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ハカの中のハカを舞う ~JAPAN XV 対マオリ・オールブラックス第2戦を前に~

2024-07-04 | 先住民族関連

JSPORTS7/1(月) 16:50

エスニシティー。祖先、血縁、生活の様式や習慣、もちろん言語、あるいは信仰などにおける「わたしたちは同じ集団だ」という意識のことである。

いきなり学校の講義みたいで恐縮だが、いまマオリ・オールブラックスが来日しているので許してほしい。あの破壊的で清冽でもあるハカの中のハカ、ティマタンガを舞う黒いジャージィの「集団」は世にまれな「エスニシティーにもとづくスポーツの代表チーム」なのである。

ニュージーランドの先住民族であるマオリの系図をたどり認められた者が選考の対象となる。ちなみに今回のセレクターには、ジャパンの前HC(ヘッドコーチ)のジェイミー・ジョセフの名もあった。

JAPAN XVとの初戦は、スクラムをうまく組めず(桜の3番、為房慶次朗の大奮闘!)、反則を重ねながら、要所を締めて、36ー10の勝利を収めた。

自陣深くの守りで粘り、JAPAN XVがそこで勝負をかけたいモールを自由にさせず、敵陣の奥まで侵入するとスコアをものにして帰る。ここというところのスピードが格別だった。トライを狙うや、いきなりボールを速く動かす。それはパスだけでなく密集内や周辺でも同じだ。人間がひしめいていても、拾う、手渡す、いきなりのドライブ、楕円球はそこにじっとしない。

「JAPAN」は対イングランドから引き続き、速攻を仕掛けて防御を崩すもゴールラインをなかなか越えられなかった。「超速」を掲げる総攻撃に傾注する分、惜しくも得点できず一転、守勢に立つとすでに力は削られている。

赤白ならぬグレーとホワイトの収穫は「まだアマチュア」(エディー・ジョーンズHC)の15番、矢崎由高である。早稲田大学2年。再三のラン、なにより何度も球をさわる積極性で劣勢に未来を示した。

初キャップのイングランド戦では図太い走りを披露しながら、つなぎ切れなかったり、球を失うシーンもあった。昨年のワールドカップの4強が相手なのだから当然だ。よくやったけれど、なにもかもうまく運んだわけではなく、失敗にも学んだ。

1週間後。あえて次の言葉を用いるなら「ただちに挽回の機会」を与えられた。若者の成長に欠かせぬ働きかけである。ここは64歳のHCの経験ゆえの鋭さだ。あいだをあけずに、すぐまた先発させる。それが当たった。

今週末6日の第2戦では両陣営、ことにジャパンの学習能力が問われる。魂のマオリ・オールブラックスの魂のキャプテン、現地報道で日本のクラブへの入団も報じられる、背番号7のビリー・ハーモンは苦しんだスクラムについて母国のメディアに本音を述べている。

「彼ら(JAPAN XV)は我々よりも低かった、結果、考えていたようにはスクラムを武器にできずペナルティーを奪うこともできなかった。次の試合に向けた練習の課題となる」(RNZ)

日本代表のエディー・ジョーンズHCは敗戦後の記者会見で話した。

「集団のスピードを上げつつ選択肢を持つことが大切」

イメージを極端に遂行することは強化の過程に必要である。だが「胸に桜をつけている以上、勝たなくてはならない」(同)。土曜夜の豊田スタジアムでは均衡の微調整があるのかもしれない。 

マオリのラグビーに戻る。現代社会において、いまだ「エスニシティ―の代表」が認められ、いっそう尊重されている。ニュージーランドのラグビー史における先住民族の存在の重さが根底にはある。

1888年6月。「ニュージーランド・ネイティブ」代表がオーストラリア、英国、アイルランドへの長い長い旅に出た。ネイティブ、すなわちマオリの21人にパケハ(白人)4人が加わった。実に14カ月で107試合。78勝6分23敗。対代表では、アイルランドに勝ち、ウェールズとイングランドに惜敗した。これが南半球の主要チームによる最初の北半球へのツアーである。

4名の白人についてはニュージーランドに生まれたのだから「ネイティブ」の定義に収まるとされた。ただし手元の『THE ENCYCLOPEDIA OF NEW ZEALAND RUGBY』には「我々の調査では4人のうちのふたりはイングランド生まれで幼少期に移住」とていねいに記されており、これは御愛嬌。

正式に「ニュージーランド・マオリ代表」が結成されるのは1910年、以後、おもに来征の各国と観客をわかせるゲームを繰り広げてきた。1965年にフランスを5ー3で破る。81年には南アフリカ代表スプリングボクスと12ー12の引き分け。2005年にはブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズを19ー13で退けた。その有名なゲームには今回の日本遠征のHC、ロス・フィリポが背番号4で出場している。過去、アイルランド、スコットランド、イングランドからも白星を奪った。

他方、負のヒストリーも存在する。南アフリカの政府・協会筋より「ツアーにくるオールブラックスから有色人種を外してほしい」と水面下で求められて、1928、48、60年の同国への遠征に「オールホワイトのオールブラックス」で臨んだ。表向きは「安全」を理由に挙げた。2010年になってニュージーランド協会は「除外したマオリの選手」へ正式に謝罪した。

最後にかの有名なジャージィとマオリの関係について。1893年4月27日、ニュージーランド代表のオーストラリア遠征を前に、協会創立後初の会議が催され、主将に任命されたトム・エリソン、正しくはトーマス・ランギワヒア・エリソンが「黒のジャージィ、胸に銀のシダ」のユニフォームの採用を提案した。スポーツ界のもっとも成功した愛称のひとつ「オールブラックス」はかくして生まれる。

優れたFWであったトム・エリソンは1888年のネイティブの大ツアーにも加わっていた。先住民族としてニュージーランドで最初に弁護士資格を得た人物とされる。1902年には当時の画期的な技術書『The Art Of Rugby Football』を世に出した。かつてリコーブラックラムズに所属したタマティ・エリソンは子孫にあたる。

以下、本コラム筆者の余談。確か35年前、ニュージーランド北島のロトルアのラグビー用品ショップで「マオリ・オールブラックス(当時の呼称はニュージーランド・マオリ)」のジャージィを購入した。すると、きっとマオリなのだろう年配のレジ係の男性が泣いた。「観光客はみなオールブラックスを買うのに、あなたは」と言った気もするし、無言だったかもしれない。ともかく本当に涙を流した。長くスポーツを書いたり話したりしてきて、なのに白熱の決勝より、あの午後の店内に差し込む柔かな光をよく思い出す。 

1976年、南アフリカの黒人の観客に歓迎されるマオリの英雄、シド・ゴーイング。『THE ENCYCLOPEDIA OF WORLD RUGBY』より。

藤島 大

https://news.yahoo.co.jp/articles/b8f702b926b40d517fc7f2887cdf326c2a667dfb

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