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アイヌの歴史に託された祈りと希望の物語が描く、「差別」されてきた歴史の中に埋もれた「とこしえの和睦」の可能性

2024-10-04 | アイヌ民族関連

細谷 正充(文筆家) 2024年10月4日

アイヌの歴史に託された祈りと希望の物語が描く、「差別」されてきた歴史の中に埋もれた「とこしえの和睦」の可能性

気鋭の時代・歴史小説家、武川佑さんが最新作『円かなる大地』で描いているのはなんと「アイヌ」。

著者にとっても初挑戦となる題材を、書評家はどう読み解くのか?

今回は細谷正充さんによる書評を公開します。

武川佑『円かなる大地』

時は戦国、北の大地。謎多きアイヌの壮年・シラウキが人喰いクマの襲撃から助けた少女はなんと、蠣崎氏当主の娘・稲姫だった。礼として居城に招かれるが、それが和人とアイヌの戦の引き金となってしまう。

稲は己の無知が招いた惨状を目の当たりにして、和睦には自ら打って出ることを決意する。

一方シラウキも稲姫の姿に心打たれ、少年期の惨劇の清算を和睦へと託すのであった。無頼の女傑、女真族、恐山の怪僧……二人は心強い協力者とともに和睦の中人となりうる出羽国・安東氏のもとへ向かう。

果たして二人は、「とこしえの和」を実現することができるのか――

いま最注目のヒストリーテラーが贈る、本格歴史エンターテイメント!

戦国時代、のなかでも「アイヌ」

戦国時代は、武川佑のフィールドだ。室町時代を舞台にした『千里をゆけ くじ引き将軍と隻腕女』のような作品もあるが、デビュー作から戦国小説を中心に書き続けているのである。ただし題材は多彩だ。『かすてぼうろ 越前台所衆 於くらの覚書』は女料理人、『真田の具足師』は実在の具足師を主人公にしていた。そして最新刊となる本書『円かなる大地』の題材は、なんとアイヌである。

物語は永正九年(一五一二年)、館に火をかけられた宇須岸城主の河野季通が自裁し、三歳の娘の蔦姫が落ち延びる場面から始まる。この序章が終わると、時代は天文十九年(一五五〇年)に飛ぶ。シリウチコタンの若者のもとに、泊村のアイヌの娘が嫁いだ。祝言には、泊村の代官の小山悪太夫(このような名前だが女性である)も駆けつけた。だがコタンに「四ツ爪」と呼ばれる熊が現れ、コタンの娘が喰われてしまう。逃げた「四ツ爪」を殺すよう、コタンの長のチコモタインからいわれたのが、シラウキという男である。なにやら「四ツ爪」と因縁があるらしい。コタンのハワシと共に「四ツ爪」を追うシラウキは大館に至った。そこで、「夷嶋守護」である蠣崎季廣の娘の稲姫が「四ツ爪」に襲われかけたところを助ける。

その後、「四ツ爪」を殺し、稲姫の言葉に従い蠣崎の屋敷に、シラウキとハワシは赴いた。だが、季廣と家臣たちはアイヌを見下しており、争いが起こる。ハワシは捕まり、シラウキは稲姫を人質にしてシリウチコタンに戻った。これによりシリウチコタンと蠣崎家の間で戦が起こる。どうやら、前々からシリウチコタンを滅ぼそうとしていた季廣の思惑に嵌ってしまったらしい。コタンで暮らすうち、アイヌのことを知りたくなった稲姫は、和人の兵たちの唾棄すべき行為を目撃し、心を痛める。そして状況を打開するための使者となったシラウキについていくのだった。

成長していく登場人物たち

悪党と呼ばれるシラウキは、二年前にシリウチコタンにやって来た男である。二十年前に壊滅したエサウㇱイのアイヌであったらしい。この過去については、物語の途中で挿入される。それは十五歳のシラウキが、和人の蠣崎次郎・紺平八郎・権蔵の三人と友情を育み、「和人もアイヌもどちらも偉くない国を作ろう」と誓う、希望に満ちた青春物語だ。しかし現実はすぐに希望を蹂躙し、シラウキたちは絶望を抱いたまま生き残る。その後、蔦姫との縁もできるのだが、このあたりの経緯は読んでのお楽しみである。

そのような過去を挟みながら、天文十九年の物語も、意外な方向に転がっていく。アイヌと和人の戦を終わらせるために、出羽の安東舜季を中人(仲裁人)として、夷嶋に来てもらおうとするのだ。シラウキと稲姫、小山悪太夫、稲姫の許嫁で和人の行いを恥じる下国師季、ある人物の仲間である女真族のアルグン。バラエティ豊かなメンバーが、舜季のいる出羽へと旅立つ。

最初はシラウキが中心になっているが、徐々に稲姫の存在感が増してくる。十三歳の稲姫は、まさに箱入りのお姫様。和人に差別と搾取をされているアイヌの現状を、まったく知らずに生きていた。しかし聡明な彼女は、己が無知だと気づくと、積極的にアイヌのことを学ぶ。和人側の横暴(作者の描写は、本当に容赦がない)に怒りを抱く。そして母親から教わった方法で、自分なりの戦いをするのだ。本来なら自らが所属する権力に立ち向かうことで成長していく稲姫の姿が、熱い読みどころになっているのである。

あふれ出てくる作者の「覚悟」と「使命感」

一方、波乱に富んだストーリーも見逃せない。迫力ありすぎの戦の描写。アイヌを激しく憎む武士と、シラウキたちの死闘。過去の人物も意外な形で登場し、因果因縁の糸が絡まる。ロード・ノベルとなる後半も、工夫を凝らした展開で、ページを繰る手が止まらないのだ。

さて、史実なので書いてしまうが、稲姫たちの奮闘は、「夷狄商舶往還法度」へと結実する。詳しいことは本作を読んでほしいが、和人とアイヌの間で唯一、対等に近い関係で結ばれた画期的な講和であった。河野季通・蔦姫・稲姫と繫がった「とこしえの和睦」の願いと、シラウキ・次郎・平八郎・権蔵の「和人もアイヌもどちらも偉くない国を作ろう」という誓いは、ここに確かな一歩を踏み出したのだ。

