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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

水俣病:カナダでも水銀中毒 先住民招き講演会--千代田で17日 /東京

2011-09-08 | 先住民族関連
毎日新聞 2011年9月8日 地方版

 ◇日本の経験共有
 カナダで起きた水銀中毒の悲劇を知ってもらおうと、先住民3人を招いた講演会「カナダ水俣病」が17日午後2時から、千代田区猿楽町2のYMCAアジア青少年センターで開かれる。主催するNPO「水俣フォーラム」は「日本での経験を共有し、各国で発生する水俣病を広げてはならない」と訴えている。
 中毒の原因となったのは、カナダ中東部のオンタリオ州の製紙工場からの廃水。水銀が含まれ、69年に周辺の湖から採取された魚が高濃度の水銀に汚染されていることが判明した。70年には魚を主食としている下流の先住民21人の毛髪から水銀が検出された。
 75年、水俣病患者を支援する原田正純・前熊本学園大水俣学研究センター長らが現地で検診を始め、水俣病と同様に手足のしびれといった感覚障害に苦しむ被害者を確認した。
 連邦政府などは被害者の生活を支援するための基金を設立。06年までに795人が補償を求めたが、支払われたのは320人にとどまっている。
 水銀による環境汚染や健康被害は途上国を中心に世界に広がっている。国連環境計画(UNEP)は水銀の削減を目指す条約の制定を目指している。
 講演会では、先住民らの報告の後、原田さんが解説する。現地で支援活動を続ける大類義監督の記録映画「カナダ先住民と水俣病」も上映される。
 一般2200円(前売り1600円)、学生1500円(同1000円)。問い合わせは水俣フォーラム(03・3208・3051)へ。【足立旬子】〔都内版〕
http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20110908ddlk13040274000c.html

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南米ペルー・ウマラ政権 資源乱開発ストップ

2011-09-08 | 先住民族関連
しんぶん赤旗 2011年9月8日(木)

 【リオデジャネイロ=菅原啓】南米ペルーのウマラ政権は6日、先住民が居住する地域での多国籍企業などによる地下資源の乱開発を抑制するため、開発プロジェクトの実施に先駆けて地域住民の意見を聞く「事前協議法」を公布しました。
先住民の意見尊重
 ペルーでは、多国籍企業の誘致を優先して規制緩和を進めたガルシア前政権の下で、地域住民の意向を無視した鉱物資源開発が急増。事前に何も話がなく、相談もなかったとして先住民が強く反発し、大規模な抗議行動が頻発しています。
 今回の法律により、政府は開発計画を進めるにあたって、影響を受ける先住民らの意見を尊重し、住民投票の実施を義務づけられることになります。
 ペルー政府は同法の公布にあたり、2009年6月に開発に抗議する先住民と警官隊の衝突で34人が死亡した北部アマゾン地域のバグアで式典を開催。式典には、激しい抗議行動を展開した先住民代表も出席し、新法を歓迎しました。
 式典の中で、ウマラ大統領は「最も重要なのは、先住民が市民として扱われ、意見を聞く必要のない小さな子どものように扱われないようにすることだ」と語りました。
 ペルーの国会では、新自由主義路線をとる勢力が長年多数を占め、「事前協議法」案の採決は、先送りされてきました。4月の国会議員選で、新自由主義的政策の転換を主張する勢力が議席を増大させた結果、同法案は8月下旬に賛成多数で可決成立しました。
 ウマラ大統領は、今回の法律の実現を、先住民に対する「歴史的な債務」を支払うものであり、7月末に成立した新政権にとっても「重要な一歩だ」と指摘しました。
 大統領は、外国企業の投資やアマゾン地域の開発自体は重要であり、今回の法律で得た権利を先住民がいたずらに乱用することのないよう警告しました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-09-08/2011090807_01_1.html

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■ 天皇皇后両陛下あす来道、室蘭の送迎場所は28カ所

2011-09-08 | アイヌ民族関連
【室蘭民報 2011年9月8日(木)朝刊】

 天皇皇后両陛下は、札幌で開かれる「国際微生物学連合2011会議記念式典」に出席のため、あす9日に来道する。両陛下の本道入りは平成19年に苫小牧市で開かれた全国植樹祭以来4年ぶり。道内滞在中の11日に白老町内のアイヌ民族博物館、12日に室蘭市内の道立総合研究機構栽培水産試験場を視察される。視察先の各自治体では歓迎準備が進められている。
 両陛下は9日午後に特別機で新千歳空港に到着、高橋はるみ知事らが出迎える。札幌市内で宿泊して10日は、独立行政法人森林総合研究所北海道支所、札幌市豊平川さけ科学館を視察後、札幌コンベンションセンターで開かれる国際微生物学連合2011会議の記念式典とレセプションに出席される。
 11日は白老町の町立特別養護老人ホーム寿幸園、アイヌ民族博物館を視察、登別市登別温泉町の登別グランドホテルに宿泊。白老では飴谷長蔵町長が、登別では小笠原春一市長らが出迎える。12日は室蘭市舟見町の栽培水産試験場を視察、室蘭市役所で青山剛市長らと昼食を取った後に帰途に就く予定。
 各地では住民が両陛下の車列を沿道から歓迎する送迎準備が進められている。白老町は45カ所、登別市は11日が中登別町と登別温泉町で計9カ所。12日が登別温泉町―室蘭方面へ向け27カ所、帰路の若山町―登別室蘭IC間は15カ所。室蘭市は12日に日の出町―栽培水試までの往復28カ所を指定。
 送迎場所は、いずれも車列進行方向の左側の歩道に設置されるが、車列が近づく時間帯には通行規制が行われる。送迎場所では混雑が予想されるため、警察官や関係者の誘導に従うよう関係市町では呼び掛けている。(佐藤重理)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2011/09/08/20110908m_03.html

