柄目木庵

良寛さまに思いをよせながら。

国上山へ

2008年09月11日 | 良寛さまのことなど
 ある魂胆があって、毎日ウォーキングを続けています。

 今週末は、私たちの写真教室開設五周年ということで、先生が張り切って撮影旅行を計画されました。
私も先輩方に加わり「山形路 山寺・銀山温泉・酒田」などへの旅を楽しもうと思っています。

 一番の不安は体力不足です。重いカメラ、レンズ、三脚を担いでの本格的な撮影旅行は初めてのことです。

 秋晴れのお空に誘われて、良寛さまの里「国上山」に登ることにしました。
火曜日のことでした。少しでもトレーニングしておこうということなのです。
さいわい家内も同行してくれるというので、ひとまずは安心でした。

 やがて、黄金色にたわわに実った稲穂が、ズーッとズーッと続く田んぼ道に出ました。
左手「国上山」、右手「弥彦山」です。「三条市」に生まれ育った私の原風景であります。
         
         もう秋の空と雲でした。しばし、うっとりとしてしまいました。

          
 遠くどこかに出かけても、やがて見えてきた「国上山、弥彦山、角田山」の姿を見ると、ほんとに懐かしくほっとするのです。
 良寛さまは、自ら国上山に住まわれて、この三つの山の見えるところで「乞食行」に励まれていました。

    

           
 国上寺(こくじょうじ)裏手から、国上山(くがみやま)への登山道が始まります。
ほんとに久しぶりの国上山でした。ゆっくりゆっくり、登りました。

 やがて、五合目まで来ると視界が開けます。また、良寛さまの歌碑が登山客を癒してくれます。

            
            いつものことながら、良寛さまのやさしさに、、ぐっとくるものがあります。
 
 良寛さまは、今年生誕250年だそうです。
関連した多くの行事などの企画や出版物がたくさんです。
多くの方が「良寛さま」にひきつけられるのは、なぜなのでしょう。
私には「良寛さま」ですが、地元の人たちは、さらに気さくに「良寛さん」と呼んでいるようです。良寛さまとは、そういうお人柄だったのでしょうね。

 爽やかな汗、無事頂上から下山できました。

お盆

2008年08月16日 | 良寛さまのことなど
 毎年のことながら、今年の月遅れの「お盆」も暑かった。
特に13日は猛暑でした。この暑さでは、ご先祖様もお帰りになるというよりは「千の風」になって大空高く吹き渡っていたのではないでしょうか。

 毎朝、律儀に咲いてくれる朝顔に、せめてものさわやかさをいただいています。
     

  私どもの「お墓参り」は、もう11日・月曜日に済ませていました。
私どものお墓のすぐ近くに、「良寛さま」の托鉢姿の小さな像があります。
今回は、後姿を狙ってみました。暑い中、托鉢を終わりとぼとぼと歩いて庵に帰る姿でしょうか。心なしか、お疲れの様子に見えました。

     

 お墓参りの帰りに「良寛さま遷化の庵跡」にもお参りしました。
         
石碑の前に寄り添うように咲く花は「貞心尼」の化身でしょうか。

 一昨日、昨日とまさに「集中豪雨的な雨」が何度も降りました。
そのために不快指数は200%でした。まるで「熱帯雨林」での生活のようでした。

 とはいえ、今日16日はご先祖さまもお帰りになるとか。
そっと秋風が吹き始めるころが来るのでしょうか。

久々の良寛さま

2008年06月04日 | 良寛さまのことなど
 四季折々には、良寛さま(五合庵)を訪れてみたい、いつの頃からかそんな風に思っていました。

 今までのことから云えば、「冬の五合庵」が一番印象深く残っています。
新緑が深い緑にならぬうちの五合庵を撮ってみたかった、ほんとは、もっと早くに来るべきだったのだが、思うにまかせなかったのです。

 いつものように、「乙子神社と草庵」「国上寺」「五合庵」とまわってみました。


    
         
             

 帰り道、「燕市分水良寛資料館」に立ち寄りました。
ここの庭にある「良寛像」が好きです。とても落ち着くというか和むのです。
         

 今週末には、長岡市で「全国良寛会」があるとか。
全国から良寛さまを敬愛する人々が、とても大勢集まるのだそうです。
また「良寛生誕250年」でもあるせいでしょうか、今年「新潟日報」に毎日「良寛さまの詩など」が紹介されています。
ちょっと賑やかなことです。良寛さまも苦笑いかな。