しかし、その後もアイヌは和人の差別と搾取の対象となった。江戸時代には、有名なシャクシャインの戦いが起きている。また残念なことだが、現在でもアイヌに差別感情を抱く人はいる。だからこそ、歴史の中に埋もれた「とこしえの和睦」の可能性を掘り起こし、物語の形で広く世間に知らしめる本書が、深い意味を持つのだ。

さらに付け加えれば、旅のメンバーに女真族のアルグンを入れたことにも、重要な意味がある。アイヌの苦しみの歴史は、世界のさまざまな民族の苦しみの歴史と通じ合う。現代の戦争や紛争を見ても分かるように、それは今でも続いている。このことを作者は、アルグンを通じて表現したかったのだろう。作者は「とこしえの和睦」に至ったかもしれない可能性を指し示したかったのだ。どうしても書かねばならないという、覚悟と使命感が伝わってくる、会心の一冊なのである。

武川佑(たけかわ・ゆう)

1981年神奈川県生まれ。立教大学文学研究科博士課程前期課程(ドイツ文学専攻)卒。書店員、専門紙記者を経て、2016年、「鬼惑い」で第1回「決戦!小説大賞」奨励賞を受賞。甲斐武田氏を描いた書き下ろし長編『虎の牙』でデビュー。同作は第7回歴史時代作家クラブ新人賞を受賞。2021年、『千里をゆけ くじ引き将軍と隻腕女』で、第10回日本歴史時代作家協会賞作品賞を受賞。最新作は『円かなる大地』。

https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/アイヌの歴史に託された祈りと希望の物語が描く-差別-されてきた歴史の中に埋もれた-とこしえの和睦-の可能性/ar-AA1rFcul?ocid=BingNewsVerp#


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給食 昔は何食べていたの? クジラ肉、あげパン…昭和の味

2024-10-04 | アイヌ民族関連

田口谷優子 会員限定記事

北海道新聞2024年10月4日 4:00

 てんテン 食欲の秋だね。今度、みんなでお昼ご飯を食べようよ。

 えぇぞさん ええぞ、ええぞ。ところで人間の子どもたちは、学校で昼食を食べているんじゃよ。

 てんテン お弁当を持って行くの?

 えぇぞさん 学校が「給食」を用意してくれるんじゃ。パンやご飯とおかず、牛乳なんかも出るようじゃな。

 てんテン きゅうしょく? おいしそう。ほかにどんなメニューが? いつから始まったの? いろいろ教えテン。

 えぇぞさん ええと…。学校給食にくわしい北海道教育委員会学校教育局の三好明子さん(55)に聞いてみよう。

■ご飯の登場 道内は1970年代

 三好さん 1889年(明治22年)、山形県鶴岡町(現・鶴岡市)のお寺の中に建てられた小学校で、生活が苦しい家庭の子どもに、無料でお昼ご飯を用意したことが学校給食の始まりと言われているよ。1932年(昭和7年)に、貧しい家庭の子ども向けに給食が始まったんだ。

 えぇぞさん もともと、みんなが食べられたわけではなかったんじゃな。

 三好さん 終戦後の食糧不足の中、米国や慈善団体などから脱脂粉乳や小麦粉の援助を受けて、改めて学校給食は広がっていったんだ。54年に「学校給食法」が施行され、給食は子どもの心と身体の発達などを目的とする教育活動と位置づけられたよ。

 てんテン 昔はどんなメニューだったの?

 三好さん おじいちゃん、おばあちゃんのころ(昭和初期から中期)は、コッペパンに脱脂粉乳。クジラ漁がさかんだったから、おかずにクジラ肉も出ていたよ。昭和後期になると、脱脂粉乳から牛乳に切りかわった。ミートソースなどとからめて食べる、ふくろ入りのめん「ソフトめん」や、コッペパンを油であげて砂糖などで味付けした「あげパン」が人気だったよ。

 えぇぞさん パンだけでなく、ご飯が出るようになったのはそのころなのかの。

 三好さん そうだよ。道内でご飯が出るようになったのは1970年。いまでは「ゆめぴりか」や「ふっくりんこ」など、道産米が食べられているね。

 ピッチ ピチィ!

 ・・・・・・・

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1070936/


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江戸時代の植物標本解説 「『東蝦夷物産志』を読む」出版 釧路管内で活動する北方資料研究会

2024-10-04 | アイヌ民族関連

服部貴子 有料記事

北海道新聞https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1071054/2024年10月3日 23:08(10月3日 23:44更新)

「渋江長伯一行の蝦夷植物採薬紀行『東蝦夷物産志』を読む」を出版した北方植物資料研究会の(左から)藪本さん、高嶋さん、奥田さん

 江戸後期に北海道太平洋沿岸で薬となる植物を採集調査してまとめた「東蝦夷(えぞ)物産志」について、釧路管内で活動する北方植物資料研究会が読み解いた「渋江長伯一行の蝦夷植物採薬紀行 『東蝦夷物産志』を読む」がクスリ凸凹旅行舎から出版された。著者の一人、奥田幸子さん(75)=釧路市=は「物産志は約200年前の北海道太平洋側を歩いた記録。植生や地形など現代との違いを比べながら読んでほしい」と呼びかけている。

 「東蝦夷物産志」(作者不明)は、1799年に江戸幕府から派遣された本草学者渋江長伯らが道南から道東を往復して採集した動植物の名前をアイヌ語、説明は和語で記録している。

 道東の植物やアイヌ語に長年関心を寄せてきた奥田さん=釧路アイヌ語の会会長=、高嶋八千代さん(75)=釧路市=、藪本隆子さん(73)=鶴居村=の3人が「江戸時代の植物標本」を広く知ってもらおうと出版を企画。2018年から編集作業を始め、6年がかりで完成させた。

