水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

半魚人・5

2005-06-10 19:28:34 | Weblog

半分ウロコを残した中途半端な生き物。
海中でも陸上でも息をする節操の無い生き物。
脳ミソが少ないので、考えるより感覚で動く。
根性が少ないので、無理が出来ない。
自然体でしか、生活できないのだ。

海中にいると体も心も楽だ。
陸に上がるとよく解る。
陸は重い・・・。
それは固定概念という鎖のせいだ。
いろいろな鎖を自分で巻きつけている。
鎖で作った社会が陸の生活のようだ。

固定概念は重力かもしれない。
海は重力がないわけじゃないが、少ない。
そして、生命を発生、育成、応援する。
海水自体が、生命を包んでくれている。
「場」に抱かれて「いのち」が楽なのだ。

だが人間は海の生物として生まれなかった。
陸の生物を目指したからだ。
進化する事を選んだ生物だ。
「いのち」より進化を選んだ。
そういう生き物もアリだろう。

ところが大勢の中には、必ず外れモノがいる。
外れモノがいないと社会が成り立たない。
(これは社会構成上、必要だからだが、
専門家以外あまり知らないみたいだね)
外れモノは、中途半端な生き物だ。

半魚人は最初から外れモノとして生まれた。
マトモな人間が堕落すれば成れるわけじゃない。
最初から半魚人として生まれていたのだ。
海中に入って、それが理解できる。
進化でも退化でもない。

人間社会に生まれた半魚人だ。
少しは・・・悩む。
どうして、マトモな社会人に成れないのだろう?
どうして中途半端なんだろう?

親や周りの人も言う。
「アンタがだらしない・・・」
「努力が足りない」
「常識が無い」
ごもっともです。
半魚人だったのですから・・・。


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半魚人・4

2005-06-09 21:13:08 | Weblog

泳ぐ能力があり、海の知識がある。
海通・・・海オタク・・・海バカ・・・。
海は素敵だなぁ♪ 恋してるからさぁ♪
(かなり年代が限られるフレーズだと思う・・・)
海って、そんなもんじゃないんだけどなぁ・・・。

どんなに努力しても海中で息はできない。
立派な人間になるほど、魚人にはなれない。
中途半端な人間だけが、半魚人の資格を得る。
劣っていると自覚できたら、海の水で息ができる。
この世は、とても、とてもヒネクレているのだ。

陸上で海の話をするのは趣味だ。
海関係で商売だって出来る。
上手く儲けてね。
ワシの知ったことじゃない。
でも、本気で魚人だと思わないでね。
海の中では溺れちゃうよ。

海の生物は理屈を言わない。
そりゃそうだ。
理屈を覚える意味がわからない。
必要ないから。
理屈は陸の人間だけが言う。
解らないから、必死で言う。

半魚人になってみると解る事がある。
人間は・・・リキミすぎだよ。
それでは、海の中では溺れてしまう。
法則にしばられれしまうと、海中では自由に動けないぞ。

陸上の道は立派な人間を目指すのかもしれない。
でも、海の中で立派な人間にはなれないぞ。
海の中でなれるとしたら、魚人だ。
魚人になると、半分しか人間になれない。
海の中にあるのは、人間の道じゃない。
人間の道のヒントにはなるかもしれないが・・・。

海にも道はあるけれど、陸の道とは構造が違う。
陸は平面に道があるけど、海は立体に道がある。
法則にとらわれては、道を歩けないんだ。
だから人間として半分失格な「いいかげん」が、
半魚人の素質となるんだ。

「思い込んだぁら試練の道を♪」(注:巨人の星)
これは陸の人間の歌だ。
成り上がる事を目指す努力と根性の歌だ。
(最近は巨人の星を目指すのはダサイといわれる)

海の中からも星は仰げる。
巨人の星ではなく、魚人の星だ。
魚人の星は「自由」を目指す方向に輝く。
海は道を試練にしない。
海の道は力を抜くと楽に泳げる道だ。


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半魚人・3

2005-06-08 20:59:59 | Weblog

海に興味がある人がいる。
いろいろ勉強などする。
成分はナトリウム、カリウム、カルシウム、
マグネシウム、その他アレコレ・・・・
温度、海流、深さ、濃度、アレコレ・・・。
マニアというか・・・詳しい・・・。