良寛さまを訪ねて

2007年09月14日 | 良寛さまのことなど
昨日は晴天なり!
 「片貝の花火大会」で、一眼レフを使えなかった「写友」の4人は、リベンジということで「良寛さま」関連の史跡を訪ねることとなった。

 まずは、「国上山」へ。
その麓、五合庵から降りた良寛さまが住まわれた「乙子神社とその草庵」。
訪れる人もなく、ただただ静かに、木漏れ日の中にそれはあった。

 良寛59歳から10年ほどを、ここで過ごした。
もっとも円熟し充実した年月を過ごされたようである。
石碑に漢詩とその読み下し文の立て札があった。
私の好きな「生涯 身を立つるにものうく・・・」が紹介されている。


 さらに国上寺の駐車場まで登る。
そのすぐ上に、県内最古の古刹「国上寺・阿弥陀堂」がある。
良寛さまも日々、この阿弥陀堂に参拝されていたと聞く。


 酒呑童子ゆかりの古井戸や道祖神などを道ばたに見ながら、少し下ると突如「五合庵」である。
ここも幸い、私たち4人のシャッター音が聞こえるだけの木漏れ日と静寂の世界でした。
    「焚くほどは 風がもてくる 落ち葉かな」の紹介看板がある。
なんという自信に満ちた充足の世界であろうか。

 車は、北国街道402号線の海岸沿いに、「出雲崎」を目指した。
「天領の里・道の駅」で、ゆっくりと海を眺めながら昼食とした。


 良寛さまの生まれた「橘屋山本家跡」に建つ「良寛堂」。


 「良寛堂」のすぐ裏には、じっと海の向こう「佐渡ケ島」を見ている良寛像がある。
「いにしへに かわらぬものはありそみとむかひにみゆる さどのしまなり」
母を偲んでのことであろうか、肩を落として海の彼方を見やる良寛に涙ぐむ。


 次いで、良寛さま出家の「光照寺」を訪ねてみる。
何故の出家であろうか。ここでの4年間の苦悩と修行はいかばかりであったろうか。


 「良寛記念館」の上に「良寛と夕日の丘公園」がある。
ここは「にいがた景勝百選一位」の場所でもある。
「山頭火」の碑もあったはずだが発見できなかった。
真下を見下ろせば「妻入りの街並」が見える。


 子供たちと語らう慈愛の良寛さまの姿。

 その近くに、私がいたく共感する碑がそっとあった。
「世の中にまじらぬとにはあらねども独り遊びぞ我はまされる」

 自己の充電、自己の充実には「孤独の時間」が大切なのではなかろうか。

 私たち「写友」は、思い思いのショットを満足するまで撮ることができた。
とてもすばらしい一日となった。
 次回の被写体は何になるのであろうか。

お墓参り

2007年08月14日 | 良寛さまのことなど
 14日の早朝です。
お日様が高くなると、ほぼ脳細胞が働きを止めてしまうのです。

 我が家では、長男家族とともに12日、お墓参りに行ってきました。
最高に暑い時間帯、死にそうな暑さでした。
それでも手際よく、みんなで手分けしてお墓の掃除、お花、線香、ろうそくを準備して、心静かに日頃のご無沙汰をご先祖様にお詫びしました。

 いつものように、良寛像と良寛さまのお墓にもお参りしました。帰り道「木村家」の裏手を通ります。そこには良寛さまが最晩年を過ごされた「庵跡」があります。
その石碑の前にひっそりと咲く「ゆりの花」は、まるで「貞心尼」の化身のように思われました。

          


 
  
まばゆいほどの強い日差しの中に、石碑(良寛)と百合の花(貞心尼)がとても印象的でした。

木漏れ日

2007年06月12日 | 良寛さまのことなど
 先週末は、「全国良寛会魚沼大会」であった。
このような会には、残念ながら出席したことがない。

 一度は参加したいものだと思っていたのですが、かわいい孫「Yくん」のラジコンカーショップ「ホビーロード」に付き合ってあげてしまいました。
なにしろ一人で「蕨市」から新幹線でやってきたのですから。