 新刊本には東蝦夷物産志に記載されている動植物387種のうち、草木種235種を紹介した。・・・・・・

 B5判、オールカラー180ページ。2200円。釧路市内の各書店のほか、クスリ凸凹旅行舎のホームページからも購入できる。問い合わせは同舎、電話0154・37・6513へ。

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1071054/


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ふるさと納税forGood、平取町の「守れ!二風谷のアイヌ文化~チㇷ゚サンケ存続プロジェクト~」の寄付受付開始

2024-10-04 | アイヌ民族関連

ー北海道平取町のアイヌ文化を体現する伝統儀式「チㇷ゚サンケ」の存続を目指し、クラウドファンディング型ふるさと納税で寄付を募集ー

株式会社ボーダレス・ジャパン2024年10月3日 10時00分

株式会社ボーダレス・ジャパン(本社:福岡県福岡市、代表取締役社長:田口 一成)が運営するクラウドファンディング型ふるさと納税ポータルサイト「ふるさと納税forGood」( https://furusato-forgood.jp/ )は、北海道平取町(以下、「平取町」)とアイヌ文化の伝承と地域活性化を目的とした「守れ!二風谷のアイヌ文化~チㇷ゚サンケ存続プロジェクト~」の寄附受付を10月3日(木)より開始いたします。

プロジェクト概要

目的: アイヌ文化の伝承と地域活性化

寄附の使途: チㇷ゚サンケで使用する和舟「チャラセ」の修理・新規製作、保管施設の整備

目標金額: 120万円(1stゴール70万円)

募集期間: 2024年10月3日 ~ 2025年6月30日

詳細・寄付はこちら:https://furusato-forgood.jp/projects/000145

チㇷ゚サンケについて

チㇷ゚サンケは、アイヌ語で「舟おろし」を意味します。平取町二風谷で55年にわたり継承されてきた本行事は、舟を川へおろし、舟に魂を込め、火の神や山や川の神などに祈る伝統的な儀式です。

近年ではアイヌの少女が登場する人気アニメ実写版の撮影地としても注目を集め、道内外から多くの観衆が訪れる一大イベントで、アイヌ文化の伝承と地域活性化の両面で重要な役割を果たしています。

プロジェクト実施の背景

チㇷ゚サンケの実施として重要な和舟「チャラセ」の老朽化が進み、来年の開催が危ぶまれる可能性があります。本プロジェクトでは、チャラセの修理、適切な保管施設の整備を通じて、チㇷ゚サンケの存続と更なる発展を目指します。

寄付金の使途

・チャラセ(和舟)の修理費用

・舟の保管施設の整備費用

返礼品紹介(一部)

その他、数多くの返礼品から選べます

平取町https://www.town.biratori.hokkaido.jp/index.html

平取町(びらとりちょう)は北海道南西に位置する人口約4,600人の、日本百名山でもある日高山脈の秀峰「幌尻(ぽろしり)岳」や日本一の清流にも選ばれた「沙流(さる)川」などの豊かな自然とアイヌ文化が色濃く残るまちです。平取町には、多くのアイヌ工芸品のほか、和牛、トマトジュースなど多くの魅力ある返礼品があります。

ふるさと納税forGoodhttps://furusato-forgood.jp/

社会をよくするために挑戦する人たちへの応援・共感で寄付を集める、クラウドファンディング型ふるさと納税のプラットフォーム。明確な使い道を選んで社会貢献できるのが特徴。

株式会社ボーダレス・ジャパンhttps://www.borderless-japan.com/

社会起業家が集うプラットフォームカンパニーとして2007年3月設立。貧困・環境・教育・地方の過疎化など、様々な社会問題を解決する50以上の事業を世界14ヵ国で展開(2023年度 売上約86億円)。

会社名:株式会社ボーダレス・ジャパン

所在地:福岡県福岡市中央区天神三丁目1番1号 天神フタタビル4階

設 立:2007年3月

代 表:代表取締役社長 田口 一成

事 業:社会問題の解決を目的としたソーシャルビジネス

《本リリースに関するお問合せ》

平取町役場商工観光課

担当:藤谷、岩本

電話:01457-3-7703(直通)

メール:wagyu_tomato@town.biratori.lg.jp

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000553.000021621.html


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俳優・寛一郎「僕はあまのじゃくだと思う」記憶に残る幼少期の思い出は?

2024-10-04 | アイヌ民族関連

Domani 北海道・白糠町で過ごした1ヶ月間、共演者とは町で本当に暮らしていた感覚に

WEB Domani

アイヌと和人(シサㇺ)との対立の歴史を描いた映画『シサㇺ』(24)は、江戸時代前期が舞台の壮大な歴史スペクタクル映画。<蝦夷地>と呼ばれた現在の北海道を領有した松前藩が、アイヌとの交易をおこなっていた史実が基になっている。町全体がイオル(アイヌの伝統的生活空間)という考えの下、アイヌと和人が共生してきたという認識をもつ北海道白糠町で多くの場面が撮影され、セット建設から撮影まで、町からの全面支援・協力のもと製作。物語は、殺された兄の復讐心に燃える松前藩の高坂孝二郎(寛一郎)が、アイヌの人々との交流を通じて、己の価値観や生き方を模索してゆく──。

【写真を見る】「アイヌの人たちを通じて自分がちっぽけだと感じました。ものすごく良い環境でロケが出来たと思います」」

──作品への出演が決まった時のお気持ちをお聞かせください。

脚本と企画書を読んだ時に、アイヌにフォーカスした作品になるということを知って、是非やりたいと思いました。というのも、子供の頃に通っていた学習塾の課外活動でアイヌの集落に泊まったことがあるんです。2週間滞在したのですが、そこで初めてアイヌのことを知りました。そういった経験もあり、消えゆく文化の中で、こうして映像作品として残せたらうれしいなと思いました。

──役作りをする中で心がけたことや意識したことは?

