「奥の細道」
ロナルド・ターンブル…スコットランド有数の数学者として知られる彼が、ひょっこり僕を訪ねてきた。
「ウマ、筆で、奥の細道って書いてくれないか?」
いいけど、ロナルドは芭蕉(ばしょう)を知ってるの?
「英国でHikeをたしなむ人は、皆、バショウ・マツオを知ってる」
英国での松尾芭蕉のニックネームは、なんと「バナナ」だという。なるほど、「バショウ」やもんな。 (註 ブログ主:バショウは英名を「ジャパニーズ・バナナ」という)
俳句は、もう、英語のHikeになってますね。僕の地元ダンフリーズには、授業でハイクを教える中学校がありますよ。もちろん英語で詠(よ)むハイクです。
で、彼の目の前で、筆で「奥の細道」と書いてあげた。そしたら…
「芭蕉が馬屋で寝ていて、蚤(のみ)や虱(しらみ)に悩まされた挙句(あげく)、馬におしっこをかけられる俳句があるよね。あれも筆で書いてくれない?」
ロナルド! おぬし、芭蕉の俳句に詳しいんやねえ。あれは有名な俳句で、もちろん僕もよく知ってる。お安い御用や!
で、即、書いてあげた「蚤虱(のみしらみ)馬の尿する枕もと」…
そしたら彼「ついでに、ウマのサインも筆で書いてくれないか?」
エッ? ちょっと待って! いったい何のためにこんなことさせるんや?
「いや、ま、いずれわかるから…」ロナルドが言葉を濁(にご)す…
ちょっと変や…彼、いったい何を企(たくら)んでるんや?
で、練習もなしでサッと書いた三点を持って帰ろうとするんで慌(あわ)てて止(と)めた。 持って帰るんやったら、もっとちゃんと書くから練習させてよ。コーヒーでも飲んで、ちょっと待っててよ。
「いや、ウマ、これでええ。これで充分や」
あかんあかん、もっと上手(じょうず)に書くから、ちょっと時間をちょうだいよ。
「いや、上手(じょうず)か下手(へた)か、こっちの人間、誰もわからんからこれでいい」
結局、まったく練習なしでサッと書いたのを強引(ごういん)に持って帰りよった。いったい何に使うんやろ? けったいなヤツやなあ?
で、彼が帰ったあと、ふと気が付いた…
スコットランドに移住して以来、ちょくちょく筆を使う機会があることに気が付いた。イタリアにも書道の指導に行くしな…
英国人、特にスコットランド人は、ハイキングやトレッキングが好きな国民だと思う。トレッキングの専門雑誌もいくつも出ている。
僕の住むダンフリーズ郊外でも、もう、いくつものモデルコースがあり、老若男女(ろうにゃくなんにょ)、大いに歩くことを楽しんでいる。歩くことを楽しむって、とても素敵なことだよね。
広大な放牧場のゲートには、通常、鍵がかかっていない。トレッキングの途中、放牧場に出くわしたら、誰でもゲートを開けて、その中(つまり私有地)を横切り、トレッキングを継続することが出来る。
スコットランドも含め、英国の土地の多くは貴族の所有です。貴族の土地を避けて鉄道施設は不可能だと云われている。その貴族が、広大な土地を小作人(こさくにん)に委(ゆだ)ね、牛や羊、ウマなどの放牧場にしてるわけですね。
イングランドの事情は知らないけど、スコットランドでは、なぜ、一般の人々が、それらの土地、つまり、私有地に断りもなしに入っていいのか?
