いよいよ今日(21日)は「WBC」の準決勝で対メキシコ戦。
今年(2023年)1月下旬のブログ「待ち遠しいWBC2023」で記載したように、やっと「筋書きのないドラマ」が見れますね。
このところ昼の時間帯のテレビ番組は野球報道一色で、それだけ国民の関心度が高いのだろうと推測させる。
ところが・・。
アメリカや日本でこれだけ盛んな野球がどうしてヨーロッパでは広まらないのだろうか。
社会学的にみてなかなか興味深いテーマなので取り上げてみよう。
「随想集:偶然のめぐみ」(日本経済新聞社)
本書の207頁~241頁にかけて鼎談(ていだん:清岡卓行、清水哲男、平出隆)により、この辺の理由が述べられている。
1 野球の特殊性
サッカー、ラグビーは双方に陣地があってお互いに攻め合うか、いつ攻め返されるか分からないという対称性が常にある。一方、野球の場合は攻守ところを変えてという面はルールできちんと縛っておりある時間帯を区切って守るだけ、攻めるだけとなっている。
ヨーロッパの感覚では国境を越えたり、超えられたりという侵略意識といったものがうまく国民的なスポーツになっている。
一方、アメリカ、オーストラリア、日本など野球が盛んなところは歴史的にも国境という意識が希薄なところがあり、その部分に野球が根付いているという側面がある。
2 知的で人工的な野球
ヨーロッパは歴史的にみて哲学的ないし科学的な知性による仕事の蓄積と疲労が一番著しいところ。したがって、スポーツが知性とは対照的な位置づけにあり本能への遊び、慰め、楽しみである側面が大きく、ルールが単純明快、ポジションもそれほど個性的ではない気安いスポーツが受け入れられ普及している。
これに対して野球はルールがとても複雑で知的かつ人工的。ヨーロッパ人にとって知的にわずらわしくて不自然で面白くないといった感覚がある。さらに一方では「ホームラン」というまるで試合の知的な要素すべてを一挙に吹き飛ばすような摩訶不思議なものがあり、ある意味不自然な印象を受ける。
概略、以上のとおり。
その昔、ヨーロッパ戦史の研究の第一人者で「陸軍大学校創設以来、かってない優秀な頭脳の持ち主」と評され、陸大兵学教官まで務められた軍事思想家の「石原莞爾(かんじ)」氏(故人)によると「ヨーロッパは三度の飯より戦争が好きな連中の集まり」だそうで、昔のヨーロッパでは「陣取り合戦」が「スポーツ感覚」で日常的に行われていたようだ。
とはいえ、1に関してはイギリスはどうなんだという疑問が湧いてくる。「島国なのに~」、というわけだが、ドーバー海峡は何しろ狭いし、フランス、スペインなどの外敵が油断すると押し寄せてくるので「油断も隙も無い」といったところかな。
むしろ、南スコットランド在住の「ウマ」さんに「イギリスで野球が広まらない理由」の考察をお願いしたいぐらい。
いずれにしても、今さらの話だがヨーロッパでの野球普及は無理のような気がする。せめてプレイヤーの供給国にでもなれば幸いというところだろう。
しかるに注目すべきは中国である。この国が野球に本格的に力を入れたとすると投手にしろバッターにしろ「大谷級」の選手が”ごまん”と出てくるような気がする。
なにしろ人口が多いので末恐ろしい国だと思うが、やっぱし一党独裁の専制国家では無理かな~。
野球といえば民主主義を象徴するスポーツだからねえ。
そうだっ! 国家の政治体制も野球が広まらないことの理由の一つではなかろうか。中国のほかにもロシア、北朝鮮、アラブ諸国・・。
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