水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第三章(5)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
「空」の意味がわからない。
ならば基本に戻り学ぶ。
基本の戻り方。
素直になればいい。
力を抜けばいい。
ゲンちゃん(玄奘)はここでも宝物を用意した。
経は宝物がアチコチにちりばめられている。
どんな人でも見つけられるようになっている。
その人が見つけられる宝物がキチンと用意されている。
心経なら、更にそれが濃い。
その人は自分が見つけた宝物が心経の宝物だと思っている。
「こ、これは!!」
他の人にも教えようとする。
「心経の隠された宝物(意味)」と思い込んでしまう。
だが、それは、その人用の宝物なのだ。
心経は宝物の宝庫のような経(みち)なのだ。
だから心経の解説は多い。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第三章(4)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
「皆空」は「ぜ~んぶ空だぁ」だけど・・・。
「空(くう)」の解き方が、ちょっと重要。
解説者によって様々。
まぁ、大きく分けて二つ。
「何も無い」と「空という構造」が二大派閥。
ワシは独善、独自、ユニークが身上(身下?)。
当然、二大派閥には属さない。
そして、何かわからなくなった時、
基本的な解き方を知っている。
迷った時、どうするか?
基本に戻る。
わからない時、どうするか?
基本に学ぶ。
基本は深いけど、難しくはない。
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第三章(3)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
「(この世の)全て」と書いたら曖昧すぎる。
ゲンちゃんは優しい。
この世とは何か?
ついでに、そんな事も解説してくれているのだ。
心経は、サービス満点の経なのだ。
この世は「色」と「受・想・行・識」だぁ。
色は見える世界で共通。
受・想・行・識は見えない世界で個人的。
この世の認識は(通常は)個人の認識なのだ。
認識は更に四つ(受想行識)に分別される。
この世とは。
五蘊だぁ。
み、短けぇ・・・。
ゲンちゃんは優しい。
だから更に易しく説明する。
更に続けて五蘊を解説するのだ。
心経はしつこく、しつこく、同じ事を解説する。
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第三章(2)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
「五蘊(ごうん)」は「五つの集まり」の事だ。
だけど仏教用語だから決められた意味がある。
色・受・想・行・識の五つだ。
一応、(認識する)この世の五つの要素だ。
この後の文にも重複して書いてある単語だ。
しょうがないけど、従うかぁ・・・。
ワシが勝手に五つ集めるわけにもいかないのだ。
もし、ワシが勝手に集めるとしたら・・・
色恋・甘受・妄想・乱行・非常識・・・。
おぉ~!意味は繋がったなぁ・・・。
色は「いろ」じゃなく「しき」だぜ。
「いろ」は見えない世界側。
「しき」は見える世界の全て。
つまり「物質」のことだ。
色界とは物質世界のことになる。
色恋沙汰は、感情世界(見えない世界)。
アレコレ、うっとうしい事柄らしい・・・。
メンドウクサガリ屋には苦手の世界だ。
「いろ」と「しき」は同じ字でも正反対なのだ。
混同しやすいよなぁ・・・。
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第三章(1)
照見五蘊皆空 度一切苦厄
前の文(第二章)。
「超楽な状態(超力が抜けた状態)の時」の続きだ。
「照見」は「よ~く見えちゃったぁ!」
それは、秘密にするような事じゃない。
よく見れば当たり前だったぜ、という意味だ。
何かを解明する方向が二つある。
一つは、自分から探求する。
もう一つは、対象が勝手に姿を見せる。
ほとんどは努力と精進で自ずから答えを見つける。
・・・・エライ!
何度も言うが、根性や才能のある人ばかりじゃない。
ナマケモノだって、結構いる。
いる、と思う・・・
きっと、いるにちがいない。
ワシは(自立した根性無しの)ナマケモノだ。
だから他の人の事まで調べない。
だが、ナマケモノだって「知る」方法がある。
「見る(解明する)」方法がある。
相手(対象)が勝手に明らかになってくれればいい。
「照見」の意味は、この方に近いと思うぜ。
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第二章(11)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
ワシ的訳。
「力を抜いて楽になろうぜ。
もっと力を抜けば、
超楽な状態(時)になるぜ」
超偉人のブッちゃん(仏陀)やキリちゃん(キリスト)。
何を伝えたかったか?
難しい「悟り」を伝えようとしたのか?
そんなはず無いでしょ。
誰でも幸せに生きる方法のヒントを伝えたのさ。
超偉人だから、超優秀。
超優秀は超優しい人の事。
人々やケモノや妖怪達が苦しむのが辛かったのだ。
他の苦しみは、他人事じゃない。
ならば、その逆もアリ。
それぞれが、自分から楽になればいい。
その方法のヒントが経典にある。
(といっても、経典を書いたわけじゃないけど)
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第二章(10)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
「観音(観世音)」を「観自在」と書いた。
ゲンちゃん(玄奘)はポイントをここに置いた。
だから、本文の最初にもってきた。
超優しいから、素直なのだ。
「観自在」をどう訳すかで、心経全体が変わる。
「偉大な観音様が、アレコレ・・・」
と訳すと、一部のマニア心経になってしまう。
心経は幅広く、奥や底が深く、上も高い。
どんな訳も間違いではないけど・・・
「観音」は偉大とか、聖なるとかは関係ない。
「自在」という事実を「観る」行いだ。
誰でも、どの中も同じに「在る」モノだ。
妖怪や夜叉や鬼の中にも同じくある。
三十三化身という言葉で「観音経」に書いてある。
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第二章(9)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
観音様はアンタの中にいる。
自(分)に在るモノが観音様だ。
自に在るなら、他にも在る。
だから、全てに観音様はいる。
観音様とは「観自在」なんだ。
その「自在」を認めてごらん。
それが「観」という事だ。
「認める」とは「力を抜く」事だ。
「力を抜く」事が「観る」という行いだ。
力を抜けば、気持ちいい。
楽になる。
もっと、力を抜けば更に気持ちいい。
もっと、もっと力を抜いてごらん。
すると自を突き抜けて楽になるぜ。
超、気持ちいい状態になるんだ。
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第二章(8)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
題字も大事だったが、一行目も大事だ。
高僧は似たタイプになる。
高僧とは優秀な僧をいう。
優秀とは優しさが秀でている、という意味だ。
優しくない高僧なんてありえない。
魂や精神の進化という表現をするなら、
優しさが基準になるだろう。
当たり前なのだ。
そして、他に教える事があるなら、
優しさは易しさになる。
これも、当たり前なのだ。
優しいから、題字で(中)心を表す。
一行目だけでも心(しん)を表す。
ワシのように根性無しもいる。
題字と一行目で力尽きる・・・。
それでも大丈夫だぁ。
とりあえず、題字が読めればいいよ。
一行目でも読んでくれれば、いいんだよ。
ホンモノの高僧が書けば、こうなるのだ。
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第二章(7)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
「般若波羅蜜多」は題字で説明したままだ。
「とても楽な状態(智恵)」の意味だ。
「時」は「その時」でいい。
何も難しくない。
力を抜くと楽になる。
もっと力を抜くと更に楽になる。
とても、とても楽な状態になれるぜ。
当たり前の事を易しく優しく書いた。
ブッちゃん(仏陀)が最初に説教したのは鳥やケモノ達。
幸せに生きる事を示したのだ。
説教というのは、誰でもわかるように示す事だ。
字が読めない鳥やケモノ達が理解できるのだ。
それは知識で理解する分野じゃない。
ゲンちゃんもホンモノの高僧だ。
だから、とても優しく示す。
易しく示す。
それが心経なのだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)