海の知識が溜まると、海の住人のように話す。
「海とは、アレコレ・・・」
ワシもそうだった。
半魚人を自覚し、実際に海に入るまではね。
思い出すと、恥ずかしいというか、可愛いというか・・・
今もアホだが、大アホだったなぁ・・・。

海の中から観る景色。
知識や理屈では絶対解らない。
知識や理屈があると、かえって観え難い。
海に詳しくなればなるほど、海の事が解らない。
「理屈じゃないんだ。頭を使うな」
御師匠様の言う通りだった。

陸の世界は陸の法則がある。
例えば、上と下が判りやすい。
リンゴが落ちてくるからだ。
ニュートンが海に住んでいたら、
リンゴから万有引力は思いつかない。

海の世界は陸の感覚で言うなら・・・
不思議
わけが、わからん。
何でも、アリ。
だから、とても、ワクワク。

居るだけで、ワクワクする感覚。
海は「生命」を揺り動かす世界のようだ。
「生命」に直結しているようだ。
ワシは半魚人となり、陸と海に住む。
仕事は「生命」を活性化する役目だ。

海を泳ぐ人間もいる。
泳ぎは上手い人も下手な人もいる。
力強く泳ぐげる能力がある人間もいる。
でもねぇ・・・魚人じゃない。
海の世界に触れる事と
海の世界に住める事は違うんだ。

泳ぎは能力だ。
だから泳げるのがスゴイと思うかもしれない。
それは、そうかもしれない。
でも、泳ぎの延長が海の住人になる入り口じゃない。
わかって下さいね。
半魚人は、マトモな人間より劣っているのです。
それでいいやぁ、と納得している根性無しです。

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半魚人・2

2005-06-07 20:45:43 | Weblog

捨てると褒美が貰える。
その時はそんなことは知らなかった。
まぁ計算して捨てても褒美は出ない。
ホントに捨てた事にならないからだ。

ワシはウロコだらけの半魚人だった。
脳ミソなんて、人間の半分だ。
計算ができなかった。
根性もなかったら、あがきもしなかった。
人生(半魚人でも人生だな・・・)
何が幸いするか判らん。
脳ミソが半分で、根性が無いのが吉と出た。

「(マトモな)人間じゃなくてもいいや」
アッサリ捨てたから褒美が出た。
建前上、捨てたからには褒美を出す。
神様は「いいかげん」だから律義な時もある。
「いいかげん」には律義も入っているんだ。

褒美は・・・ワシの体を変えた。
何だかわからないが、とにかく、変えてしまった。
これって・・・褒美かなぁ?
罰だったりして・・・。
(注1:変えたのが神様かどうかはわからないが、
この世の出来事は全て神様の仕業、という考え方なら、
こういう言い方でもいいのだと思う・・・)

まぁ、いいか。
神様のする事に抗議しても仕方ない。
ワシは神様には逆らわない生き方だ。
強いモノにはへつらおう・・・。
(注2:人間の権力者は強いとは思ってないから、
ワシは平気で逆らうし、モンクも言う)

故御師匠様が媒体となって変えてくれた。
今はそう思っている。
普通の人より劣っていても生きているのだ。
少しはマトモにならなくては可哀想だ。
そう偉大なナニモノかが、キッカケをくれた。
氣功師の体とはそんなものだ。

氣が出る能力と氣功師の体は次元が違う。
これは説明して解る話じゃない。
氣功師の体の人は最初から解る。
今回の「半魚人」は、その違いの一端を書いている。
雰囲気で、何となく(違いを)感じてくれればいい。

体が変わったら、世界が変わった。
二つの世界を行き来できるようになった。
海と陸だ。
ワシは半魚人を自覚し出した。

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半魚人・1

2005-06-06 22:40:03 | Weblog

ワシは幾度も目からウロコが落ちる。
あまりに多いので変だと思っていた。
そして、気づいた。
ワシは・・・半魚人だった。

十代の終りから精神世界という怪しい世界を観た。
あるいは「観た、と勘違い」してきた。
ウソや勘違いが判断しにくい世界だ。
理解段階の違いで観えるモノが変化する。
「これが真実!」などと力んでしまう。
困ったもんだなぁ・・・

