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【アイヌと神々の物語】最初の人間パナンペと、クマの意外な関係 アイヌと神々の物語、アイヌと神々の謡

2020-11-07 | アイヌ民族関連
山と渓谷社 2020年11月06日
アイヌ語研究の第一人者、故・萱野茂氏が、祖母や村のフチから聞き集めたアイヌと神々の38の話を収録した名著『アイヌと神々の物語』。発刊後、増刷が相次ぎ同ジャンルとしては異例の話題書となっています。北海道の白老町に「ウポポイ(民族共生象徴空間)」もオープンし、アイヌについて関心が高まる今、本書からおすすめの話をご紹介していきます。第6回は、人間誕生にまつわる人間とクマの話です。
パナンペとペナンペ
私たちは、パナンペ(川下の者)、ペナンペ(川上の者)という二人の男で、住んでいる所は川の下流と上流と別々ですが、助け合いながら仲よく暮らしていました。
それぞれがシカを捕りクマを捕ってはその肉を食べ、何不自由なく暮らしていました。ある日のこと、川下の者である私、パナンペは一人でクマ狩りに山へ入りました。
少し歩いていくと、どこからか大きなクマが一頭飛び出てきて私を追いかけてきました。とっさのことであったので、弓を構える暇(ひま)もなく、私は身を翻(ひるがえ)して逃げました。逃げても逃げても大グマは私を追いかけるのをやめずに、大グマと私の間の距離はずんずんと縮まるばかりです。
このままでは食い殺されると思った私は、海の方へ逃げていき、着ていた着物を脱ぎながら走り、褌(ふんどし)まで解(と)き、投げすてて素っ裸になって海へ飛びこみました。
沖を目ざして泳ぐ私の後ろから、あの大グマも海に飛びこみ追ってきます。追いつかれたら食い殺される、と必死に泳ぐ私を見た大グマは、追いかけるのをあきらめて岸辺へ戻っていきました。私も戻ろうかと思いましたが、岸辺へ戻ったら、大グマが待っているし、どちらにしても死ぬのならばと考えて、ずうっと沖の方へ泳いでいきました。
すると、前の方に岩山が見えたので、その岩山へ向かって泳ぎ、やっとの思いで高い岩山のふもとへ泳ぎ着きました。少しばかりの砂浜へ上がり、体を丸めて寝てみましたが寒くて寒くて眠れず、ただ震えながら辺りを見ていました。
しばらくすると、岩山の上から神だか人間だかわからないような美しい娘が下りてきました。その娘はよく見ると黒い着物を何枚も重ね着しています。手には何枚かの着物を持ち、体を丸めて寝ている私のそばへ来ました。娘は私の体の上へ着物を投げながら、
「この着物を着て私と一緒に来るように、と父がいいました」と言うのです。
私は大急ぎでその着物を着て、娘のあとについて歩きました。娘はすたすたと岩山の斜面を登り、岩山の上へ着いてみると、金造りの立派な家が建っています。娘は、「さあ一緒にお入りください」と言いながら家へ入っていったので、私も娘のあとへくっついて家の中へ入りました。
家の中には神らしい老夫婦が座っており、私を迎えてくれましたが、あまり歓迎した迎え方ではありません。私が丁寧にオンカミ(礼拝)をし終わると、老人が怒った顔で私にいった言葉は、次のようなことです。
「お前たちパナンペとペナンペ、それにクマは、実は義兄弟なのだ。というのは、大昔にモシリカラカムイ(国造りの神)がアイヌの国土を造りに天国から降りてきてこの国を造った。国造りの神が、国造りの仕事をしながら煙草を吸ったが、その吸い殻の白い部分がお前たちパナンペとペナンペという人間になった。そして、黒い部分がクマになったのだ。
それなのに、川上の者はクマを捕ってその肉を食っても、骨や頭もそのまま散らかし、神として祭ろうとしなかった。そのことに腹を立てたクマが、お前たち二人をかみ殺し、骨ごと食ってやろうとして、最初にお前を追いかけた。
