柄目木庵

良寛さまに思いをよせながら。

新津良寛会

2006年04月24日 | 良寛さまのことなど
 お昼近く、秋葉山にある「秋葉茶屋・茶々」を散歩がてらに訪れてみました。
             

 ご主人の退職を期に、新潟市内中心部のマンション住まいから、ここ秋葉山での生活となったのだそうです。本宅とは別に地続きのところに、小さな茶房をご主人からプレゼントされたのだそうです。
ここに奥様の「プチ喫茶店・茶々」が誕生したようです。
「茶ちゃ」という子犬に歓迎されて、コーヒーをいただいてきました。
家の周りは春の花花でした。裏山は山菜の宝庫でもあるようです。
原則として、お客様は予約の方のみというのもうなずけました。

 いつものように昨日のことです。
午後から、「新津良寛会総会」に参加させていただきました。
前々からご案内をいただいていたのですが、ちょっとなあ、という気持ちだったのです。
でも、参加してよかったと思っています。地元新津でもこんなに多くの方が良寛さまのことで集まられるのかとびっくりしました。会場の図書館ホールは100名くらいの方で満員近い状態でした。

 良寛会としての行事や予算の報告・審議の後には、講演会となり市内「観音寺」の住職の「今日をより良く生きるために」と題しての講話がありました。
道元禅師や良寛の歌などを引用されながら、またご自身が福井・永平寺から新津まで托鉢をしながら歩いて帰られたときのお話などを用いてテーマに迫られました。
とてもいいお話をお聞きできたと思いました。

 実は、このところ良寛さまを偲んだり、その生き方に学んだり、歌や詩それに書についての専門的な書物など、いろいろと出版が続いています。
これはほんとに大変なことです。実に多くの方が良寛さまのことを学んでいらっしゃるのだなあとつくづく思っています。
私も何冊かをもとめています。いつか読もうと楽しみにしているところです。

彼岸の入り

2006年03月19日 | 良寛さまのことなど
 昨日のことである。昨日18日はお彼岸の入りであった。

 私の中に、たちまちにプランが出来上がった。
そうだ「和島」に良寛さまを訪ねて、ついでに良寛さまと私の両親のお墓まいりもしてきたい。

 こんな私のプランに乗ってくれたのは、家内の実家の兄夫婦それに下の妹さんであった。我が家に集合即出発。車の中は話に話が重なり大変である。話題も尽きないうちにはやくも新しく出来た116号線バイパスの「道の駅・良寛の里」に到着休憩。

 道の駅からすぐ近くに「良寛の里美術館」があった。
「和島」は良寛と「貞心尼」が初めて出逢ったところである。



    きみにかくあひ見ることのうれしさも
         まださめやらぬゆめかとぞおもふ

    ゆめの世にかつまどろみてゆめをまた
         かたるもゆめもそれがまにまに          

 ふたりの初逢瀬は、静かに熱く語り合って時間も止まったことであろう。
ふたりの像の背景の庭に、「とさみずき」の花の黄色がすてきだった。

                  

 時期的に早すぎるのか、美術館には他に訪れる方も無く、心行くまで「良寛の書」の美しさを鑑賞できた。内容や意味のことなどを読み取ることはとてもできないが、流れるような筆遣いに引き込まれてしまった。
五合庵や乙子草庵での独居から生み出されたものなのであろうか。



                       

 美術館での見学後には、お食事処「てまり」でお腹を満たした。
車でちょっと移動して「隆泉寺」に移動。
ここには、良寛さまのお墓もあるが、実は私の両親の墓もある。
持参したローソク、線香をあげて手を合わせた。
その後、良寛さまと弟・由之の墓にもおまいりした。

 これからは、いわば帰り道、一山超えて「寺泊港」である。
「魚のアメヨコ」で思い思いの「浜焼き」にかぶりついた。私は「貝柱の串し焼き」、これがけっこうたまらなく美味しいのであった。

 さらに、信濃川分水を渡り国上山山麓の「路の駅・国上」で足湯にひたる。
すっかり満ち足りた気持ちとなったのでした。

年末のあいさつ回り

2005年12月29日 | 良寛さまのことなど
 我が家では、例年この時期にお世話になった親戚や檀家寺へのご挨拶に伺うのが習慣になっている。

 一昨日は近くの親戚へ、今日は三島郡の親戚と檀家寺「隆泉寺」へのご挨拶をしてきた。
我が家のお墓にも花を手向け手を合わせてきた。

隆泉寺は浄土真宗本願寺派ではあるが、良寛様のお墓があることでも知られている。
本堂はすっかり冬囲いされていた。

 私は、小さい頃からこの寺を通じて良寛様のことをよく知っていた。
今の私は、良寛様を心のよりどころのように感じるようになっている。

                 

 本堂の前には、托鉢姿の良寛様の銅像がある。
今日の良寛様は雪の中、さすがに寒そうであった。
風邪など召されないように!