怪しいけれど、ウソだけでもないようだ。
知ると世界の観方が変わる。
いろいろが解決することもある。
かえって迷うこともある。

知ろうが知るまいが、迷うのは同じ割合だ。
ここが観えないと迷っていることにも気づかない。
精神世界スキスキ人間の陥りやすい点だ。
知ったことで、自分が一段高くなったと錯覚する。
精神世界は錯覚だらけの世界だ。

後年、二人の御師匠様と御縁をいただいた。
すると、ポロポロ、ボロボロとウロコが落ちる。
目だけじゃない。
耳も(それは・・・ミミクソ・・・)
身体も(それは・・・アカかもしれない)

落ちるウロコが沢山あるのなら、
ワシがウロコだらけ(アカも)だったのは事実だ。
「ワシ、未だ、人間じゃなかったのか・・・」
そう思っていた。
ならば(マトモな)人間になるのが目標だと思っていた。

ある時、この世の仕組みがヒネクレだと知った。
神もヒネクレていると知った。
ヒネクレはワシの得意分野だ。
体質として持っている。
「そうか、ワシは神に選ばれた子なのかぁ」

とは思わなかった。
理由は謙遜でも、冷静だったからでもない。
(ヒネクレた性格だけで神の子とは思わんな、普通)
堕落した人でいる方が楽だからだ。
偉く立派になんて、絶対、絶対なりたくない。
普段使わない根性や努力を使っても、グレてやる。

「人間じゃなくてもいいやぁ」
実は、そう、思ったのだ。
この地球上には多種多様な存在がある。
人間が特別に偉いわけでもなさそうだ。
むしろ・・・偉くない方の優勝争いをしているかも。
「人間以外でもいいやぁ」


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献血考・4

2005-06-05 22:52:37 | Weblog

献血後に体と対話する。
ヨガは「結び」だが段階がある。
初期段階に体と心の結びがある。
慣れれば、体の声を聞くことができる。
たいして難しいことじゃない。

「難しい」のは「難しいと思う心」があるからだ。
「難しいと思う心」は肩の力を入れてしまう。
たいして難しくないモノを、難しくしてしまう。
自然体になる事を目指しているのだ。
無駄な努力はいらない。

献血後の体は嬉しがる。
ワシは何故だか解らなかった。
「お、お前(ワシの体)は、マゾヒストか?」
大切な血を抜き取られたのだ。
少し、はしゃぎ過ぎじゃないのか?

(注:以前は自分の脈で自然に献血していたが、
最近は機械が吸い出すようだ・・・。
これって、「氣」の観点からは問題アリだ。
今の西洋医学は血の「生命の氣」の部分を理解してない。
自分から流れ出る血の方が生命は多いのに・・・)

この世がヒネクレている事。
「生命」がヒネクレている事を知ると、
献血後、体が喜ぶ理由が解った。
「コ、コイツ等(注:ワシの肉体です)、
新しい生命が生まれ、はしゃいでいる・・・」

血が出て行き、新しい生命が発生する。
一見、矛盾。
嫌な上司が転勤すれば、職場は活気付くかもしれない。
(注: ワシは組織勤め経験ありませんので想像です)
しかし、嫌な上司でも役にたっていたはずだ。
(ん? そんなことはない? 役立たずが多い?
ま、まぁ、建前論でもいいから・・・)
力(血)が抜けて、活気付くのはヒネクレているからだ。

「生命」と付き合うと、矛盾が起こる。
というより、今までの固定概念が間違っていたからだ。
矛盾はない。
あるいは、矛盾が、当たり前。
どっちだっていい。
「生命の氣」は次元を超えて発生するのだ。