幸いにも足の速いお前は、クマに追いつかれずに海へ飛びこんだのが見えたので、黒ギツネの神である私の力で、お前をここまで呼んだのだ。よくよく見ると、クマを神として祭らなかったのはお前ではなく、ペナンペという川上の者であることがわかった。
そこで、これからお前は家へ帰り、川上の者の所へ行き、神である私から聞いた話を全部いい聞かせて、これからはクマを神として祭るように教えなさい。そうしないと、二人ともクマに殺されてしまうであろう」と、老人の黒ギツネの神が私に聞かせてくれました。
それを聞いた私は大急ぎで家へ帰り、さっそく川上の者、ペナンペの所へ行き、ペナンペをうんとしかりつけ、「お前がクマを神として祭らないばっかりに、私は危なく殺されてしまうところだった。これからは、クマを神として祭るようにしなさい」と教えるとともに、クマ神へもたくさんのイナウ(木を削って作った御幣〔ごへい〕)を贈らせて、おわびをさせました。
それからあとは、ペナンペもクマを捕った時は、大事に神として祭るようになり、私も前にも増してクマを大事な神として祭り、何不自由なく暮らせるようになりました。というわけで、クマと人間は、大昔に国造りの神の煙草の吸い殻から生まれた義兄弟なので、仲よくするものだ、とパナンペが語りました。
語り手 平取町荷負本村 木村まっとうたん
(昭和39年5月22日採録)
解 説
アイヌのウウェペケレ(昔話)の中でも、この話のようにパナンペとペナンペ、川下に住む者、川上に住む者という話がたくさんあります。
そのうちでも、この話の主人公たちは、アイヌの子どもたちにとっては身近な存在でした。
二人のうち、ペナンペ(川上の者)はいつの場合も悪役で、パナンペ(川下の者)のまねをしては失敗をして、川下の者に迷惑をかけたり、死んでしまったりします。
しかし、そのような善玉悪玉が出てくることによって、話を聞く子どもたちは、してよいことと、悪いことの判断材料にしたものです。
ですから、子どもたちがフチ(おばあさん)に、「昔話を聞かせて」とせがむと、「パナンペアン ペナンペアン……(川下の者がいて、川上の者がいて……)」と話しはじめるので、子どもたちがいちばん先に覚えるのがこれらの話でした。
この話では、人間誕生の話と、人間とクマは国造りの神の煙草の吸い殻から生まれたものだから、クマを神として祭れと教えています。昔話の中の人間誕生の話は、この吸い殻から生まれる話以外、あまり聞いていません。
川上、川下の考え方はアイヌの場合逆で、川というものは山の上から下りてくるものではなしに、海から山へ上がっていくものと思っていたようです。それは、日ごろ食料とするサケ(アキアジ)・マス・アカハラ・シシャモ、その他の魚は全部川と一緒に海から山へ向かって くるものと考えていたのでしょう。
(本記事は『アイヌと神々の物語~炉端で聞いたウウェペケレ~』からの抜粋です)
『アイヌと神々の物語~炉端で聞いたウウェペケレ~』
アイヌ語研究の第一人者である著者が、祖母や村のフチから聞き集めたアイヌと神々の38の物語を読みやすく情感豊かな文章で収録。主人公が受ける苦難や試練、幸福なエンディングなど、ドラマチックな物語を選りすぐった名著、初の文庫化。​
著者:萱野 茂
発売日:2020年3月16日
価格:本体価格1100円(税別)
仕様:文庫544ページ
ISBNコード:978-4635048781
詳細URL:http://www.yamakei.co.jp/products/2820490450.html
https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=1242

