ナショナルジオグラフィック 2024.09.02
最盛期は紀元前7世紀、独自の文字も、明らかになる先住民とフェニキア人の文化の融合
紀元前6世紀のこのネックレスには、タルテッソスで採用されたフェニキア人のモチーフであるエジプトのスカラベの印章が7つ付いている。このネックレスは1958年に発見された「カランボロの財宝」の一部だ。(参考記事:「2700年前の謎の黄金財宝、起源を解明」)(ORONOZ/ALBUM)
植民地化の初期のこの時期、イベリア半島の地元社会は、東部からの植民者の存在に徐々に適応していった。この統合がどのように発展したのかを、考古学者はより探ろうとしているが、人々は内陸部から沿岸部の植民地に移住したようだ。
労働力は膨れ上がり、新たな都市や神殿、交通路の建設に必要な職人や労働者だけでなく、鉱夫や農民もやって来た。グアディアナ川とタホ川流域では、有力なエリート戦士が、フェニキア人の鉄や先端技術と引き換えに労働力を提供したのかもしれない。これらの内陸部では、地元の商人がフェニキア人に金やスズ、農産物を提供したのだろう。
フェニキア人はイベリア半島の植民地に大きな影響を与えたが、その変化は不均一だった。
例えば、グアダルキビル川流域やカディス湾などの人口の少ない地域では、やって来たフェニキア人は自分たちの都市を建設し、先住民を取り込むことができた。一方、ウエルバでは、より確立された経済と明確な社会構造がすでに存在しており、フェニキア人の影響力は弱かった。
フェニキア人、先住民コミュニティ、内陸部の人々が互いに影響し合い、現在タルテッソス文化と呼ばれる文化が生まれたのは、紀元前8世紀のことだ。「タルテッソス」という言葉がギリシャの史料に初めて登場するのは、さらに後の紀元前7世紀だ。
考古学的証拠が示す文化の融合
フェニキア人の植民者とイベリア半島の先住民との接触は、陶工、金細工師、鍛冶屋、建設業者、港湾労働者、船乗りなどの仕事を生み出し、目覚ましい経済発展のきっかけとなった。海上貿易がこの社会の特徴だ。
海上貿易は労働集約的で、木を伐採し、船を建造し、商品を運ぶためのアンフォラ(2つの持ち手のついた壺)などの容器を作るために、多くの労働者が関わった。
このような変化は、フェニキア人との新たな関係で利益を得るようになったタルテッソスのコミュニティと、新たな経済資源の支配を求める内陸部の他の先住民コミュニティとの間に緊張を生み出した可能性がある。
タルテッソス文化では、新たな社会集団が出現し、はるかに複雑な社会組織が生まれた。この社会は約400年続いたが、エリートがどのように支配を維持したのかは明らかになっていない。タルテッソスの遺跡や墓のどちらからも、多くの武器は見つかっていない。
タルテッソスにはいくつかの注目すべき文化的な特徴があったが、均質な社会ではなく、統一王国、ましてや帝国とみなすべきではない。
ヘロドトスは、アルガントニオスが支配する王国について言及しているが、それはギリシャ人がタルテッソスと呼んでいた地域の長のことだ。他にも王や指導者がいたはずで、各支配者は相互に経済的な利害関係があったにもかかわらず、政治的な独立を維持していた。
この社会構造は、階層的というよりも並列構造的で、様々な指導者や権力のネットワークを含んでいた。