時代劇なので時代考証をしますしアイヌのことも調べますが、書かれている本も、観る人も、演じる僕もそうですが、どうしても「今日の価値観」になってしまうわけです。描かれている時代と今日起きていることをリンクさせながら時代考証をすると、脚本通りにいかず、観ている人もわからない感じになってしまう。だから過去に起きていることではあるけれど今日にも重ねられる、そういう表現ができたらいいなと思いながら演じていました。これは僕が時代劇を何度かやってきた中での学びでもあります。

──作品を通して、より理解が増したことや新たに学んだことはありますか?

作品が決まったことによってよりアイヌの文化を知りたくなりましたし、実際に歴史的なことも含めいろいろと知ることができました。学校の授業で学ぶ機会があっても、そんなに詳しく知ることはできませんでしたが、この作品をやらせていただいたことが勉強をするいい機会になりました。

──共演者の皆さんとのエピソード教えてください

1か月間、北海道の白糠町に滞在したのですがナイターシーンが少なかったものあり、基本夕方には終了。白糠町は飲み屋やご飯を食べるところは限られていて、夕飯を食べに行ったらスタッフや演者の誰かしらがいるという状況でした。本当に町でみんなで暮らしていたという感覚でしたね。毎日みんなと食べて飲んでました(笑)。

──白糠町での暮らしで印象的だったのは?

北海道は全体的にそうかもしれませんが、気候が素晴らしいんです。撮影は真夏でしたが、涼しいし湿度も低くてカラッとしていて、ものすごく良い環境でロケが出来たなと思います。

 寛一郎、自己分析をすると「あまのじゃくな人」

──ご自身の性格はどんな性格だと思いますか?

面倒くさいと思います(笑)。あまのじゃくだし、最近は緩和されてきたと思っていますが、本当に生意気ですし…、ああいえばこう言うし、好き嫌いも激しいんです。

──最近は緩和されてきたということですが、それは年齢を重ねてということですか?

アイヌの人たちを知っていく上で感じたんですが、共存していく力がすごいんです。そういう文化のもとに生きる人たちを見ていたら、自分がすごくちっぽけに感じて、それ以来あまり小さいことを気にしなくなったと思います。

──寛一郎さんは落ち込むことはありますか?

あると思いますよ。ちなみに、落ち込んだらみんなどうなるんでしょう?

──ずっと引きずっている人と、寝たら忘れちゃう人もいますよね

僕は寝ても忘れないですね。だから、落ち込んだ理由をちゃんと一から考えます。なんで忘れないのかと、落ち込んだ原因と解決策を考えて消化できればいいですね。たまに「ああ…」となる時もありますが、一つ一つ考えていって、解決しようとしています。

 ──ご自身の「ここはブレたくない」というモットーはありますか?

僕はあまりブレることもないし、ブレるつもりもないのでモットーはありません。何かを決めるときも、自分を持っていますし、他人の意見も聞きつつも決めることもありますが、最終的に何かを決断するのは自分ですから。

──仕事をする上で一番大切にされていることは?

難しいですね。なんだろう?(しばし考えて)純真ですかね。たまにそれが失われてしまうときもありますが、純真というか、感じようとする心みたいなものは大切にしています。いろいろなことを感じないといけないなと思いますし、感じる心をなくしたら終わりだなと思っています。

──感じる心、といえばどんな時に幸せを感じますか?

寝る時です(笑)。幸せだと感じようと思えば幸せを感じられますが、特に幸せだと思わなければ何も感じないこともできる。先ほどの話と重なりますが、どんなことでもそう感じようとしなければ、「まぁ、こんな感じか」というくらいなんですが、ひとつのことを嚙みしめることで幸せをより深く感じることができると思っています。

──寛一郎さんは子供の頃はどんなお子さんでしたか?

可愛かったですよ(笑) 。

──性格的には?

どうですかねぇ…幼い時の自分が何かを決断する時に、プライオリティが高かったのは、そこにきれいなお姉さんがいるかどうかだった気がするんです(笑)。何か習い事をするにしても、行動原理は“きれいなお姉さんがいる”ことだったんですよね。

──では、子供の頃の思い出で記憶に残ってることは?

なんだろうなぁ…。子供の頃はずっときれいなお姉さんを探していたんですけど…(笑)

──笑。ではご家族との思い出で記憶に残っているエピソードはありますか?

楽しい記憶って、残ってはいるんですがあまり鮮明ではないんですよね。どちらかというと悲しい思いをしたり、ひどいことを言われた時の方が残ってしまう気がします。もちろん毎日楽しかったんですよ。ただ、何か一つの嫌なこと、悲しいことが残ってしまうという。

だからといって、親に完璧でいて欲しいというわけではないんです。でも、子供はそういった経験が意外と心に残っている。ふと言ったことが意外と脳裏にこびりついたりしてしまったり…。でも、基本僕は母親にすごく愛情をもらえていたので、楽しかった記憶しかありません。でも、何が楽しかったかは出てこないんですけど(笑)。

嫌な言葉が残ってしまうことは悲しいことですが、逆にそれはいいことなのかなという気もしています。逆に、毎日が地獄のような日々を送っていたら、少しのことが幸せに感じていたはず。だから僕は幸せだったと、逆説的に言えますね!