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“差別”や“偏見”ではないアイヌ映画【芳川隆一】

2020-11-07 | アイヌ民族関連
NHK 2020年11月6日(金)

今月(11月)14日(土)から道内で上映が始まる映画「アイヌモシㇼ」。
主人公は道東の阿寒湖畔に暮らす14歳の少年。周囲の大人たちと交流しながら次第に父親の死や自分のルーツを受け入れて成長していく様子を描いています。少年を含め、出演しているのは阿寒湖畔に暮らしている住民のひとたちです。実在する町を舞台に、そこに実在するアイヌの人たちが出演して撮影された映画なのです。まるでドキュメンタリーかと思うほどリアルな内容は、今のアイヌの人たちの生活風景や様々な思いを届けてくれます。
作品を手掛けたのは北海道伊達市出身の福永壮志(ふくなが・たけし)監督です。
どうして現代を生きるアイヌをテーマに選んだのか、
作品に込めた思いをうかがいました。
(芳川)
どうして今回の作品を撮影しようと思ったのでしょうか?
(福永監督)
私は高校を卒業するまで伊達市に住んでいました。北海道で生まれ育ちましたがアイヌの事をちゃんと知る機会はなく、アイヌを意識した事もそこまでありませんでした。
それが変わったのは、高校卒業後、留学先に選んだアメリカでの経験です。アメリカには様々な人種の人たちがそれぞれの声を上げ、周りもそれに耳を傾けるという環境がありました。そこで私は先住民のネイティブ・アメリカンについても知り、その時に初めて、自分が生まれ育った北海道に先住民族のアイヌという存在がいたのに、何も知らないでここまで来てしまったとハッとしたのです。そこで、まずはちゃんとアイヌについて知りたいと思ったのが最初のきっかけでした。それからしばらくして、いつかアイヌを題材にした映画を撮りたいと思うようになりました。
(芳川)
実際に作品を形にするにあたって、大切にした事は何ですか?
(福永監督)
繊細な題材なので、どう撮るかという視線=アプローチがすごく大事だと思いました。思い至ったのは、やはりアイヌ役はアイヌの方にお願いするのが意味があるのではないかという事です。役者ではない方々にお願いする中で、自然な姿でカメラの前で演技をしてもらい、それを作品として成り立たせるというのがすごく大事だと思いました。自然といっても当然、スタッフがいてカメラがあって何テイクもやっての自然なので、映画の中での“自然”であって、それは皆さんの演技です。人間味溢れるみなさんの魅力が画面の中に出ているんじゃないかと思います。逆にそれができなければ作品としてこのアプローチは成立しませんから、阿寒のみなさんと作ったからこそできたと思っています。
(芳川)
映画では、主人公の14歳の少年カントが様々な体験を通して次第に成長していく様子が描かれています。私は正直、見ている途中にこれが“アイヌをテーマにした作品である”という事を忘れる瞬間がたくさんありました。
(福永監督)
どうやったら文化とか言葉とか国籍を超えて伝わる作品になるかと言ったら、やっぱり人間としての普遍性でしかないと思っているんですよね。アイヌという題材があってそれが大きなテーマの1つではありますけど、最終的には人間として共感できる話を作る事をすごく意識しました。結局この作品は人間の話だし少年の成長の話なんです。そういう風に作品として共感をもって見られれば身近に感じられるし、感情移入をして物語を体験する事ができると思います。そういった体験は、見る人の心に何かを残すと思っています。
(芳川)
この映画を通して、世の中にどんな影響が広がっていく事を願っていますか?
(福永監督)
ウポポイも開業して、これだけアイヌというワードが公の場で見られるようになっても、実際の意識、理解はまだまだ低くて、アイヌと聞いて何も知らない人もまだたくさんいます。興味があっても、先入観だったり間違った認識を持っている方もたくさんいる中で、この映画を通してそういう偏見や先入観を少しでも取り除く事ができたらすごく嬉しいし、本当に作った甲斐があったと思えますね。
とはいえ、もちろんこれはアイヌの全てではありません。今を生きる、阿寒に生きる皆さんの姿を映画にした1つの形ですが、この映画を通して、もっとアイヌに対する興味関心やさらなる理解につながれば良いなと思います。何かアイヌについてのニュースや記事があった時に、どこか他人事のように捉えている方がたくさんいると思うんですけど、それはもうアイヌだけの問題じゃなくて和人の問題でもあるし、日本全部の問題でもあるし、強いて言えば世界の問題でもあるんです。ですから自分の事だと思ってもっと身近に捉えてもらえたら良いなと思います。ただ、映画を見て面白いと思ってもらえないとそこにも届かないので、まずは気軽に映画を楽しんでほしいです。阿寒の自然や、そこに住んでいる皆さんの魅力が詰まった映画ではないかなと思うので、それを見て欲しいですね。
アイヌをテーマにした作品と聞くと、とかく私たちは“差別”や“偏見”といったワードを入り口に構えようとしがちです。ところが、映画「アイヌモシㇼ」で描かれているのは、日本中どこにでもあるような1人の少年の成長物語。アイヌは大きなテーマではあるものの決してすべてではなく、だからこそ多くの人が共感できる“普遍性”のある作品だと感じました。もちろん、アイヌの人たちが何を大切にして暮らしているのかも知る事ができます。
映画「アイヌモシㇼ」は、今月(11月)14日から札幌市で上映され、その後、旭川や函館など道内各地でも上映が予定されています。
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/caster/r_yoshikawa/slug-n75ef1471f841

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設計図、住宅模型…200点 網走で建築家・田上義也の特別展

2020-11-07 | アイヌ民族関連
北海道新聞 11/06 18:16
 【網走】北海道を代表する建築家の田上(たのうえ)義也(1899~1991年、栃木県出身)を紹介する特別展が、市立郷土博物館(桂町1)特別展示室で開かれている。建築の設計図や完成予想図、住宅模型など200点以上の展示が訪れる人の目を引いている。
 田上は1936年(昭和11年)建設の郷土博物館(当時は北見郷土館)の設計者。特別展は、北海道の気候風土に根ざした建築を多く道内に残した功績のほか、音楽家として活動していた一面も紹介。
 アイヌ民族への医療や教育に尽くした英国人宣教師ジョン・バチェラーとの偶然の出会いが人生を決定づけたことなど、数奇な足跡も解説している。
 特別展は12月6日まで。午前9時~午後4時、月曜休館(23日は開館)。15日午前10時からは無料の展示説明会が開かれ、事前申し込みが必要。入館料は大人120円、小中学生60円。申し込み、問い合わせは博物館(電)0152・43・3090へ。(尹順平)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/478904

