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<北の事始め 発祥の地あれこれ>陶芸 幕末の箱館焼から本格化 適した粘土確保に苦心

2021-07-22 | アイヌ民族関連
北海道新聞 07/22 05:00
 中学の歴史の教科書に、日本を代表する焼き物である有田焼(佐賀県)が載っていました。北海道での本格的な焼き物は、幕末に本州の陶工が箱館(函館)で焼いた箱館焼が始まりです。北海道は作陶に適した粘土も少なく、陶芸の後進地とされてきましたが、北国の自然や風土が投影された作品が各地で生み出されています。
 北海道の焼き物の歴史に詳しい、江別市教育委員会の元学芸員、園部真幸さん(68)によると、道内の焼き物は約1万4千年前の縄文土器に始まり、紀元前2、3世紀からは続縄文土器が、8世紀ごろからは擦文土器がつくられました。しかし、12、13世紀ごろに擦文文化が終焉(しゅうえん)すると、土器もつくられなくなり、道内で再び焼き物がつくられるのは800年余り後の幕末です。
 その間に本州では、ろくろで成形し焼成窯で焼いた須恵器や、釉薬(ゆうやく)を施した陶器や磁器が登場。信楽(しがらき)焼(滋賀県)、常滑(とこなめ)焼(愛知県)、京焼(京都府)、有田焼など各地に産地が形成され、陶芸文化が開花しました。
 蝦夷地(えぞち)では幕末に、幕府による窯業の振興が行われました。「1859年、岐阜県出身の陶工、足立岩次(岩二)が箱館で窯を築き、苦心の末、磁器の製造に成功しました。窯を閉じるまでの3年間につくられた製品を箱館焼と呼び、多くは箱館の風景やアイヌの人々をモチーフにした染付(そめつけ)磁器です」と園部さんは話します。
 明治に入ると、焼き物の需要を見込んだ常滑や京都などの多くの陶工が、小樽や札幌、室蘭などで窯を開きます。「1923年(大正12年)には北海道工業試験場(道工試)が開設され、陶工育成の努力が実り、道内出身者が窯を開くようになりました」と園部さん。
 しかし戦前の窯の多くは、陶芸に適した粒度の細かい粘土の確保が困難だったことなどから、短期間で閉じてしまいました。
 道立総合研究機構工業試験場(札幌)研究主幹の野村隆文さん(58)は「粘土は細かいほど粘りがあり、形にしやすい。北海道の粘土は主に火山灰が風化したもので、寒冷な気候などのために粘土になり切れず、粒度の粗いものが多い。対して、焼き物産地の信楽などの粘土は、花こう岩が細かく分解し粘土化したものです」と説明します。
 戦後を迎え、46年にこぶ志窯(岩見沢)を開いたのが、道工試出身の山岡三秋(みあき)(1904~97年)です。道内で活動する最古の窯で、孫で3代目の山岡千秋さん(53)は「祖父は陶芸をやる人がほとんどいない中で窯を開き、丈夫で使いやすい器などをつくりました。地元の原料を使って試行錯誤を重ね、代名詞となった深い藍色の『海鼠釉(なまこゆう)』などが生まれました」と振り返ります。三秋の下からは多くの陶芸家が育ちました。
 49年には中国古陶磁研究の第一人者で工業的な陶磁器製造にも取り組んだ小森忍(1889~1962年)が、道内の陶磁器工場を指導し、51年から江別で北斗窯を営みました。小森の業績を伝える江別市セラミックアートセンター学芸員の兼平一志さん(50)は「小森は、道内の土や石を調査分析して焼き物原料としての可能性を探り、成果を作品に反映させました。個展などを開いて焼き物の普及にも尽力しました」と解説します。
 その後、陶芸ブームの到来などで現在、道内では400~500人の陶芸家が活動しています。
 北海道陶芸会会長で陶芸家の中村裕さん(67)は、北海道の自然を投影した作品を制作する傍ら、97年から札幌市立駒岡小学校の学校行事で全学年の生徒に陶芸を教えています。今月、江別市野幌の粘土を使い、6年生はろくろを体験しました。中村さんは「生徒たちと野焼きをして作品を完成させます。粘土になじんでもらい、陶芸の楽しさを伝えたい」と語ります。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/569826
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