──最後に、ご自身にとっての宝物を教えてください。

ベタなこと言ってもいいですか? 自分にとって大切な人達ですね。物に対してはあまり執着がないので。これを宝物と言っていいかは別としても、友人や家族は宝物のような気がします。

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Profile

俳優 寛一郎

1996年8月16日生まれ、東京都出身。2017年に俳優デビュー。同年に公開された映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』で、第27回日本映画批評家大賞<新人男優賞>を受賞。さらに翌年、映画『菊とギロチン』で第92回キネマ旬報ベストテン<新人男優賞>、第33回高崎映画祭<最優秀新進男優賞>、第28回日本映画批評家大賞<助演男優賞>などの映画賞を受賞。2023年には初舞台となる「カスパー」で主演を務めた。近年の主な出演作には、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(22)、『月の満ち欠け』(22)、『せかいのおきく』(23)、『首』(23)、『プロミスト・ランド』 (24) 、『身代わり忠臣蔵』(24)など。 待機作として、映画「ナミビアの砂漠」、TBS SPドラマ「グランメゾン東京」映画「グランメゾン・パリ」配信ドラマ「HEART ATTACK」など。10/3(木) 7:30

https://news.yahoo.co.jp/articles/9a74c5099c20038e9f4e8a294d1ad69613b8e3ae


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北海道の花、ハマナス。熟れた実で手づくりしたジャムはトマトに近い味

2024-10-04 | アイヌ民族関連

カラふる 2024/10/03

北海道札幌市で生まれ石狩市で育ち、東京や中国・天津市でもさまざまなキャリアを積んだ後、2021年の暮れに北海道天塩町へ移住。現在は地域おこし協力隊として活動する三國秀美さんが、日々の暮らしを発信します。今回は、天塩町の花でもあるバラ科のハマナスを紹介。

ハマナスのジャムづくりでスローフード体験

ハマナスの花と実と枝のトゲ。トゲは鋭く、素手では触れない

 7月になると、北海道の花であり天塩町の花でもあるハマナスが、あちこちで咲き乱れます。私は石狩市で育ったのですが、こちらも市の花はハマナス。道の花に選ばれた理由として、北海道のホームページに「純朴、野性的で力強い」とありますが、ハマナスをうまく表した表現であり、人気がある所以ではないかと感じます。

 砂地に咲き、強風にも耐えるハマナスは枝のトゲの印象が強く、私は小さい頃から苦手でした。これまで近寄って花を見たことはなかったのですが、ここでの生活を通じ、色鮮やかに咲くハマナスに秘められたパワーを学ぶことができました。

 今回、ハマナスジャムのレシピを教えてくれたのは郷土料理が得意な地元の女性、伊藤千枝子さん。勇んで種のかき出しをお手伝いしようとすると、早速「待った」がかかりました。

「種をかき出すだけじゃだめ。実と種の間にある毛状の繊維も取らないと、口当たりがよくないの。種の処理をしていると顔や腕に毛がとんでチクチクするのだけど、それは仕方ないわね」。さすが、伊藤さんの豊かな経験値にはいつも驚かされます。

 実が熟れていないと甘味に欠け、熟れすぎると糖で種と実がくっつき、うまく種をかき出せません。ギリギリの赤さと固さで実を見分けます。種を取ったらしっかりと水洗いして、下ゆで。裏ごしして皮の固い部分を取り除き、砂糖と合わせて煮詰めながらジャムの完成を待ちます。

「糖度は30%から50%で。ペクチンとして使ったレモンをそのまま入れ、食べてもいいの」。なるほど、朝の食事がおしゃれになりそうです。

アイヌ民族がハーブティーにして飲んでいたハマナス

 2024年7月、名寄市において「薬用植物フォーラム2024」が開催されました。薬用植物栽培技術の普及と向上を図るため、関係者が交流する場として今年で33回目を迎えたとのこと。コロナ禍のオンライン開催も含め、筑波研究部のあるつくば市で開催されることが多いようですが、今年は名寄市開催となったため道内在住者にとっては出席しやすくなりました。

 私がとくに身を乗り出したのは、北海道文教大学の山岸喬先生による「アイヌの薬用植物とその使い方」という講話、先生の解説による研究センター薬用植物観察会でした。

 先生のお話によると、秋田県立図書館蔵の「胡地養生考」というアイヌの医療記録のなかに、ハマナスの花のハーブティーを朝夕飲み、それが水腫病あるいは壊血病に有効という記述があったとのことでした。当時、長期の航海や冬の野菜不足によるビタミン不足は深刻だったのです。

「もっとハマナスの栽培を増やすべき。脂肪代謝の異常を修復する作用も研究結果で得られた」。山岸先生による熱弁が続きました。

市販品は入手困難なハマナスのジャム

 手づくりジャムをつくると、市販品を味見してみたくなるもの。先日、オホーツク海に面した紋別郡興部(おこっぺ)町の「道の駅おこっぺ」で手に入るという情報を得て行ってみましたが、販売されていませんでした。お店のスタッフによると「1年以上前からもう店頭には並んでいません」とのこと、ハマナスのジャムはかなり手に入りにくいということを知りました。

 足を伸ばした紋別市でも、市販のジャムは見つかりませんでした。ですが、立ち寄った北海道立オホーツク流氷科学センターでちょっとおもしろい標本を見つけました。一年じゅうハマナスが鑑賞できるよう、氷に閉じ込められています。暑い日に見ると、涼しい気分になれそうです。

<取材・文・写真/三國秀美>

【三國秀美(みくにひでみ)さん】
北海道札幌市生まれ。北海道大学卒。ITプランナー、書籍編集者、市場リサーチャーを経てデザイン・ジャーナリスト活動を行うかたわら、東洋医学に出会う。鍼灸等の国家資格を取得後、東京都内にて開業。のちに渡中し天津市内のホテル内SPAに在籍するも、コロナ感染症拡大にともない帰国。心機一転、地域おこし協力隊として夕日の町、北海道天塩町に移住。

https://colorfuru.jp/migration/39932


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Googleロゴ「違星北斗」に

2024-10-04 | アイヌ民族関連

ネタフル 2024.10.03

2024年10月3日のGoogleロゴは「違星北斗」をモチーフにしたものとなっています。「違星北斗(いぼし ほくと)」は、アイヌの歌人・社会運動家です。

2024年10月3日のGoogleロゴは「違星北斗」をモチーフにしたものとなっています。「違星北斗(いぼし ほくと)」は、アイヌの歌人・社会運動家です。

Googleロゴ「違星北斗」に

2024年10月3日のGoogle Doodlesは、北海道の先住民族に対する認識を改善することを目指し、多くの短歌や俳句を書いた アイヌの歌人であり社会活動家である「違星北斗」を称えるものとなっています。