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アーダーンNZ首相、2期目スタート 「チームで課題乗り越える」

2020-11-07 | 先住民族関連
朝日新聞 2020年11月6日
[シドニー 6日 ロイター] - ニュージーランド(NZ)のアーダーン首相と閣僚は6日、就任宣誓を行い2期目をスタートさせた。
 副首相を務めるロバートソン財務相は同性愛者で、同性愛者であることを公言した政治家が副首相に就任するのは同国で初めて。また5人の先住民のマオリ族が入閣した。20人の閣僚のうち女性は8人。
 選挙管理委員会が公表した10月17日の総選挙の最終結果によると、アーダーン氏が率いる労働党は120議席中65議席を獲得した。
 野党国民党は33議席、先住民を代表するマオリ党は2議席を得た。
 アーダーン氏はウェリントンで「われわれには一緒に乗り越えなければならない大きな課題があるが、それを成し遂げるチームがある」と語った。
 総選挙と同時に行われた国民投票の最終結果は、嗜好用大麻の使用を認める法案への反対が50.7%と賛成をわずかに上回った。一方、安楽死の合法化は3分の2近くが賛成した。
http://www.asahi.com/international/reuters/CRWKBN27M0KA.html

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文学の近未来描いた桐野夏生氏「正しさの押しつけが怖い」

2020-11-07 | 先住民族関連
ニュースポストセブン 2020/11/07 07:05
 それは「表現の自由」の近未来を描いた小説のはずだった。しかし、連載開始から4年を経て、このたび刊行された桐野夏生さんの『日没』は、日本のいま、2020年の現実を鋭く抉り出す。そして私たちに問いかける。「これが虚構だと言い切れますか?」と。
「何が起きたか知りたい」と思うことがタブーになっていく
 作家がつくりあげた虚構の世界が、現実社会で起きていることと響き合い、共振して、戦慄する。描かれるのは作家の「療養所」だ。作家マッツ夢井のもとに、一通の召喚状が届く。差出人は総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会、通称ブンリン。性表現や暴力表現を規制する映倫の文学版のような組織が、いつの間にかできていたのだ。
 折しも、何人かの作家が突然、自殺していた。理由もわからないまま講習を受けることになったマッツは、不安を抱えて指定された駅に赴く。車で連れて行かれたのは断崖絶壁に建てられた療養所で、更生のために作家たちが収容されていた。
「雑誌に連載を始めたのは2016年です。2011年に東日本大震災が起きて、そのあと私は『バラカ』という震災後の小説を書き始めたんですが、周囲の反応が『よく書くね』みたいな感じだったんですね。
作家の中にも、『私は政治的なことにはあまりかかわりたくない』って人もいて。原発事故が起きたのは事実ですし、私はそれを書くことが政治的だとも思わなかった。もといた場所に住めなくなった人もいて、それなのに何が起きたのか知りたい、と思うことがタブーになっていくのを奇妙に感じました。そのときに、タブーを描く作家が閉じ込められてひどい目に遭う小説を書いてみよう、と思い浮かんだんです」
 療養所では灰色の制服に着替えさせられ、マッツは筆名でも本名でもなく「B98番」と呼ばれる。3度の食事は粗末で、いつも腹をすかせ、収容者の誰かがことを起こせば連帯責任で昼食を抜かれる。反抗的だと指摘されると減点が科されて収容期間は延び、収容者どうしで話しているのが見つかれば「共謀罪」とみなされる。
 マッツが拘束されたのは、作家にも「コンプライアンス」を求める総務省が募った読者からのメールで、彼女の作品が「レイプや暴力、犯罪をあたかも肯定するかのように書いている」と訴えられたことが理由だった。「社会に適応した作品」「正しいことが書いてある作品」を書けと所長に言われ、マッツは激しく反発する。
「20年ほど前に、人を殺しすぎると、ある作品(『バトル・ロワイアル』)を作家が問題にしたことがありました。気がつけば、大量殺人ってあまり小説に描かれなくなっている。現実にそうした事件は起きるわけで、なぜ起きるのか、人間心理も含めて作品の中で書くことを作家がためらうのはどうかと私は思うんです。
 ちょっとショックだったのは、アメリカで、『大草原の小さな家』のローラ・インガルス・ワイルダーが、児童文学の賞から名前を外されましたよね。彼女の作品は先住民族に対して差別的だって言うんだけど、それが書かれた当時の限界なんだし、読者も受け入れて読んでいたという証明でもある。そういうものを全部見えなくしていくのは歴史修正主義にもつながります。安易に何にでもポリティカル・コレクトネスを当てはめていくのは危険だと思います」