 そこで、月曜日の昨日、久しぶりに「国上山(くがみやま)」に良寛さまを訪ねました。
なにしろ、ずいぶんご無沙汰していたように思う。

 その中腹の「国上寺(こくじょうじ)」境内で、木漏れ日を浴びながら「ブスッ」として、お待ちになっていました。
「いや、どうもすみませんでした」などとお詫びを申しあげました。


 しばし足下に気をつけながら、「五合庵」に行ってみました。
人一人いなくて、静寂の中に木漏れ日を浴びて「五合庵」がありました。
寝っ転がって、読書三昧中の「良寛さま」が、「のそっ」と出てきそうでした。

 こんな空間と時間、これ以上の贅沢はないように思われました。


 この後、「千眼堂吊り橋」を渡り公園に出ると、一足早い「あじさい」が咲いていました。



桜の森の満開の下

2007年04月16日 | 良寛さまのことなど
 昨日は曇り空とはいえ、たぶん今年最高の「お花見日和」だったであろう。

 今年も新津図書館で「新津良寛会総会」があった。
昨年は会場が満席となり、立ち見の方も出るほどであったが、今年は昨年の1/4程度の出席であった。
あまりに日がよすぎたようでした。

 さすがの「良寛さま」も桜の花にはかなわなかった、というところでしょうか。
「そうですか、わたしもお花見に行きましょうかね」と良寛さまも笑いながらおっしゃることでしょう。

 実は、私は昨年からの会員で、この会への出席も2度目なのである。
会場の新津図書館は、いつもの私のウォーキングの遊歩道沿いにある。
もちろん我が家から歩いての参加である。

 その遊歩道からは図書館の裏手に出る。そこに「坂口 安吾の碑」が建てられています。まさに「桜の森の満開の下」でした。
        

                

 「良寛会総会」では、型どおりの前年度の事業報告、会計報告、今年度の計画、予算などの審議があった。
 その後今年度の「全国良寛会」が6月、魚沼市小出郷であるとの紹介と参加者募集の案内がありました。

 楽しみにしていた今年の記念講演は「高橋 郁丸(ふみまる)」という方でした。新潟県民族学会常任理事としてもご活躍の女性で、漫画「はちすの露」などもお書きになっているとてもユニークなかたでした。

 題して「泣きべそ良寛さま」でした。

 私は、お話を聞く前から、この「演題」にとても興味を覚えていました。

 老いをなげいたり、さびしい思いを率直に歌っている良寛の様子が目に見えるように紹介されていきました。
私の「良寛像」が一段と豊かにふくらんで、良寛さまにいっそうの親しみを覚えるのでした。

 誰もが辛い思いを抱いて生きている
 認め合うことの大切さ
 飾らずに生きる自然さ     このようにまとめられました。

 生意気なようですが、この方も「良寛さま」に魅せられた方なのだな、などと思って、私はとてもうれしくなりました。
すてきな総会でした。

今年の締めくくり

2006年12月29日 | 良寛さまのことなど
 例年のこの時期に、親戚や檀家寺へのご挨拶に伺うのが習わしとなっている。
たぶん、親父から引き継いだことであろう。親父亡き後、ひとりでにこのようになっていたと言うところである。

 今日は昨夜からの強烈な低気圧に見舞われて、3度目の雪が屋根を白くしていた。どうもあちこちで公共交通にも影響がでているようであり、時折横殴りの吹雪となっていた。

 しかし、我が車「チャレンジャー」は、このときとばかりに喜々として走ってくれる頼もしい奴である。

 今は燕市となった「分水町」の親戚に平素のご無沙汰をわびて、お仏壇にお参りをする。

 さらに長岡市となった「島崎」に急ぐ。
ここには我が檀家寺の「隆泉寺」がある。前寺そして隆泉寺に「お歳暮」をお届けして、お墓にお参りをした。

 いつものように「托鉢姿の良寛さま」にもご挨拶。
ちょっとうつむき加減で、さすがに寒そうな姿ではあった。
        

 いつもの道、お墓への近道に何やら新しく「木の塀垣」が建てられていた。
この道は良寛さまが最晩年に過ごされた「木村家」の裏手にあたる。
            
          
 新しく木の塀垣がめぐらされた中に「良寛終焉の庵跡」とあり、石碑まで建っていた。
何十回と無く通っていたこの道にして、初めて知ったことにびっくりするやら、感激するやら、今日という日に思わず感謝したのでした。