1927年10月3日に「違星北斗」の短歌の一つが、日本の大手新聞である小樽新聞に掲載されたことを記念したロゴとなっています。

Googleの解説によると「違星北斗」は1901年に北海道余市で生まれ、コミュニティの先住民アイヌの子供たちとは異なり、尋常小学校に通いました。厳しい差別や困難に直面したものの、自分の文化に強い誇りを抱いたそうです。

やがてアイヌ青年の修養団体である「茶話笑学会」という独自の文化団体を結成し、勉強会や機関誌「茶話誌」を発行するなど、アイヌの活動に対する意識を高めました。この頃から俳句をつくり始めます。

東京に上京。そして北海道に戻り、俳句ではなく、盛んに短歌を作るようになります。そして1927年10月3日に、初めて「違星北斗」の短歌が小樽新聞に掲載、常連となりました。

1929年1月26日、27歳の若さで結核により「違星北斗」は亡くなりました。現在「違星北斗」は「アイヌ三大詩人」の一人として知られます。

違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を (角川ソフィア文庫)

違星 北斗(著)

北斗帖

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【岡山大学】岡山大学学生が日本代表として「次世代リーダー・グローバル・サミットOne Young World 2024」に参加しました

2024-10-04 | 先住民族関連

国立大学法人岡山大学 2024年10月3日 22時30分

◆概 要

 2024年9月18~21日にカナダ・モントリオールで開催された「次世代リーダー・グローバル・サミットOne Young World(OYW) 2024」に、本学医学部医学科5年の寺島美優さんと、グローバル・ディスカバリー・プログラム3年のLin Thu Kha Htaikさんが日本代表団の一員として参加しました。

 岡山大学は、2015年タイ・バンコクで開催されたサミットから公式パートナーとして参画し、毎年2人の学生代表と、オブザーバーとして横井篤文副学長(グローバル・エンゲージメント担当)を派遣しています。本学からの参加は、15年のタイ・バンコク、16年のカナダ・オタワ、17年の南米コロンビア・ボゴタ、18年のオランダ・ハーグ、19年の英国・ロンドン、21年のドイツ・ミュンヘン、22年の英国・マンチェスター、23年北アイルランド・ベルファストに続いて9大会連続です。また、岡山県教育委員会と岡山大学との協働による「おかやま夢育イニシアチブ」の一環として、岡山県立倉敷南高等学校3年生の小方ひよりさんも岡山県高校生代表としてサミットへ参加しました。
 今年で第14回目となるサミットは、世界196カ国以上から2,000人以上が出席し、9月18日にBell Centre(カナダ・モントリオール)において、モントリオール先住民族の伝統的な歓迎儀式や各国を代表する国旗に彩られ華やかに開会しました。開会式では生物学者でブリティッシュコロンビア大学名誉教授のデヴィット・スズキ氏や、カナダの女性作家であるマーガレット・アトウッド氏らが登壇しました。
 また、全体セッション初日の最初の基調講演に、国連史上最年少で上級職に任命された国連ユースオフィスの初代ユース担当事務次長補、フェリペ・ポーリエ氏が登壇。フェリペ氏を最初の登壇者としたのは、国連総会会期中の「未来サミット(The Summit of the Future)」で若者が柱の一つに据えられていることに対するOYWの力強いメッセージでもありました。
 ポーリエ・ユース担当事務次長補は、2023年に初めて国連ユースオフィスが設立され、若者が意思決定プロセスに参画する時代が本格的に始まったことを強調しました。また、若者が意思決定の場で発言することの重要性や、OYWに参加している2,000人の若者の問題意識や行動が未来を良い方向に変えていくことができると力強いエールを送りました。
 寺島美優さんとLin Thu Kha Htaikさんは、全体セッションやワークショップ、ネットワーキング(交流会)などに参加し、国連の持続可能な開発目標(SDGs)を枠組みとしながら、国家や政治思想等の枠組みを超えて、AI(人工知能)、健康の平等、先住民族の声、平和、気候と生態系の危機などについて各国の代表者らと活発なディスカッションを行いました。
 2025年度のOYWサミットは、ドイツのミュンヘンで11月3~6日に開催される予定です。引き続き、地域中核・特色ある研究大学:岡山大学の取組にご期待ください。

○次世代リーダー・グローバル・サミット One Young World(OYW)
 2009年の世界経済フォーラム、通称「ダボス会議」(World Economic Forum、本部:スイス・ジュネーブ)において宣言され、2010年イギリス・首都ロンドン市で開催されてから、年に1度、世界190カ国以上から各国を代表する次世代の若いリーダーたち(18~32歳)が一堂に会する世界最大級のサミットです。世界が直面する地球規模の課題に対し、世界的指導者達の下、次世代リーダーたちが連携して問題を解決するための全世界合同産官学連携の次世代リーダー育成プロジェクトとして、その規模とネットワークを急速に拡大し続けています。本学は、2015年タイ・バンコク市で開催されたサミットから公式パートナーとして参画し、毎年2人の学生代表を派遣しています。

 https://www.oneyoungworld.com/

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002547.000072793.html


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消えた英国人探検家、アマゾンの「失われた都市Z」を求めて

2024-10-04 | 先住民族関連

1925年に消息を絶ったパーシー・フォーセット、インディ・ジョーンズのモデルとも

ナショナルジオグラフィック2024.10.03

古代都市は確かにあった

 フォーセットは手稿512に着想を得たが、そこに記述されていた都市そのものを探そうとしたわけではない。この文書にある都市はブラジル北東部にあると思われた。他の複数の情報源(彼はそれを明らかにしなかったが)も調べたフォーセットは、ブラジル中西部マットグロッソ州の原野に失われた文明があったと考えるようになり、その都市をZと呼んだ。

 1925年4月、フォーセットは長男ジャックとその親友のローリー・リメルを伴い、クイアバを出発してZを目指す探検を始めた。フォーセットが妻に書き送った手紙が一行からの最後の連絡となった。「私たちは来年まで文明世界から姿を消すよ。想像してみてくれ……私たちがこれまで文明人が足を踏み入れたことがない森にいるのを」

 そして彼らは本当に姿を消してしまった。動物あるいは誰かに殺されたのだろうか?