ワシの体が生命の活気に喜んでいる。
同時に、何処かで使われる、
嘗てワシの体にいた(少しいいかげんな)血達。
共鳴して喜んでいるのを感じるのだ。

献血って、
わるくないぜ。
体も心も。
自も他も。

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献血考・3

2005-06-04 20:59:38 | Weblog

大切な血(思い)。
温かい血(思い)。
だから、自他の役に立つ。
冷たい思いは、自他の役に立たない。

大切な血(思い)を自分の為に使う時、
捨ててはダメだ。
死んじゃうぞ・・・。
だが、他の為に使う時には、
捨てれば更に活かす事ができる。

自他では意識の使い方が逆になる。
この点が理解され難いようだ。
(深い表現なら、自他の意識の使い方は同じになる。
しかし、深く自分を使える人はマレなのだ・・・。
理屈で解っても、実行は難しい。
他より、自の方が、難しいのだ)

親が子供を思う。
とても大切に温かく思っている。
それは・・・親側の気持ちだ。
それは大事にとっておこう。
自分の為だから。

同じ思いを、そのまま子供に使うと、
子供は自立し難くなるのだ。
自立できない子供は苦しむ。
子供は「大切な他」なのだ。
他に使う時には、捨ててこそ活きる。
親心は捨ててこそ、親心が活きる。

本当に大切だから捨てる事ができる。
「捨てる」のは「冷たくする」のではない。
「厳しく」するのでもない。
「無関心」になることではない。
相手を最高に思えば、捨てる事ができる。

捨てなければいけないわけじゃないが、
捨てれば更に活かせる。
同じ献血をするなら、捨てる方が元気になる。
使われる相手が、更に元気になる。

そして、ここからが不思議な仕組みだ。
「生命」は不思議に満ちている。
中途半端な知識で語るモノではない。
ワシは「不思議な仕組み」を「ヒネクレ」と表現する。
この世は、ヒネクレている。
生命の仕組みは、この世の仕組みと相似している。

血は「生命の氣」を宿している。
捨てれば、不思議の仕組みが動く。
(捧げると表現するのは、少し恥ずかしいだろ)
生命は捨てると、流れ込んでしまうのだ。


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献血考・2

2005-06-03 19:30:26 | Weblog

誰でも心の底に共通して、ある思いがある。
「誰かの為に役立ちたい」
素直に表し行動に移せる人と、そうでない人がいるだけだ。
誰でも、他の役に立ちたいのだ。
誰でも、優しさがある。

「誰かの為に」
この思いは大切だからこそ、捨てる。
この世は、捨てると実になる仕組みなんだ。
「自から離れる」から「他の為」になる。
当たり前なんだけど、気づき難いよね。
特に大切だったり、培ったりしたモノは捨て難い。

キリちゃんも何処かで言っていた。
「一粒の種、もし死なずば。もし死なば」
同じ種でも、捨てるか、捨てないかで結果が違うのだ。
大切だからこそ、捨てると役に立つ。
とても深い言葉だと思う。
理解できても実践が難しい言葉だ。

献血はどんな思いがあっても、実行するのが優先。
その上で、更に役に立つ方法がある。
同じ献血だから、目に見える成分に変わりは無い。
だが「いのち」は成分以外のモノで変わる。
「氣」というヤツだ。

「氣」を呼び、発生させる方法は幾つもある。
その一つに「意識」がある。
「意識」の使い方も幾つもある。
その一つに「捨離」がある。
キリちゃん(イエス)の言葉が示した内容だ。

「大切な自分の血を犠牲にして」という思い。
間違いなく「大切な自分の血」だ。
だが「犠牲」は間違いだ。
「捨離」は犠牲じゃない。
活かす方法だからだ。

捨てられなくて、する献血。
捨ててしまえる献血。
「自分の温かい思い」の話だ。
「温かい思い」だから捨てる。

もうお前(注:B型の血だ)はワシの血じゃない。
これで親子の縁を切る。
(お、親子かなぁ?)
何処に行こうが好きにしろ。
元気でありゃ、それでいい。

こうしてワシから独立(?)した血は、
何処かの誰かの体の中で生きる。
少し・・・心配もある。
輸血された人にも影響がでる。
いいかげんな性格になるかもしれない。


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献血考・1

2005-06-02 18:56:49 | Weblog

「献血」のテーマで03年5月に書いた。
(注1:本館HP コラム1にあります)
あれから2年・・・。
相変わらず、同じ時期に献血している。
年3回の献血は定期健康法の一つだ。