貴族が、その所有する自然景観豊かな広大な土地を独(ひと)り占(じ)めするのは、社会的道義に反するという考えがあるからだと思う。広大な土地の所有は自分に帰属するものであっても、その自然景観は公共のものであるという考え方ですね。
美しい自然景観を一般の人々に開放することで、貴族はその社会的責任をある程度果たしているというわけです。しかも、その自然景観の維持(いじ)に莫大(ばくだい)なお金を費(つい)やしてもいる。
敷地が二万四千坪あるアラントンハウスは、貴族の住まいじゃないどころか、しょぼい日本人のオッサンがおるけど、その門に扉はない。誰でも自由に入ってくることが出来る。フォレストウォーク(森林歩き)など、我々が設置した様々な木の説明ガイドを見ながら、どなたでも散策できるようにしている。
知らない方が犬をつれて散歩しておられるのを見るのはめずらしくない。朝早く、たまに、鹿の親子も散歩してるけどね。
アラントンのまわりにも、山あり谷ありの貴族の土地がたくさんあるけど、その私有地内の道を通ることはしょっちゅうですね。ここからは進入禁止ってな標識はない。つまり、私有地を自由に車で通ってるんです。そう云えば、土地を含め、多くの富を独占していると云っていい貴族に対する非難の声を聞いたことないなあ。
時々、キャロラインさんと、南スコットランドの海岸沿いを、犬のクリを連れて、散歩がてらトレッキングすることがある。牛や羊、馬の放牧場のゲートを開け勝手に入り、牛ちゃん羊ちゃん達の横を通ることはしょっちゅうです。
ところで、松尾芭蕉(まつおばしょう)って、トレッキングの専門家とも云えるよね。ただ、行く先々で俳句を詠(よ)んだのが、ただ歩くだけの人たちとの違いでしょうか。
その昔、高校時代のラグビー仲間だったK君と、車で北海道を一周した。最北端の街稚内(わっかない)を目指していた僕たちは、稚内(わっかない)に行く前に、サロベツ原野の沖合に浮かぶ利尻島(りしりとう)の利尻富士(りしりふじ)を見たかった。でも、サロベツ原野も利尻島も残念なことに曇(くも)り空だった。
その時に詠(よ)んだ一句が、僕は割と気に入っている(んやけど…)。
…利尻富士(りしりふじ)…見えるかどうか…わっかない…
K君ドテッ! 彼には、バカにされたなあ…
そうそう、何年か前、先生に引率された街の中学生19名が、アラントンの広い敷地内を三時間ほど散策したあと、僕が淹(い)れたお茶を呑(の)みながらHikeを詠(よ)んだことがあったなあ。平均年齢14歳の彼らの作品の、ほんの一部を紹介しておこうかな。ウマの訳を付けときます。
アレックス君(14歳)
a leaf…blowing in the cool breeze…endlessly
(木の葉が一枚…そよ風に揺(ゆ)れている…いつまでも)
クローディアちゃん(11歳)
a field of buttercups…holding in their petals…the golden sun
(キンポウゲ咲く野原…輝く光が…花びらを包む…)
ケリーちゃん(12歳)
tall trees stand alone…leaves flutter…in the summer breeze
(大きな木が一本…夏のそよかぜに…葉がヒラヒラ…)
ジョッシュ君(13歳)
a small white moth…on my finger…a whole new world
(ちいさな白い虫…知らない世界…今、僕の手に触れている)
どう? 中学生とは思えないでしょう? 彼らには、是非とも芭蕉の句に親しんでもらいたいと願っている。
さて、ロナルドがうちに来たことなどとっくに忘れてた頃、彼から、一冊の雑誌が届いた。「TRAIL(トレイル)」…、トレッキング専門雑誌では英国で一番売れている。その案内ガイドは信頼がおけるというので、僕もたまに買うことがある。
怪訝(けげん)に思って目次のページを開くと、ロナルドが芭蕉の特集記事の執筆者として写真入りで紹介されているんでびっくりした。
で、彼がエッセイを書いているそのページを開けた…
な、な、なんやコレッーーー??? 思わず目を剝(む)いてしもた。
な、なんと! ロナルドの芭蕉(ばしょう)に関するエッセイのタイトルバックに、僕が練習もなしに書いた「奥の細道」が載(の)ってるやないか!
次のページには「蚤虱(のみしらみ)馬の尿する枕もと」、さらに次のページに僕がジョークで、ええ加減に書いたアホなサインも載(の)ってるんや。
あ、あかん!こんなんあかん! 練習もなしで書いたのが、英国全土のトレッキングファンの目に触れるなんて、あ、あきません!
だから、練習させてくれって云うたやろ!
でも、すごく嬉しいね。ロナルド、ありがとう!