 マッツを、いわゆるエンターテインメント、略して「エンタメ」と呼ばれるジャンルの書き手にしたのは、「いちばん権力に利用されそうな、ポピュリズムの先鋒になってしまいそうな立場の作家を書きたかったから」だと言う。
 作家たちは、更生のために作文を書かされる。反抗心旺盛なマッツは、役人受けしそうな作文をでっちあげて恭順を装うが、一杯の冷たい水を飲むためには反抗心も揺らぎ、暴力をふるわれれば、ひとたまりもなく膝を屈してしまう。
SNSでも当たり前のことしか書けなくなっているのは変だ
「『作家はそういうものじゃない』と感想をくれた人もいましたけど、作家にだって俗物はいます。もしマッツが高潔な作家だったら、すぐ自殺してしまうんじゃないでしょうか。私の中には、北朝鮮や中国、香港などで行われている弾圧的なものへの怯えがあります。生理感覚としていやだな、と思う。前から興味を持っていろいろ関係資料を読んでいました」
 役人、医者、収容者。療養所の中には、さまざまな立場の人間がいて、管理する側にも身分の差がある。暗闇の中で手探りするように、収容されている作家仲間の誰が敵で誰が味方か見極めようとしても、真実はなかなか見えてこない。
「ハンナ・アーレントが書いたように、普通の人々が弾圧に加担していくのが私はいちばん怖いと思っています。最近の、新型コロナウイルス下の自粛警察もちょっとそういうところがありますね。
 正しさの押し付けも怖い。いまの芸能人はみんな、いつやり玉に挙げられるか、すごいストレスだって言います。SNSでも当たり前のことしか書けなくなっているのは何か変だと思う」
 底のない地獄のような場所で、マッツは正気を保ち続けられるのか。療養所という名の作家収容所から脱出する日は、はたして来るのか。「いったん書き終えたあとに十数行書き加えた」と桐野さんが言うラストの重さは衝撃だ。
「このラスト、私の周りでの評判はすごく悪いですが(笑い)、今回の小説では絶望をとことん描こうと思っていたので加筆しました」
 連載が始まったとき、『日没』は、近未来、もしくはここではない別の日本を描くように見えたのに、4年の間に、現実の日本が小説の世界にみるみる近づいた。いま話題の、日本学術会議の選任で一部の学者を理由も告げずに政府が拒否するやり方は、リアル『日没』なのかと思わせる。『日没』の収容所はまた、七十数年前の日本で実際に行われたことを連想させもする。
「今回は辛くも逃げ切った、というところですけど、小説を書いていて現実に追いつかれる経験をすることはいままでもありました。でももし、桐野がいつの間にかいなくなった、なんてことになったら、みなさん捜索を、よろしくお願いしますね」
◆『日没』/《私は基本的に世の中の動きに興味がない。というのも、絶望しているからだ。いつの間にか、市民ではなく国民と呼ばれるようになり、すべてがお国優先で、人はどんどん自由を明け渡している》。そんな作家・マッツ夢井に総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会から召喚状が届く。パソコンの調子は悪くなり、飼い猫は姿を消し、作家仲間は入院、元彼は自殺‥‥周囲で不穏な出来事が立て続けに起こる中、「作家収容所」へ。マッツはそこから脱出できるのか!? ページをめくる手が止まらない、心拍数が上がる「近未来」小説!
【プロフィール】
桐野夏生(きりの・なつお)/1951年生まれ。1993年「顔に降りかかる雨」で江戸川乱歩賞、1999年『柔らかな頬』で直木賞、2003年『グロテスク』で泉鏡花文学賞、2004年『残虐記』で柴田錬三郎賞、2005年『魂萌え!』で婦人公論文芸賞、2008年『東京島』で谷崎潤一郎賞、2009年『女神記』で紫式部文学賞、『ナニカアル』で2010年、2011年に島清恋愛文学賞と読売文学賞の2賞を受賞。近著に『路上のX』『ロンリネス』『とめどなく囁く』など。
取材・構成■佐久間文子
※女性セブン2020年11月19日号
https://news.goo.ne.jp/article/postseven/trend/postseven-1609984.html

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ジダンにはレアル向きの資質がある。強い個性をどうまとめているか

2020-11-07 | 先住民族関連
スポルティーバ 2020/11/06 05:55
サッカー名将列伝
第21回 ジネディーヌ・ジダン
革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介する。今回はレアル・マドリードの監督を務めている、ジネディーヌ・ジダン。成功が難しいと言われる大スター軍団のレアルで、数々のタイトルを獲得しつづける理由を探る。