03年は「若返り」の面から献血を書いた。
意識の方向で現象は変化する。
この世のシステムは「ヒネクレ」である。
このことを看破すれば、活用できる。
生命を奉げれば、生命は流れ込んでくる。
生命を欲しがれば、老化は進む。

「若返り」も同じだ。
「若返り」を欲しがる行為では
中々「若返り」は上手くいかない。
だが「若返ってしまう」行為なら出来る。
どうでもいいけど・・・
若返ってしまうんだよなぁ・・・。

何度も書いている内容と同じだ。
捨てれば得てしまう・・・。
離れれば、観えてしまう。
この世のシステムはそう出来ている。

とはいえ、心は得意、不得意分野がある。
ワシは「いのち」が専門だ。
専門でプロだから、簡単に捨てられる。
もっと大きな世界がある事を知っているからだ。
だから、ワープ(時の瞬間移動)も可能だ。

不得意分野は捨てられない。
何かを解放してないから不得意なのだ。
何かに「こだわり」「引っかかって」いるのだ。
ワシの場合・・・愛人だ。
(これは冗談ですよ~)

ワシは家族も愛人も友人も「いのち」も捨てられる。
(注2: 深読みして下さいね。)
しかし貧乏道宗家某亜流の立場を捨てられないでいる。
道を捨てられないのだ。
だから、金持ちになれない・・・。
(成金願望があるわけね・・・
貧乏道なんてエラソウに書いてもナサケねぇなぁ。)

このように話がドンドン横道にそれるのも、
雑記テーマなど、いつでも捨てられるからだ。
(って、威張れることじゃないなぁ・・・)
そう、献血の話だった・・・。

どんな理由があろうとも献血は献血だ。
心の中までモンクをいう筋合いはない。
キチンとした血液を必要として「場」がある。
緊急医療は理屈を話している時間がない。
だから、献血の心構えを説いているわけじゃない。
まずは献血に参加してくれればいい。


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芒種・夏至

2005-06-01 19:07:30 | Weblog

今月の24節気だ。
黄経75度「芒種」
(アブネェ。。。
とても下品なダジャレを書きそうになった・・・
ツキが変わったのだ。
「氣」を引き締めよう)

人間の基本食として穀物がある。
その種まきの時期という意味だが、
日本ではもっと早い時期に蒔くようだ。
競争社会は早い方ばかりに価値を置きたがる。
早くちゃダメなコトもあるのに・・・

下品な想像したなら、アナタが下品なのだ。
もちろん下品な人には魅力がある。
魅力が無いのは、品の無い人だ。
下品と無品は区別してみよう。
ツキが変わって「氣」を引き締めようとしたのに、
ちっとも下品が変わらんワシだが、魅力も無い・・・
今日は・・・御筆先様、有給休暇らしい・・・

ジューンブライド・六月結婚。
種蒔きの時期に最適なのかぁ・・・。
(オ、オイ・・・そ、そんな即物的な・・・
ロマンチックは何処に行った・・・)

実は、既婚の最高女神Junoの月だからなのだ。
だが既婚の女神はキマジメで嫉妬深い。
人生にはイロイロある。
間違いを許さぬキマジメ女神に守られても、
幸せになれないかもしれないぞ。

黄経90度「夏至」
ご存知、昼が最も長い一日。
(白夜はどうする?)
「陰陽氣」からなら、
「陽極まり、陰生ず」となる。

意外に思われるかもしれないが、
夏至は陰氣が生じ、次第に大きくなる日だ。
万物は流転しているのだなぁ・・・。
陰陽にこだわっても流転しているのになぁ・・・。

風水・氣学・易学・占学
それぞれ趣味で追いかけるのはいい。
だけど「流転」がこの世の理だ。
固定した考えは無理がある。

六月の花嫁も一月の花婿も
生涯独身も多情多婚も
流転している。
誰にでも、同じ条件で幸せはある。
大丈夫だぁ。


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