといえばそれまでだが・・。
モーツァルトを満足に振れない指揮者は「ダメ」というのが永年の持論だが、はてさてフルトヴェングラーをどう考えたらいいのだろうか。
そもそも、すべての作曲家をレパートリーに収める指揮者なんて存在しないのかもしれないですね。
オーディオだってそうで、すべてのジャンルをうまく再生できるシステムが無いのと同じ~。
つまり「欲張り過ぎたらダメ」ということですかね・・(笑)。