レアル・マドリードで、すでに10個のタイトルを獲得しているジダン監督
<3つの特徴>
 レアル・マドリードのかつての広報部長(ホアキン・マロート)が、ジネディーヌ・ジダン監督の特徴として、次の3つを挙げたことがある。
・好戦的でない
・監督としての自分を押し出しすぎない
・人として真っすぐである
 もう1つ加えるなら、「怒らせるとヤバそう」だろうか。現役時代からフィールドを離れると静かで内気だった。若手のころからよく見ていた選手だが、「ハスキー犬みたいだな」と思っていた。
 澄んだ瞳が美しいけれども何を考えているのかよくわからず、オオカミと似ていてちょっと怖い。
 フィールド上ではいつもイラついていた印象がある。突然報復して退場になることも多かった。瞬間湯沸かし器という点では、フランス代表の後輩であるパトリック・ビエラもそうだったが、ビエラの場合は前兆があった。我を失っているのがはっきりわかる。ヤバそうだと思ったら、ベンチも交代させていたものだ。
 ところが、ジダンはまったくと言っていいほど前兆がない。あっ、と思ったらもう手遅れ。2006年ドイツワールドカップ決勝の時もそうだった(相手のマルコ・マテラッツィに頭突きをし、退場となった)。
 穏やかな雰囲気になったのは、現役を終えてからだ。フィールドのジダンは仮面を被っていて、いつも不機嫌に耐えているように見えた。フランス人であると同時にアルジェリア人であり、さらにベルベル人(北アフリカの広い地域で暮らす先住民族)という三重性が背景にあったかもしれない。心の奥に、誰も理解できず触れられない闇を抱えているような怖さがあった。
 監督としての実績は抜群だ。
 09年にフロレンティーノ・ペレスがレアル・マドリードの会長に復帰すると、アドバイザーとしてジョゼ・モウリーニョ監督を補佐。その後、スポーツディレクターを経て、カルロ・アンチェロッティ監督のアシスタントを務める。そして14年には、レアルの傘下クラブであるカスティージャの助監督(実質的な監督)でキャリアをスタートさせた。
 16年1月、ラファエル・ベニテス監督の後任としてレアル・マドリードの監督に就くと、このシーズンのチャンピオンズリーグ(CL)で優勝する。翌2016−17シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝、CL連覇。2017−18シーズンにCL3連覇を達成して退任したが、まもなく復帰して2019−20シーズンは2度目のリーガ制覇。指揮を執れば必ず大きなタイトルを獲る。
 3年10カ月で10個のトロフィーは、ミゲル・ムニョス(1960−74年にレアル・マドリード監督)が8年かけた偉業を大幅に短縮した記録だ。昨季はリーガ最優秀監督に贈られるミゲル・ムニョス賞を受賞したが、将来はジネディーヌ・ジダン賞になっているかもしれない。
<レアル・マドリードを率いる資質>
 ジダン以前に、レアルで最も多くのタイトルを獲ったミゲル・ムニョスは、ジダンとよく似ていた。現役時代は中心選手、引退するとすぐに監督に就任して、タイトルを獲りまくった。
 ムニョスのチームにはアルフレッド・ディ・ステファノがいた。当時のスーパースターで、「専制君主」と呼ばれるほど絶対的な存在だ。ディ・ステファノ以外にもスター選手を揃えた陣容は強力だったので、数々の勝利もムニョス監督の偉業というより選手のおかげと見られていた。監督の存在感が薄いのはレアル・マドリードの特徴である。
「監督として自分を押し出しすぎない」のは、レアルの監督として成功するためのポイントと言えそうだ。ムニョス、ビセンテ・デル・ボスケ(1994、96、99−03年に監督)ジダンの共通点でもある。
名将列伝/レアルにデル・ボスケの凡人ぶりは必要だった>>