 実は、良寛さまも、さすがに年を重ねられて体力的にも無理だと承知されたのでしょう。国上山麓の「乙子草庵」から、ここ島崎の「木村家の離れ」に移られたようです。
そのとき、ちょうど私の現在と同じ年だったようです。
 この翌年、かの「貞心尼」の訪問をこの庵で受けることになるわけです。

 新潟日報紙上での連載小説「恋雪譜・良寛と貞心尼」は、まさにこの二人の出会いにさしかかっています。
作者の「工藤 美代子」さんによる新しい切り口に、毎日わくわくしながら楽しみに読ませていただいているわけです。

 それにしても、今日の私なりの「発見」はたぶん多くの人のまだ存じ上げないものではないでしょうか。

 このあと、私と女房はもう一つの目的地に向かって走り出しました。
島崎から峠を越えて寺泊へ、つづいて海岸線を北上しました。
           
 猛々しく荒れ狂う「冬の日本海」を横目にしながら、一路「ワイナリーフェルミエ」に向かったのでした。

乙子草庵を訪ねて

2006年11月22日 | 良寛さまのことなど
 昨日は、寺泊岬の「ホテル飛鳥」に泊まった。
いつもと言っていいほどよく利用している。何よりも「YH(ユースホステル)」並みのリーズナブルな料金がうれしい。

 加えて、同じ経営で道路を挟んで日帰り湯「太古の湯」が完成オープンしていて、宿泊客は無料で利用できるのである。

 「太古の湯」と「ホテルの湯」の温泉三昧というのは堪えられない。

 さて、今日のお天気は崩れるという予報であった。
遅めの出発であったが、まず寺泊の「アメ横」で「さんま一箱(25匹入り」を買い込んだ。お世話になっている女房の実家へのおみやげである。

 
 今日は改めて国上山の中腹「乙子草庵」を訪ねてみた。
良寛さまも60歳を過ぎた頃、さすがに「厳しい冬」を乗り切ることに不安を感じられたのであろう。
五合庵よりかなり下の方に位置する「乙子神社」脇の「草庵」に移られた。

 左手にちょっと見えているのが「草庵」である。
ここで過ごされた10年ほどの良寛さまは、円熟味もまして多くの事を学ばれ、多くの作品を残されたように伺っている。

 ここは、いつ訪れてみても、まず人には会うこともない。
五合庵とはまた違った閑静さが感じられて素晴らしいと思っている。

 このとき、ついに時雨れてきた。

 私たちは、この後の帰り道、思わぬ素敵な場所に遭遇したのである。

 再び「弥彦」経由で車を走らせていたが、「弥彦の丘美術館」の看板を目にした。
 それは丘の上のとても小さな美術館でした。
雨にぬれた「もみじ」がとても似合っていた。
 中にはいると、そう多くはない日本画、洋画、彫刻、書道などの小さな作品が品良く展示されていた。
 その中にとてもよく存じ上げている方の作品があり、うれしくなった。

 ちょっとした休憩コーナーがあり、そこで来訪者名簿があったり、感想を記入するノートなども置いてある。そして窓から見える丘の風情がなんともすばらしい。
私たち二人の名前を書き込んできた。
「冬の企画の案内状」をいただいて、時雨に包まれた美術館をあとにした。

久々の五合庵

2006年11月22日 | 良寛さまのことなど
 昨日は晴雨にかかわらず良寛さまの「五合庵」を訪れるつもりだった。
なんと小春日和の日差しとなった。

 「柄目木庵」の3年目を迎えるのに、しばらくご無沙汰状態であった「良寛さま」である。
懐かしいお方に会いたくて、いそいそと出かける、そんな気持ちだった。



 通り道となる「弥彦のもみじ谷」に立ち寄ってみた。
トンネルを抜けると、かろうじて残った彩りに、ちょっぴりホットした。


 国上山(くがみやま)の麓を駆け上がり駐車場に到着。
越後の古刹「国上寺(こくじょうじ)」の境内を通り抜ける。本堂が黄色に染まっていた。


 国上寺の庫裏前を通り、五合庵への道を歩く。
もみじの絨毯が敷き詰められていました。


 到着した五合庵は、先着の二人組が去った後、しばらく家内との二人だけの空間となった。なんと幸せなことだろう。
良寛さまは、ただにこにことされていたように思う。

 人のざわめきで、ふと我に返った。

 