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【幕末から学ぶ現在(いま)】(128)東大教授・山内昌之 松浦武四郎(下) 

2011-09-08 | アイヌ民族関連
MSN産経ニュース 2011.9.8 07:59

アイヌ保護策の挫折
 強力な民族と弱体な民族が接触し遭遇すると、未知の伝染病など疾病の深刻な打撃を受けることは世界史の常識である。
 病気の伝染は、拡大しつつある商業活動の副産物でもあった。アイヌと日本人との交易、山丹(さんたん)交易と呼ばれる沿海州やサハリンとの交流は、アイヌの知らなかった病気をかれらの生活にもちこんだ。
 ◆疾病で民族の活力が衰弱
 ことに梅毒の流行は、オーストラリアの先住民の場合のように、先住民族の女性の出生率を下げて胎児の流産や未熟児化をもたらした。これは民族の活力を確実に衰弱させる大きな要因となっていく。
 松浦武四郎は石狩漁場の和人の番人が、アイヌの男を小樽(オタルナイ)に送った留守を狙って、その妻を犯し梅毒をうつした例を紹介している。また松浦は、釧路(クスリ)の41人の番人のうち36人が、アイヌを近くの厚岸(アッケシ)場所の仕事に送り出したのち、その妻たちを「妾(めかけ)」にしていた没義道(もぎどう)を記録していた。
 これは、箱館、松前、江差(えさし)の遊郭や色町などを通した感染と並んで、アイヌに抵抗力のなかった梅毒を広げる原因の一つになった。
 また寛政12(1800)年に記録を残した松田伝十郎は、天然痘の流行が人口激減と村落破壊の大きな原因になったと語っている。松前藩の放置政策は、都合が悪くなると、蝦夷(えぞ)のアイヌ居住地が異民族の住む異国であり、統治責任の外にあるとして疫病対策をとろうともしなかった。この認識は、時に不法となる経済搾取の事実と矛盾するはずであったが、そうしたギャップは松前藩にはなかったようである。
 しかし、この不正を鋭く告発したのが松浦武四郎であった。
 松浦は、文化4(1807)年に2万6256人と記録された北海道アイヌの人口が47年後には1万7810人に減少し、32%も人が減った悲劇を調査している。その一例を挙げるなら、東蝦夷地の厚岸のアイヌ人口は1809年には177軒と874人を数えたのに、安政3(1856)年になると53軒と217人に激減し、47年間のうちに75%も衰退してしまったのだ。東部の根室(ネモロ)では19世紀初頭に1200人以上のアイヌが住んでいたのに、1850年代になると人口は511人に減った。57%も激減した勘定になる(ブレット・ウォーカー『蝦夷地の征服』第7章)。
 伝染病境界線ともいうべき寄せ波が限りなく北上し、蝦夷地に新たな疫病を持ちこんだのである。アイヌの自治力が弱体化し、その土地の日本領土への統合に抵抗する能力を失わせた大きな原因は、疾病の拡大と抵抗力の減退であった。
 すでに幕末には、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)らは蝦夷地情報を知るために、松浦の家を訪れていた。明治新政府が成立すると、松浦を高く評価していた大久保は政府に彼を登用させ、「蝦夷地開拓御用掛(ごようがかり)」に任じている。
 明治2(1869)年に戊辰戦争が終結し開拓使が設置されると、これまでの調査実績を認められ蝦夷地通として、ややあって開拓判官(はんがん)の職に任命された。長官、次官に次ぐポストである。新天地で理想の政治を目指すには十分な職であった。
 ◆真面目な政策に抵抗勢力
 松浦は、アイヌ民族の生活と伝統的な生態系を守ろうとする真面目な政策を公に採用しようともがき続けた。和人とアイヌが共存しながら、アイヌが安心して暮らせる日々を夢見ていた松浦は、抵抗勢力とぶつかることになる。それは、江戸時代の商場知行制(あきないばちぎょうせい)のように商人たちが勝手気儘(きまま)にアイヌの男女労働力を酷使する悪習を守るか、廃止するかという争いでもあった。
 開拓長官となった公家の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)は、商人たちに賄賂攻勢をかけられて、松浦の提言を骨抜きにしたようだ。また松浦は、律令制度における遥任(ようにん)のように東京で勤務させられて、北海道現地で手腕を振るうこともできなかった。
 孤立した松浦は、開拓使を辞めてしまった。それでも終身15人扶持(ぶち)(米価換算150万円ほど)を給された異例の厚遇は、新政府の後ろめたさからであろう。
 その後に雅号として「馬角斎(ばかくさい)」を名乗ったともいわれるが、それは明治新政府に対するあてつけでもあろうか。(やまうち まさゆき)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110908/art11090808010002-n1.htm

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