 

乙子草庵を訪ねて

2005年11月03日 | 良寛さまのことなど
 昨日も今日(11月2日水曜日)も秋晴れの一日であった。明日の「文化の日」はすでにお天気は下り坂とか。

 お天気の崩れないうちに、国上山と五合庵を久しぶりに訪れてみようと思った。
車を走らせながら、女房とおしゃべりしている間に、予定の「三条燕IC」をうっかり通過してしまった。ひとつ先の「見附中ノ島IC」で降りる。

 与板橋を渡り信濃川沿いにくだり、大河津分水に出て国上山の麓に到着。
中腹のビジターサービスセンター前の駐車場から、「国上山(くがみやま)」の登山道へ。登る途中3ケ所に良寛様の歌碑がある。

 つきよみの ひかりをまちて かえりませ
             やまじはくりの いがのおほきに

 良寛様のやさしさに、思わず涙が出そうになる。

 ゆっくり登っても35分ちょっとで頂上。今日は抜けるような青空。佐渡もうっすらとけぶって見える。おにぎりがやけに美味しい。

 登山口の国上寺(こくじょうじ)まで戻り、「五合庵」をめざす。
秋の木漏れ日を浴びて、今日の五合庵は居心地がよさそうであった。
 しかし、厳しい寒さがそこまできている。さすがの良寛様も耐え切れずに60歳の頃、20年間の五合庵住まいから、更に麓に近い「乙子草庵」に移られたのである。

 車で麓に戻る途中に、道路から階段でぐっと下がったところに「乙子神社」がある。いつ訪れても人に会ったことがないくらいひっそりとしている。
観光客もここまで訪れる人は、まずいないのであろう。その神社の傍らに「乙子草庵」がさらにひっそりと建っている。
 良寛様のここでの10年間は、それまでにないくらいの充実したものであったとお聞きしている。書や詩に修行に明け暮れされたのであろう。

 その良寛様も、やがて70歳を前にして島崎は「木村家の庵室」に移られるのである。

 一日「国上の里」に遊んで時間が過ぎた。せっかくだと言うので、寺泊に足を伸ばし「銀鮭」を買い、さざえの浜焼きをほおばり、一路日本海の夕日を背中に受けて、我が家へと急いだのである。

盆参

2005年08月03日 | 良寛さまのことなど
 8月にはいると、各お寺でお盆関連のお勤めが始まるようである。

 昨日2日、いつもの年より10日あまりも早く、お墓の掃除とお墓参りに行ってきました。今年のお盆の頃に日本を留守にしているため、早めのお墓参りとなった。我が家のお寺は、良寛様のお墓がある三島郡和島村の「隆泉寺」である。

 ずいぶん小さい頃から、良寛様には格別な親しみを感じてきていたのは、寺の境内にある「良寛様の托鉢姿」の像を見ていたからであろうか。

 車を走らせて午前11時くらいには和島村に入った。やがて島崎川の橋を渡ると隆泉寺の駐車場である。掃除用具、お線香などを持って境内に入ると読経の声が響いてきた。盆参が始まっているのである。大勢の方々が本堂にびっしりである。

 庫裏から、寺の奥様にご挨拶。前寺にもご挨拶。バケツに水をもらってお墓をごしごし。アメリカ行きの旅の無事を、お墓の父にお願いをする。
 ついでといってはばちが当たるでしょうが、良寛様のお墓にも手を合わせました。
木村家と弟・由之のお墓に挟まれた良寛様のお墓は、大きくて堂々として風格があります。弟・由之様が建てられたのだとか。

 帰り道は、島崎から根小屋を経て「塩の入りトンネル」を通り、あっという間に与板の町となる。このトンネルのない時代には「塩の入り峠」を越えたわけで、なかなかの難所であったらしい。
 以前にこのBLOGでも書いたことのある「貞心尼」は、良寛を慕って与板側からこの「塩の入り峠」を越えて島崎の良寛に会いに通ったのである。

 そういえば、「貞心尼」のことを書いた瀬戸内寂聴の「手毬」が、NHKラヂオ「日曜名作座」夜9時からに取り上げられ、その一回目の放送が7月31日にあった。出演はベテランの森繁久弥と加藤道子で、なかなかの聞き応えがあった。

 暑い一日ではあったが、大切な用事が無事終わったような気がしてほっとしたことであった。

「貞心尼」

2005年07月11日 | 良寛さまのことなど
 良寛を慕い、良寛の晩年には彼を看取ったという「貞心尼」。
図らずも、長岡市リリックホールで「墨詩良寛 貞心尼の抄」なるものを鑑賞する機会があった。

 墨詩とは聴きなれない言葉であったが、良寛の世界をモノトーンな墨画的な舞台で表現しようという、まことに革新的な舞台であった。
 舞台では中央に巨大な墨画閻魔様が架かっている。暗い舞台の左サイドには義太夫の語り人、その後ろにヴァイオリニスト、右サイドにはウッドベーシストが配置されている。

 舞台はバイオリン、ウッドベースによる導入から義太夫の語りで貞心の生い立ちと結婚・離婚と紹介され、恋しい良寛に会いたい一念で吹雪の「塩の入峠」を超えるクライマックスを迎える。その様子は人形(貞心尼)とその使い手(黒子)と大きな白布の脈動で表現されたのである。