お墓参り

2006年08月14日 | 良寛さまのことなど
 昨年の今頃は、ワシントンDCやニューヨークの旅の最中であった。
特にニューヨークのマジソン駅に降り立ったときの、異様なほどの熱さは今でも記憶に鮮やかである。
走り回る「イエローキャブ」と人、人、これぞ「ニューヨーク」だと思ったものでした。

 今年は、幸いお墓参りに出かけることができた。

 13日、長男家族とともに午前中に車(プラド)に乗って長岡市(旧三島郡和島)にある「隆泉寺」に向かった。

 いつものことながら「良寛さまの乞食行姿の立像」を見ると、ほっと和む。


 我が家のお墓は、父が亡くなってから私が建てたものである。
すでに亡くなっていた母や父のご先祖の「分骨」という形で、本家のお墓から独立させたのであった。

 ご住職のお勧めもあり、跪いて拝むという基本姿勢から考えたお墓であった。
しかし、その後に周りに建てられた多くの豪壮なお墓からみると、ちょっと見劣りがするようでもある。しかし、分相応なお墓であると自負している。

 家族総出でお墓を磨き上げ、ローソク、線香をたて、お花を供えると、それはすがすがしい気持ちとなってきた。


 この「隆泉寺」には、ご存じのように「良寛さま」や晩年の良寛さまのお世話をされた木村家のお墓がある。
 良寛さまのお墓は、なんともはや堂々としたものである。その右手のお墓が木村家のお墓である。

 そして良寛さまのお墓づくりにも関わられた「良寛さまの弟・由之」のお墓が左手にある。


 帰り道は三条市経由で帰ろうと言うことになった。
三条市は世界的な「アウトドアー用品の有名ブランド」がある町である。
いくつかの用品を買って帰ろうと言うこととなった。
実は、それ以上に私たちの出身地であり、故郷でもあるのでした。

 上の写真は、三条市にある「日蓮宗総本山・本成寺」である。
さすがにその風格はすごい。久しぶりに本堂に上がり畳の感触を楽しんだ。

 実は、私が大学進学を志して勉強した夏の時期に、しばしばここを訪れて回廊や本堂の畳に寝っ転がり、うとうとしたことなどもあったのである。
クーラーなど無いご時勢にあって、さわやかな涼風と充実のひとときをもつことができたのであった。

 さらに、本堂裏手には鬱蒼とした杉林があり墓場があった。私がまだ小学生の頃、祖母につれられて、ときどき「すぎっぱ(杉の枯れ葉)」を集めに行ったものである。祖母の「馬かご」が一杯になると帰ってきた。
当時、それはお風呂などの「かまど」で火をおこすときに欠かせないものなのであった。

 いつの間にか、さまざまな思いがタイムスリップしたかのように次々と浮かんできた。
これも、お墓参りの余得であろうか。

洞雲寺を訪ねて

2006年07月10日 | 良寛さまのことなど
   
 9日(日曜日)、支部大会の後、柏崎市曹洞宗「洞雲寺」に立ち寄った。

 
 支部大会に一緒に参加した新津クラブの皆さんが「貞心尼」のお墓参りに付き合ってくれた。

 現在新潟日報紙上に連載小説「恋雪譜」が始まっている。貞心尼のことが話題なのである。
じつは、そのようなことばかりではなく、良寛を最後に看取られた方でもあるし、彼女自身はこの柏崎で晩年を過ごされて、そのお墓があることも承知していた。

 いつか、私もこのお墓におまいりしたいという強い気持ちがあった。
図らずも、このたびの思いがけないチャンスが来たというわけであった。

 雨上がりの寺は、落ち着いた風情であった。
寺の墓地は、裏手にあり、苔むした道や石段が続いていた。その一番奥に「貞心尼の墓」はあった。
           

 多くの学者や作家が、この貞心尼と良寛の関係についてたくさん論考や作品を発表されている。それはそれでいいことであるし、すばらしいことではある。
 しかし、静かに手をあわせてみると、それはどうでもいいことのように思われてきたのであった。                    合掌