 監督の色を強く押し出すと、選手のプレーは制限される。チームとしての戦い方が明確になる一方で、どうプレーすべきかが決まるので選手の自由は小さくなる。チームプレーなのでそれでもいいのだが、レアルは事情が違う。
 例えば、チームとしてタッチライン際からのロングクロスを蹴らないという方針があるとする。チームによってはそれがよい方針にもなるが、デイビッド・ベッカムやロベルト・カルロスにそれを適用するのは個性を削ることになる。規格外の力量を集めているのに、小さくまとめてしまうのでは意味がないのだ。
 一方で、ここという時には個性の強い選手たちをまとめる力も問われる。
 ジダン監督のチームには、クリスティアーノ・ロナウドがいた。ロナウドはすべての試合に出場したがったが、ジダンはローテーションどおりに休養させている。バルセロナの監督たちがリオネル・メッシに対してできなかったことだ。
 特定の試合では、ロナウドにも守らせていた。いつもはそうではない。しかし、限定的に特殊な戦術や役割を選手に課すことがある。普段が緩いだけに目立つのだが、その時にはちゃんと統制できている。
「人として真っすぐ」は、デル・ボスケもそうだった。スター揃いのチームだけに、公平公正でなければならないし、選手としての能力とは別に人として尊重しなければならない。
 ジダンは「好戦的でない」。争いを好まず、穏便に解決する。好戦的な選手は常にいるので、監督まで好戦的では争いの火種を撒くようなものだ。ロナウドやセルヒオ・ラモスといった勝利への情熱をたぎらせているリーダーがいれば、選手を挑発する必要もない。
 バルセロナ時代のフランク・ライカールト監督とも似ていて、ジダン監督は周囲の意見を吸い上げていく。昨季、中断明けから守備戦術が目に見えて整備されていた。おそらくスタッフのアイデアを取り入れたのだと思う。現代は何もかもひとりでやれる時代ではない。テクノロジーや最新の知見を採り入れていく度量が、現代の監督には要求されている。
 ただ、ジダンにしかできないこともある。
 レアルの監督など、誰がやっても勝てそうなものだが、現実にはそうではない。スター揃いのチームを率いるにも、向き不向きがあるのだ。ある種の「格」なのだが、ジダン監督にはそれがある。デル・ボスケは失望させてはいけない監督だった。ジダンは怒らせてはいけない監督だ。
 ジダンが本気で怒った時は崩壊の合図だ。それは神の怒りに似たカタストロフィーである。
 06年ドイツW杯の決勝で、イタリアのマルコ・マテラッティに頭突きを食らわし、ワールドカップトロフィーには目もくれずにロッカールームへ消えていった光景は、すべての選手の脳裏に刻まれている。
 いざとなったらワールドカップも捨ててしまう男なのだ。しかも、ジダンの怒りにはこれといった前兆がない。つまり、最期はいきなりやってくる。ジダンを激怒させないかぎりレアルは勝ちつづけるだろうが、突然の終わりがいつなのか誰もわからない。
 レアル・マドリードという巨大なエゴと才能の集団に、封印された祟り神のような無言の恐怖が効いている。
ジネディーヌ・ジダン
Zinedine Zidane/1972年6月23日生まれ。フランス・マルセイユ出身。選手時代はカンヌをスタートに、ボルドー(以上フランス)、ユベントス(イタリア)、レアル・マドリード(スペイン)でプレーし、数々のタイトルを獲得。フランス代表では98年W杯、ユーロ2000優勝など輝かしい成績を残した。引退後は16年よりレアル・マドリードの監督に就任。2017−18シーズンで一度退任したが、翌2018−19シーズン途中から再び指揮を執っている。
著者:西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
https://news.goo.ne.jp/article/sportiva/sports/sportiva-0000091063.html