 彼らの身に起きたことを明らかにしようと幾つかの探検が行われた。ジェームズ・ボンドの生みの親、英小説家のイアン・フレミングの兄であるピーター・フレミングもそのような探検を行った一人だ。しかし、その試みの多くは悲劇的な結果に終わり、フォーセットの運命が明らかになることはなかった。

 1952年に人類学者のオルランド・ビラスボアスが、「フォーセットの遺骨を発見し、先住民族カラパロ族がフォーセットを殺害したことを認めた」と発表したが、後の検視でこの遺骨はフォーセットのものではないことが分かった。

 フォーセットの物語は、長らく文化に影響を与え続けた。彼は、映画のキャラクター、インディ・ジョーンズのアイデアの元になった人物の一人だ。また、米国のジャーナリストで作家のデイビッド・グランは、フォーセットの物語を題材にノンフィクション『ロスト・シティZ 探検史上、最大の謎を追え』を書き、この作品はその後、2016年に『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』と題して映画化された。

 その著作の中でグランは、自分たちはフォーセットを殺していないと主張するカラパロ族の証言を引用している。それは、「フォーセットのキャンプから数日間にわたって煙が上がったのを目撃した、おそらく東の地域にいる“敵対的”な人たちに殺されたのではないか」というものだ。

 フォーセットの最後の日々の謎が完全に明かされることはないかもしれないが、失われた都市を求める彼の探求は終わりを迎えたのかもしれない。彼が消息を絶ってからの数十年間に行われたマットグロッソ州北東部の探索により、大規模な都市居住地遺跡が発見された。この遺跡は現在シングー先住民公園の中にあり、クイクグと呼ばれている。(参考記事:「かつてのアマゾンに大量の集落、従来説覆す」

 そこには大通り、橋、大広場の跡があり、ライダー(レーザー光を使ったレーダー)による探査で、アマゾンのこの地域には1500~400年前に大規模な居住地があったことが示唆されている。Zの正体とその正確な位置は依然として謎に包まれているが、この地に古代都市が隠されているというフォーセットの直感は正しかったようだ。(参考記事:「本当のアマゾンを探求する」

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/24/093000528/?P=3&ST=m_m_news


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パレスチナ人活動家に「もう一つのノーベル賞」=非暴力で占領に抵抗

2024-10-04 | 先住民族関連

時事通信 2024.10.03

パレスチナの人権活動家イッサ・アムロ氏=2021年6月、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ヘブロン(AFP時事)

 【ロンドン時事】「もう一つのノーベル賞」と呼ばれ、環境保護や人権などの分野で顕著な貢献があった人や団体に贈られる「ライト・ライブリフッド(正しい暮らし)賞」の今年の受賞者が3日発表され、パレスチナの人権活動家イッサ・アムロ氏(44)らへの授与が決まった。アムロ氏は「イスラエルの違法な占領に対する非暴力の抵抗運動」を通じ、平和と正義の実現に努めていることが評価された。

 同賞は1980年創設。年1回授与され、過去にはスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんや、2022年にノーベル平和賞を共同受賞したウクライナの人権団体「市民自由センター(CCL)」にも贈られた。

 アムロ氏はイスラエルの占領下にあるヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ヘブロン生まれ。占領に反対する若者中心の草の根グループを立ち上げ、パレスチナ人の自由を訴える非暴力運動を推進。イスラエル軍やユダヤ人入植者からの暴力にさらされる住民たちの日常を記録したり、デモを組織したりして平和的手段で抵抗を続けている。

 アムロ氏のほか、フィリピン先住民族活動家ら2人と1団体も選ばれた。授賞式は12月にストックホルムで行われる。 

https://www.msn.com/ja-jp/news/world/パレスチナ人活動家に-もう一つのノーベル賞-非暴力で占領に抵抗/ar-AA1rDs38


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アマゾン川がカラカラに…ブラジルで2年連続干ばつとなり74万人が食糧不足 水位90%低下で先住民に給水支援も

2024-10-04 | 先住民族関連

FNN 10/3(木) 17:57

日本から地球の反対側でも異常気象に見舞われていました。

照り付ける太陽のもと、手に荷物を持ち、歩く人たち。

広大な砂漠の上を歩いているように見えますが、ここは南米を流れる流域面積が世界最大のアマゾン川の川の底です。

今、観測史上で最悪といわれる干ばつ被害が広がっているブラジル。

両手いっぱいに荷物を持って、干上がった場所を歩いていた女性は「川を渡らなければならないので、とても大変です。荷物を運ぶのに30分もかかります」と話します。

ブラジルでは、2年連続で干ばつが発生。

国土の60%近くが影響を受けており、一部の都市では、140日以上連続して雨が降らない状況が続いているといいます。

男性は「川は私たちの道路で、水がなければ船を出せないので、私たちはここで孤立しつつあります」と話しました。

またブラジルでは、森林火災や山火事も相次いでいて、アマゾン川流域に住む74万人以上が食料不足などに陥っているとみられています。

わずかに残った水の上をボートに乗り、こぎながら進むのは地元の漁師は、漁に出られない現状を「あと少し干上がったら漁師をやめざるを得ないだろう。私たちは漁に出ないと生活ができません」と嘆きます。