 その後、舞台では良寛(主役・演出の高井松男氏)と貞心(人形)とのしみじみと落ち着いた対話となる。三条大地震の体験から人生、生死についての語らいとなった。
「つきてみよ ひふみよいむなや ここのとお とおとおさめて またはじまるを」この象徴的な詩で幕となったのであった。

 残念ながら義太夫の語りにしても良寛のセリフにしてもマイクなしなので、独特な言い回しや内容などが十分に聞き取れなくて残念であった。「演出・構成の思い」は確かに伝わってきたのだが、いまいちの盛り上がり・感動にならなかったような気がする。
とはいえ、このような試み・コラボレーションはすばらしいことであると思った。

 「貞心尼」を通して良寛に迫る試みは多くの方によってなされている、それだけ魅力のある「貞心尼」なのであろう。
*貞心尼(良寛と生きた誓いの日々) ののはら ゆみ著 考古堂
*手毬 瀬戸内寂聴著 新潮社
*良寛の愛 青木羊耳著 考古堂
などを読んだが、前二著は女性によるもので、最後の著は男性によるものである。
 独断であるが、これらの著書を通して女性の情念、男性の純粋さを貞心尼、良寛に対してと同様著者の方々にも感じたというのは、お叱りをいただくであろうか。

春分の日に

2005年03月20日 | 良寛さまのことなど
 昨日から予想された今日のお天気。
快晴である。計画実行にはまたとないチャンスである。

 前回の「五合庵」を訪ねたときは、まさに吹雪の中であった。
厳寒に耐える良寛さまを偲ぶことは十分でした。しかし、国上山に登れなかったことが心残りだった。
そこで、今日は国上山登山に絞って出かけた。

 今年はじめての国上山313mである。越後の古刹「国上寺」の裏手から登山道が始まる。
国上山登山の楽しさは、途中「良寛さまの歌碑」がいくつかあることと、いろんなお花にめぐり合えると言うことである。
 登り始めて程なく、女房が「マンサクの花」に気づいた。
また、五合目の見晴らし台のところで歌碑に出会う。
    
   月よみの 光をまちて かえりませ
             山路はくりの いがのおほきに   良寛

 良寛さまのやさしさに涙が出そうになる。頂上でおにぎり一個ずつ食べてすぐ同じコースで下山。(次回は「蛇くずれ」のコースでたくさんのお花に会いながら下山しよう。)
途中から国上寺からの読経の声が聞こえてくる。今日はお彼岸の日だもの、よかったなあなどと思いながらの下山でした。

 車での帰り、かなり下がった道の途中に「乙子神社草庵」の案内板があり、下車して訪ねてみた。
タフな良寛さまとはいうものの、老いの身に長い上り下りの坂道や寒さは堪えたであろう。やがて良寛さまはこの草庵に移られたのであった。
五合庵よりはましではあろうが、依然として厳しい生活であることには変わりなかっただろうと思われた。 

吹雪の中の五合庵

2005年03月14日 | 良寛さまのことなど
 このところ春が来たのかな、なんて思っていたのが、昨日は全国的に大変強い冬型となり、日本列島いたる所で冬景色となったようだ。私も久々の寒さにふるいあがっていた。

 しかし、突如、五合庵の様子を見たくなった。
 「おい(老翁)が身は寒さにうずもる(埋)雪の竹」 良寛

 女房に背中を押されて,二人で車を走らせた。一時間半ほどのドライブであった。
ほんとに久しぶりの「国上山(くがみやま)の麓」である。駐車場から、うっすらと新雪の積もった道を「国上寺(こくじょうじ)」、そして「五合庵」に向かう。
なんと幸せなことに、だれも訪れた人も無い様子で、雪の中に足跡も無い。
そして吹雪の中に五合庵は静かに佇んでいた。

 そうか、この小さな空間と自然が「良寛」に至福のときを与えたのであろう。
しかし、想像を絶する厳しい生き方でもあっただろう。

 寒さ厳しい中、ぬくもりをいただき、帰路に着いた。
 

落ち葉の季節となりました。

2004年11月17日 | 良寛さまのことなど
 越後の人たちが敬愛してやまない「良寛さま」と 親しくお呼びする「お坊さま」がいました。
江戸時代の方ですが、無位無冠を貫かれました。詩人 歌人 書家としても大変有名な方
でしたが、三島郡分水町の国上山に「五合庵」という小さな庵で質素な生活をされました。
 この季節になると良寛さまがお詠みになった次の句が思い出されます。

      「たくほどは かぜがもてくる おちばかな」
 
 私の生活は、良寛さまの生活とは程遠く飽食と有り余る物に囲まれての生活です。
でも、いつも良寛さまの生き方は憧れです。
せめて、「柄目木(がらめき)庵」と名づけた、我が庵からの「発信」をと思っています。
気張らず がんばり過ぎずに マイペースで楽しみたいと思っています。
                            よろしくお願いいたします。