連載「恋雪譜」

2006年06月23日 | 良寛さまのことなど
 いよいよ今日から、新聞「新潟日報朝刊」に新連載小説「恋雪譜(こいせっぷ)」がはじまった。

 今月はじめの日報紙上で、作者「工藤美代子さんに聞く」と題して予告が載っていた。それ以来、心そわそわ、まさに心待ちにしていた。

 「良寛と貞心尼、新たな視点で」「私の目に映った二人を、興味本位ではなく、人間の生きる姿として描けたらすばらしい」と語っていた。

 今日の連載第一回目の書き出しで、私の期待感はいよいよ高まり、どきどき感となってしまった。また、挿入される写真は「小林 新一氏」によるもので、これまた期待が膨らんだ。

 実は、来月のJARL新潟県支部大会が「貞心尼」ゆかりの柏崎市なのである。
少しばかり早めに失礼して、「貞心ゆかりの跡」のいくつかを訪れてみたいと密かに思っているのである。

 良寛と貞心尼の出会いや、その後の二人の関係や生活などについては、何人もの方が小説などの形で発表されている。これだけ多くの人をひきつけるのは、なぜだろう。
 私も
 「手毬 瀬戸内寂聴」「貞心尼 ののはら ゆみ」「良寛と貞心 (その愛とこころ) 編著 中村 昭三」などを紐解いたことがある。いずれもすばらしい作品でたくさんの感動をもらった。
 年老いた良寛と年若き貞心、二人の出会いとその生き方が、今日にしても輝いているからではなかろうか。

 これからの毎日が、朝刊を待ちわびる日々となるようだ。

出雲崎町

2006年05月08日 | 良寛さまのことなど
 それは5月5日(金曜日)のことでした。

 私たち夫婦は、その朝郷本の民宿から息子たちのいる和島オートキャンプ場に向かう途中でした。 
良寛さまが修行の後に越後に戻り、始めての仮の住まいとなった「良寛空庵跡」の石碑を発見。
それは生まれ故郷・出雲崎からそう遠くはない海岸端でした。身内に続いた不幸な出来事や時代の激しい変化が、この地を選ばせたのでしょうか。


 キャンプサイトに陣中見舞いの声をかけて、私たちは午後から出雲崎町を目指して走った。道の駅「天領の里」は大変な賑わいでした。
「天領の里・時代館」に入ってみると、その説明や案内が「良寛さん」となっている。さすが地元である。親しみを感じてのことと思われた。 
            
 
 ちょっと戻り、「良寛堂」に寄る。良寛さまの生家「橘屋」の跡地である。
  
                   

良寛堂の背面には、母の生地・佐渡をじっと眺める良寛さまの像があった。

                      

小高い丘の上に「良寛記念館」がる。何度か訪れてはいるが、いつもその見事な墨蹟に見入ってしまう。
 記念館の脇から一段と高い場所にある「良寛と夕日の丘公園」に登ってみた。
ここからは良寛堂をはじめ出雲崎の町並みが一望できる。この場所からの夕日の眺めは「にいがた景勝百選一位」なのである。
この公園には山頭火の歌碑もあり、彼もまた良寛さまに魅せられた一人であるようだ。良寛さまと遊ぶ子供たちの像もあり、ほほえましくナイスショットの場所である。

                   

 かくして過ぎた今年のゴールデンウィークであった。
今度いつか、分水町の「良寛資料館」と「与板町」を訪ねてみたいと思っている。

万代橋の花絵

2006年05月01日 | 良寛さまのことなど
 気がつけば、もう五月なのですね。

 気分一新でBLOGの衣替えをしました。心は一気に初夏でしょうか。
でも、今朝ほどは春の雨です。富山では黄砂も飛んできているようです。

 いささか華やか過ぎますが、写真は「万代橋の花絵」です。数え切れないほどのチューリップの切花で描かれています。

 このところ枕頭の書物として「座右の良寛・松本市壽著」を少し読んで、バタンキューと眠ってしまっています。良寛さま、ごめんなさい。
今まで知らなかった良寛さまの厳しい言葉や生き方の一面を知りました。
 さらに「良寛と荘子・川内芳夫著」も求めてあって、次に読もうと思っています。良寛さまの生き方の原点に迫れるかもしれません。

 良寛さまを通じて、すばらしい方々に書物などからですが、出会えることが出来てほんとに幸せを感じています。