昨日の午後、奈良の歯医者に行ってインプラント最終段階の処置のあと、喫茶「アン・マリー」で休んでから奈良女のピアノ演奏サークル「piano-forte」の第13回定期演奏会を聞きに奈良女子大講堂に行った。私は、奈良女の学生部長をやっていた時から「piano-forte」の定期演奏会パンフレットに小文を書いてきた。最初は学生部長という職責上から書いたのだが、学生部長を辞めた後も何故か小文を頼まれて現在にいたっている。
今回書いた文章は以下の如し。
○吉田秀和さんって知っていますか。 西村 一朗(名誉教授)
皆さんは、吉田秀和さんって知っていますか。そうです、昨年、初めて音楽評論部門で文化勲章を貰った今年94歳のおじいちゃんです。芸術評論には、美術評論や建築評論(私の専門に若干関係)等があるが、それらは評論の対象の美術や建築は客観的には誰の目にも同じものである。ところが音楽評論になると対象の音楽は、楽譜のレベルでは客観的に同じかもしれないが、演奏の次元になると、指揮者や演奏家によって奏でられる音楽が「違ってくる」と言える。トスカニーニ指揮のニューヨークフィルによる「運命」とカラヤン指揮のベルリンフィルによる「運命」とでは、音色が全然「違う」と言ってもよさそうだ。こういう点を、吉田秀和さんは深く掘り下げておられる。
実は、楽譜というものが、元々「完全」とは言えないことに指揮者や演奏家により音楽が「違う」大きな原因がありそうだ。この音楽サークル名称になっているpianoやforteにしても楽譜にきちんと完全に書いてあるとは言えない、クレッシェンドやデクレッシェンドもそうである、と吉田さんは言う。偉大な作曲家と言われるモーツアルトやベートーベンの楽譜でもそうであるようだ。そのために指揮者や演奏家が、楽譜に書いてなくとも、この辺にforteがあるはずだとかクレッシェンドになっていないとおかしいとかの「解釈」をして演奏するものだから、音楽自体が「違って」聞こえるのだろう。
演奏家で言うと、私の若い時(40年ほど前)、ピアニストでグレン・グールドという人がいたが、この人のピアノは、それ以前のピアニストと同じ曲でも明らかに演奏の仕方が違って新鮮だった。この人を日本にいち早く紹介したのも吉田秀和さんだった。
皆さんは、勿論、まずは楽譜に忠実に演奏されるであろうが、十分に忠実であった上で、更に新たな解釈も出来れば付け加えて欲しいものだと、秘かに思っている。(2007年7月11日)
昨日は、50人位のサークル員の40人ほどが演奏した。演奏は第一部のエルガーの「愛の挨拶」(那須侑子さん)から始まって第四部のショパンの「バラード第一番」(丹治 渚さん)で終わった。モーツアルト、ベートーベン、ブラームス、ショパン、リスト、ドビッシー、チャイコフスキー、グリーク、坂本龍一等々多彩な作曲家のピアノ曲を楽しんだ。芸大や音大を諦めて奈良女に来たのでは、と思われる学生も何人かいた。来年も楽しみだ。
piano-forteホームページ:
http://www.geocities.jp/pianoforte_narajo/
写真は、奈良女講堂内部(座席の方を見る)