「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオは音楽鑑賞の「手がかり」に過ぎないのだろうか

2022年01月15日 | オーディオ談義

日頃から、投稿する記事になるべくバラエティを持たせようと、オーディオから音楽、読書、身の回りのことなど一つの分野に集中しないように心がけているつもりだが、このところ「オーディオ記事」へのアクセスがひところの不調から脱してようやく好調の軌道に乗ったみたい。

で、「本命」が浮上すると気持ちの方も「読者の期待に応えよう」と努力する気にもなる(笑)。

ところが、それに水を差すように「あまり調子に乗らない方がいいぞ」と警告するような記事が昨日の過去記事ランキングに登場していた。

自分が書いた記事でもすっかり「忘却の彼方」なので一読してみると、なるほどそういう考え方もあるんですよねえ・・。

というわけで、以下、ご参考になればと再掲してみよう。


「音楽家がオーディオに熱心ではない理由」について決定的と思われる理由をメル友さん(東京)からご教示いただいたのがこの文面。

私も貴方同様にいつも「聴衆・観客」の一人で、演奏をした経験は皆無なのですが、あるピアニストと話をしていて貴方とまったく同じことを感じました。

彼女は、私が持ち込んだiPodスピーカーのトランジスタ・ラジオと変わらぬ貧しい音響にすぐに感激して”良い音ですね”と言うのです。聞かせた演奏の特徴もズバリ言い当てて楽しんでいます。身体がすぐに反応します。

私が感じたのは、随分と想像力が豊かなんだなあということでした。元の音を想像して実際の演奏の様子をすぐに復元できるようなのです。その復元を楽しんでいる。とても我々のできることではありません。

オーディオは単なる「手がかり」に過ぎない。想像による復元のために最低限の情報を提供してくれればよい。それで充分だと思っているようです。彼ら音楽家にとっては(オーディオとは)その程度のものでしかないようです。

また、オン・ステージで演奏する側では聞える〔というより身体で感じる)「音」そのものが違います。他方、我々が求めるオーディオの「音」は客席の音です。

この二つは決して同じではない。そして彼ら演奏家は客席でどう聞えるかをあまり気にしていないのではないか。どうもそう思えてならない。我々との間には、越えがたい溝があるのではないかという気がします。~以下、略~


「オーディオの役割」について非常に示唆に富んだ文面ですね。あっさり忘却するのには実に惜しい気がする。


というわけで以上のご指摘に基づき「音楽家がオーディオに熱心にならない」理由の5つ(再掲)に加えて決定的な6番目を追加させてもらうことにしよう。
 

 常日頃、半分仕事みたいな意識で生演奏に携わっているので自宅に帰ってまで音楽を聴こうとは思わない、つまり日常生活の中に仕事を持ち込みたくない。

 
ほとんど毎日、歪みのない生の音を聞いているので電気回路を通した人工的な音を聴く気がしない。

 他人の演奏をなるべく聴きたくない。芸術的な見地から影響を受けるのがイヤだから。

 他人の演奏のアラが分かるから聴きたくない。むしろ音楽を聴くよりも演奏者のテクニックの上手下手に関心がいってしまう。

 ちょっと「ましな音」で聴こうと思っても、オーディオ装置はどうも高価すぎる。それくらいのお金があれば「楽譜」や「楽器」のほうを優先する。

6 オーディオは単なる「手がかり」に過ぎず、「元の音を想像して復元する」ための最低限の情報を提供してくれればそれでいい。したがってオーディオに熱心になる必要性をあまり感じない。

真に迫ったの回答を得てこれで理由のすべてを網羅できた気がする。

音楽と真剣に向き合あうリスナーにとっては素敵なオーディオシステムもさることながら、それを手がかりにして豊かな想像力を磨くことこそ重要なのかもしれませんね。

たとえば五味康介さんの著作「西方の音」の中でフォーレの音楽を聴いて海浜で貴婦人に抱かれているシーンを妄想するくだりがあるが、豊かな想像力を磨くとはそういうことなんでしょう。

いくら「いい音」とか「悪い音」とかいってみても、結局「いい音楽」とはリスナーの頭の中で創造するものなのか・・・。

とはいえ、自分のようなイメージングに乏しい人間はオーディオに頼るしかないことは確かだ(笑)。



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