「21世紀は文明の衝突になる」と予告したのはS.P.ハンチントン元ハーバード大学教授だが、いまだに「イスラム教」と「他宗教」との対立は世界各地の紛争の火種になっている。
で、現代人にとって世界中にあるいろんな宗教に対して無関心であることはもはや許されない状況になっているが、その一環としてずっと以前のブログで「寒い地域でイスラム教が広まらなかったのは戒律によりアルコールが禁じられていたのが原因」という趣旨のことを書いたことがある。
そして、同様に疑問に思ったのが「豚肉を食べることが禁止されている理由」。
これはイスラム教だけでなく、ユダヤ教でも同様だが、豚肉の赤身は(2007.6.7:「脳によく効く栄養学」)のところで記載したとおり、精神の安定に必要なセロトニン生成の原料となるトリプトファンの割合の含有量においてトップクラスの食物とされているので、栄養学上これを食べないというのは実にもったいない話。
合理的な理由を是非知りたいと思っていたところ、たまたま朝日新聞社発行の月刊誌(「一冊の本」)を見ていたらその理由が詳細に記載されていた。
「宗教聖典を乱読する 5 」~ユダヤ教(下)~(61~65頁)著者:釈 徹宗氏
豚は食材として大変効率がいいのは周知の事実。中国料理では「鳴き声以外は全部使える」といわれているほどである。栄養価、料理のバリエーションなどとても優れている食材をわざわざ避けるのは生物学的にも不自然だし、人類学的にも一つの謎となっている。
この豚肉がなぜ禁止されているのかは昔からラビ(ユダヤ教の聖職者)たちの間ですら論争が続いている。様々な理由づけを列挙してみよう。
1 美味しいものを避けることによって、大食の罪を諫めた。美味しいからこそ食べない!
2 豚は雑菌が多く、当時の保存法では問題が多かったため食することが禁じられた。これは今でもよく使われる説明で、雑菌が発生・繁殖しやすい風土というのも関係している。
3 異教徒の中で豚を神聖視する人たちがいたので差異化を図った。
4 豚という動物が悪徳を表すイメージからタブーとした。たとえばひづめが割れているのは「善悪の識別が出来ない」などで、宗教はシンボルが重要な概念になっている。
5 合理的説明は不可能。食規範はまったくの恣意的であり何の秩序もないという説。
6 克己心や人格を形成するためという説。つまり不合理な禁止により結果的に人格が鍛錬される。これは1と関連している。
7 食事のたびごとに神への忠誠を再確認させる。
以上のとおり、さまざまな理由づけがなされているが、人間の生理(食、性、睡眠など)にまで価値判断が持ち込まれているのは宗教だけが持つ特徴であり、その背景としては人間の本能がもろくて簡単に壊れやすいことが念頭に置かれている。
たとえば、「好物を見たら、満腹でも食べてしまう」「繁殖以外の目的で性行為をする」といった行動はほとんど人間だけの特性といえ、人間以外の動物は本能の働きにより、過剰な行動には自動的にブレーキがかかる。
ライオンが満腹のときは目の前をシマウマが通っても襲わないというのはよく聞く話で、「自分の生存を維持するための行動」「自らの遺伝子を残すための行動」が基本となっている。
結局、それだけ人間というのはエネルギーが過剰であり旺盛なので一歩間違うと人間という種自体を滅ぼす危険性を有している。
その意味で、人間は本能が壊れやすい動物であればこそ、その過剰な部分をコントロールしストッパーの役目を果たしているのが「宗教」である。
したがって、「なぜ、豚肉を食べないか」に対する最も適切な答えは「神が禁じたから」となる。つきつめればそこへと行き着いてしまう。
ユダヤ教にはさまざまな宗派があるが共通基盤があって、それは「唯一なる神を信じ、安息日や食規範などの行為様式を守ること」にある。
この基本線に関してはどの宗派も共有している。そして敬虔なユダヤ人にとっては、「律法を守ることそれ自体が喜び」なのである。
以上のとおりだが、「自分を律するために、あえて美味しいものを食べない」というのは、まったくの「眼からウロコ」で、それからすると総じて「仏教徒」たるもの、ちょっと自分に甘すぎて己の欲望に走り過ぎるきらいがあると思いませんかね・・。
で、「オーディオ愛好家は自分を律するために、日頃から“いい音”で聴いてはいけない」な~んちゃって(笑)。
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