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「クマ出没」が緊急事態 山中ではペットボトルを鳴らす音が効果的な場合も

2020-11-07 | アイヌ民族関連
Forbes 11/6(金) 20:00
ここ数年、晩夏から秋にかけて、「クマの出没」のニュースをよく耳にするようになった。今年もすでに、住宅地への出没や人身事故が多数報告され、近年では最多となる報告数を数えているという。
これを受けて、政府が緊急会議を開いたことも明らかとなり、クマの棲む山中では、多くの地域で、エサとなるブナなどの木の実が不作であることも報告された。
このように、クマが人の生活圏に出没するときは、山で足りないエサを求めてやってくるものだと思われる傾向がある。また、人身事故などが起こると、クマは積極的に人を襲い、人を捕食の対象としているような印象も強める。
しかし、これらの理解のすべてが正しいわけではなく、クマという動物の行動の一端を過大に解釈している節があることも強調しておきたい。
クマは元来人を恐れる動物
北海道の酪農学園大学で、野生動物生態学を研究する佐藤喜和教授の話によると、市街地に出没するヒグマ(北海道ではヒグマ、本州以南にはツキノワグマが生息している)の行動の特徴は、季節によって異なるという。
春から初夏は、親離れと繁殖の時期にあたり、親離れしたばかりの若いオスが、新しい住処を求めて行動域を広げた結果、市街地に出てしまうことがある。また、0才の子グマを連れたメスが、オスの成獣を回避するため(母グマは子グマが独り立ちするまで発情しないため、発情を誘発しようとするオスにより、子グマが殺されることが多々ある)、あえて市街地付近を利用することもある。
どちらも市街地にエサを求めて出没するわけではなく、基本的には、人を恐れている個体が多いという。
初夏から晩夏にかけては、果樹や農作物を求めて出没する個体が増える。郊外の住宅地や家庭菜園、農地が入り混じる地域や農村で、エサを目的に出没する。この場合も人を避けて、夜行性になることも多く、くり返し出没する傾向があるのだそうだ。
広い土地を有する北海道とは異なり、本州では住宅街や市街地のすぐ背後まで、クマが生息する山が迫っている場合があり、そのような環境では、時に思いがけず、人の生活空間で、クマと遭遇する可能性が出てくる。
「鈴の音」がクマ除けになることからもわかるように、クマは元来、人を恐れ、できることなら遭遇を回避しようとする動物だ。それでもクマが人を襲うのは、クマ自身が身を守るための最後の手段だと感じた場合や、子グマを守るためである場合が多いとされる。
また稀に、人を恐れるに足りない存在だと学習した場合、積極的に人を襲うケースも報告されているため、過度に人に慣れさせないことが重要とされている。餌付けするなどは言語道断の行為だ。
また、「クマにあったらどうするか アイヌ民族最後の狩人 姉崎等(姉崎等、片山龍峯著/筑摩書房)」という書籍では、アイヌの猟師である姉崎氏が、鈴の音に慣れてしまうクマも存在することを語っており、興味深い話だと感じた。クマ除けの鈴をつけた人が、しょっちゅう分け入る山中では、普段は山では聞かれない音、例えば空のペットボトルをペコペコと鳴らす音などのほうが、クマを警戒させる効果があるのだという。
いずれにしても、ここに人がいるから近づくな、人は怖い存在だ、という警告を発しておくことが重要で、クマも根本的には人を恐れ、危険を回避しようとしていることに変わりはない。
クマがもつ合理的な生態
さらに、クマが、はじめから人を捕食の対象とする動物ではないことも、紹介しておきたい。
クマは、その大きな体と鋭い爪や牙をもつという風貌から、獰猛な肉食獣のイメージを持たれがちだが、実際には雑食性の動物だ。川魚や鹿などの動物を捕食する場合もあるが、草や木の実、果実が豊富である限りは、それらを主なエサとして過ごしている。
木の実や果実は、生えている場所や実りに地域差があるため、それらが不足する地域では、補うためのエサをほかに求め、昆虫や小動物など多様なものを食して過ごす。ある意味、クマは、その場の環境に応じて、臨機応変に生き抜いているとも言える。
また、臨機応変な生態という意味では、特徴的な妊娠と出産のサイクルをもつところも興味深い。
クマのメスは、6月に排卵し、交尾をする。その時点で、体内には受精卵が存在することになるのだが、受精卵が子宮に着床し、妊娠を成立させるのは11月上旬と、長い場合は5カ月もかかるのだ。この現象を「着床遅延」と呼ぶが、その詳しいメカニズムはいまだに解明されていない。
受精卵が無事着床し、妊娠できるか否かは、冬ごもりに入る前の秋口に、十分な栄養を蓄え、体を肥やすことができたかどうかにかかっているという。十分な蓄えができていないメスは、たとえ受精卵を宿していたとしても、妊娠に至ることがない。クマは、飲まず食わずの冬ごもりの最中にあたる、1月下旬に出産するが、体力を消耗する妊娠と出産に耐え抜ける母体となるか否かが鍵となるのだ。
このように、クマは、その時の自然環境や条件に応じて、実に合理的な生態をもっている動物なのだ。
冬ごもりの準備期間である晩夏から秋口までには、クマは栄養を溜めこむため、できる限りのことをする。妊娠、出産のかかっているメスはもちろんのこと、冬ごもり明けの縄張り争いまでを持ちこたえる体力の蓄えが必要なオスにとっても、この時期の栄養摂取は、死活問題なのだ。
そして、栄養を蓄えるため行動圏を広めた結果、人の生活と摩擦が生じる場面が発生することにもなる。
同時に、クマが人の生活圏に出没する背景には、個体数が増え過ぎている場合なども考えられる。
これらの出没に対して、どのように人が介入し、対策するのかは、生態学的な判断を問われることも多い。クマを恐れること、また駆除する行為は、本来、クマの生態や習性を理解したうえで、なされるべきことだ。
近年では、クマを「危険な生き物」として紹介するテレビ番組等も増え、生態の一面だけが誇張された情報が流れることがある。そのたびに、自然の条件に身をゆだねて生きるクマの生態の一面を伝えたい気持ちになるのだ。
西岡 真由美
https://news.yahoo.co.jp/articles/d41e723466f9c03ae8399528cd3c71f4fe32dcd2

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