同じく南米コロンビアを流れるアマゾン川の水位も下がり、最大で80%低下しているといいます。

コロンビアの国家災害リスク管理局は1日、干ばつに対する緊急対応策を発表。

給水が途絶えた集落への水を確保するため、モーターポンプ・ホースなどを提供し、地下水の発掘調査を行う予定だとしています。

https://news.yahoo.co.jp/articles/d74edd4d112f3e22ca704811311fa5070f3cc65e


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日系企業のマレーシアでの成功をサポート

2024-10-04 | 先住民族関連

ASIA INFONET.COM2024年10月3日

【クアラルンプール】 日本ペイント・マレーシアは1日、技術職業教育訓練(TVET)での協力に向けた覚書(MoU)を先住民信託評議会(MARA)と締結した。

両者は覚書に基づき、日本ペイントの専門家の支援を受けて、MARAの学生240人と講師37人を対象にさまざまなトレーニングプログラムを実施する。自動車塗装業界に関連する技術が主な研修項目で、選ばれたMARAトレーニングセンター24カ所が日本ペイント認定トレーニングセンターとなり、業界の高い基準を満たす教育が行われることが保証される。

自動車セクターはマレーシア経済の要の産業であり、2023年の生産台数は過去最高の79万9,731台に達した。高度なスキルを持つTVET労働力と高品質の自動車部品はマレーシアの自動車産業に不可欠となっている。

日本ペイント・マレーシアのゼネラルマネジャー、タイ・ツェトゥック氏は、「覚書締結は、マレーシアの労働力と自動車業界の将来に投資を続ける日本ペイントにとって重要な節目となる。競争の激しい自動車補修分野において、日本ペイントの自動車補修部門は常に先頭を走り、マレーシアで新たな業界基準を確立している」と述べた。
(ビジネス・トゥデー、10月1日)

https://www.asiainfonet.com/2024/10/03/04-1037/


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福岡・飯塚市の幼稚園で「ハカ」披露 NZの高校生が先住民マオリの暮らし表現

2024-10-04 | 先住民族関連

西日本新聞 2024/10/3 6:00 [有料会員限定記事]

 学校法人嶋田学園愛宕幼稚園(福岡県飯塚市鯰田)で1日、市内を訪問中のニュージーランドの高校生が先住民マオリの伝統舞踊「ハカ」...

動画あり

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https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1265450/


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革命直後のメキシコ、画家・北川民次は何を見たのか?「民衆を描き、民衆と生きる」姿勢を貫いた画家の生涯を追う 

2024-10-04 | 先住民族関連

世田谷美術館「生誕130年記念 北川民次展―メキシコから日本へ」開幕

2024年10月03日 11時05分日本ビジネスプレス

(ライター、構成作家:川岸 徹)

メキシコで新進画家・美術教育者として名を馳せ、帰国後も精力的に作品を発表し続けた画家・北川民次。油彩、水彩、素描、版画、資料など、約180点により北川民次の表現を多角的に見つめる回顧展「生誕130年記念 北川民次展―メキシコから日本へ」が世田谷美術館にて開幕した。

画家を目指してアメリカへ

 19世紀後半から20世紀にかけての日本。黒田清輝、藤島武二、佐伯祐三ら、日本人洋画家たちが新たな時代の絵画を模索しフランスへと渡るなか、画家を志していた北川民次は早稲田大学を中退しアメリカへと向かった。特に明確な理由があったわけでも、ひねくれ者だったわけでもない。ただ、アメリカのオレゴン州ポートランドにいる兄を頼ってのことだった。

 ポートランドのレストランで働きながら、語学学校に通って英語を習得。1年余りで兄の元を去り、シカゴを経て、ニューヨークへ。1918年にアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学し、アメリカの都市の人々を描いたアシュカン派の画家ジョン・スローンに師事。北川はスローンを選んだ理由を「社会主義者だったから」と答えている。

 スローンとの出会いは、北川の方向性を決めた。「絵画に重要なのは単に見たままを描くのではなく、対象の本質をリアリスティックに捉える姿勢」。そんなスローンの教えに共感した北川は、民衆の実相を描き、社会の暗部や矛盾をあぶり出すことに情熱を注いでいく。

リアルなメキシコを描く

 1921年、27歳になった北川はアメリカを離れ、キューバを経てメキシコへ渡る。北川は南へ向かった理由を「もっと充実したライフと暖かさとを求めて」と説明しているが、それが本心だったのかはわからない。先住民、征服者スペイン人の子孫の白人、混血の人々が混在し、急速な近代化の中でより混沌とするメキシコ社会に強い興味を持った、というのが実際のところではないかと思う。

 北川は訪れたメキシコで、現地の人々と積極的に交流し、彼らのありのままの姿を描いた。メキシコ先住民の祭りを題材にした《踊る人たち》(1929年)、川で水浴びする女性たちを描いた《メキシコ水浴の図》(1930年)、《トラルパム霊園のお祭り》(1930年)はメキシコ時代の代表作。ひとつの画面の中に赤子を抱えた女性、水浴する裸婦、棺桶を運ぶ葬列が描き込まれており、死は生の中に内在するものだと強く認識させられる。

《アメリカ婦人とメキシコ女》(1935年。1958年補筆)は2人の女性をモデルにした人物画。1人は洗練されたワンピース、スカーフ、ネックレス、ハイヒールを身につけた富裕層のアメリカ女性で、もう1人は裸足で質素な衣服をまとったメイドとして働くメキシコ先住民の女性。人種間の貧富の差が、誰の目にもわかるよう、克明に示されている。さらに背景にはスペイン統治時代に建てられたサンタ・プリスカ教会の建物。貧富の差がスペインによる植民地統治によってもたらされたものだと、はっきりと気づかされる。

続きはJBpressで

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「十勝川アシリチェプノミ」6日開催 アイヌの儀式や舞踊

2024-10-04 | アイヌ民族関連

十勝毎日新聞2024/10/03 12:18

 【池田】「第7回十勝川アシリチェプノミ」が6日午前10時から、池田町の十勝川千代田堰堤公園で開かれる。
 「アシリチェプノミ」はアイヌ民族に伝わるサケを迎える儀式。「十勝川-」は実...

●この記事は会員限定です。

https://kachimai.jp/article/index.php?no=618000


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