水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

富豪・1

2005-06-20 21:11:24 | Weblog

経済的に綱渡りをしていた。
綱に油が塗ってあった。
自転車操業から一輪車に変えさせられた。
一輪車のタイヤの空気を抜かれた。
時々、銀行が棒で後ろから突っつく・・・。

常に綱渡りをしていれば、これが日常だ。
落ちないように、なんて気は使わない。
スリルは愉しむ為にある。
ワクワクを毎日愉しめる。
結構・・・ラッキーかも・・・。

誰だって、いつ落ちるかわからない。
石橋が安全というわけじゃない。
石橋だって壊れて落ちるんだぜ。
磐石のように見えるだけだ。
生きるのは誰でも同じ条件だ。

とはいえ嫌味を言われるのは面白くない。
関係ない、と切れない相手だ。
銀行と縁など結ぶもんじゃない・・・。
もちろん、悪いのはワシの方だ。

未来はわからない。
石橋が安全でないように、
綱渡りが幸運に変わる事もある。
何時、何が起こるのか、誰にもわからない。
予言も占いも不確定要素が多すぎるのだ。
全てウソとは言わないが、
本気に受け取るのは愚かだぜ。

何が起こるかわからない。
ある日、億の金が降って来た。
気まぐれで買った宝くじ。
綱渡りだから、買った宝くじ。
ワシだって、弱気になり、宝くじも買う。

交通事故も飛行機事故もあるんだ。
宝くじだって当たる事がある。
どんな人だって、結婚できる・・・。
(励ましになってねぇ・・・)

とりあえず、銀行とは縁が切れた。
(借)金の切れ目が縁の切れ目だ。
もう・・・アナタ(銀行)と一緒に歩きたくない。
アナタと出会って幸せだった、とは思わないが、
お礼の言葉は心から言おう。
「過ぎてしまえば、結構愉しかったぜ!」


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代償・6

2005-06-19 22:14:47 | Weblog

お金は「代償の代用」ではあるが、それだけじゃない。
お金は多くの人の「思い」を込められる。
「人の思い」は、ほとんどがワガママだ。
だから「お金」はどんどん性格が悪くなる(ハハハ)。
だけどお金の話は、また後で・・・。

代償は「離捨」のシステムだ。
離す・放すと得てしまう。
得ようとすると、逃げてしまう。
形だけ、放しても代償にならない。
惜しみながら捨てても代償にならない。
二兎を追う者、一兎も得ず。

「離捨」は「感謝」で手放すモノだ。
別離は感謝すると、得る。
別れたオトコ(オナゴ)に未練を残すと、
良縁を得ることができないぞ。

「ありがとうね。バイバイ」
あっさり別れよう。
あっさり捨てよう。
その方が、お互い幸せになる。
(話が・・・ちょっと横道だ・・・)

命を差し出す行為を「奉仕」というが、
簡単にできるわけじゃない。
「代償」は命の代わりだ。
それで通常は充分なのだ。

矛盾した表現だが・・・
生命の回復に命を投げ出す。
すると変化がワープする。
奇跡の仕組みは単純だ。
この世の仕組みはヒネクレている。
ヒネクレているが、ワンパターンだ。

でも、命を(あっさり)投げ出せるのは、
モロモロの条件が無いと通常はできない。
未練無しで命は・・・投げられないよね。
だから「代償」を使う。
「代償」って、使う側の為なんだ。

遠慮なく「代償」を使おう。
命は一つしかないし・・・
誰でも「代償」で支払っている。
そして「代償」を受け取っている。
お互い様だ。
あっさり、さっぱりとした交流をしようぜ。


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代償・5

2005-06-18 21:00:02 | Weblog

ワシは「代償」に時間は関係しないと思っている。
というか・・・「思い」は時間を超える。
つまり、今、この場で具体的な代償行為が無くてもいい。
代償行為が出来ない状況も沢山あるのだ。

代償の代用、お金が無い場合はかなりある。
(我家では慢性的に大ピンチ・・・もう慣れた・・・)
それでも「代償」はできる。
「代償」の本質は「思い」だからだ。
全くお金が無くても、病は回復できる。
大丈夫だ。

お金は魔力がある。
有っても無くても判断を狂わす。
息を吐いて、冷静になろうね。
有ったら、キチンと使う。
使う事によって、代償が出来る。

無かったら、キチンと「思い」を残す。
代償は済んでなくても、借りる事ができる。
「思い」が借契約書だ。
いつか、出来る時に完結すればいい。
「代償」は堂々と借りていいのだ。

社会的にはどんな事でも誤魔化す事はできる。
だが内面の「思い」は嘘がつけない。
その内面の「思い」が「代償」だ。
だから「代償」は魂の契約書になる。

社会的な約束は破っても大丈夫だ。
トラブルがあるだけだ。
(それがメンドウなら破らない事だね)
だけど魂の契約書を破ると・・・
とても大きな反動が来る。
とても、とても割りが合わない。
絶対破らない方がいいぞ。

故御師匠様や故関先生はそれを知っていた。
だから「治療費を貰え」と言った。
治療師の生活の為じゃない。
故御師匠様はあくまでも患者の味方だ。
患者の回復の為を教えてくれたのだ。
「本気で治すなら、キチンと貰え」と言った。

ワシも今なら理解できる。
だがクライアントに細かな説明はしない。
有るのに使わない人もいる。
それは、それでもいい。

「金より命」と誰でも言うが、
実際は「命より金」を大事にする場合が多い。
そういう生き方もアリだと思っている。
いろいろなパターンを経験する為に生きている。


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代償・4

2005-06-17 20:10:28 | Weblog

ワシが「氣功療法院」を開院する前の話だ。
いろいろな人の体に氣功療法をさせていただいた。
ワシの経験をさせていただくのだから料金は無し。
とにかく、あらゆる事が初めてだらけだった。

いろいろな体がある。
いろいろな家庭がある。
いろいろな考えがある。
いろいろな悩みがある。
そして、いろいろな反応があった。

まだ氣功の御師匠様が存命の頃だ。
「治療費をもらわなくてはダメだぞ」
そう言われていたが、イマイチ意味を理解できなかった。
自分の能力も不明のままだ。
料金なんて言い出せない。
経験させていただく、こちら側が払いたいくらいだ。
(今でも、学びが大きいと、そう思う事がある)

数年前に亡くなったが、ワシの尊敬する人がいた。
関英夫先生だ。
(亡くなる一週間前に手紙をいただいた・・・)
故関先生の御著書の中にも書かれていた。
「適切な治療代は患者の為である」
初期は、本当の意味が解らなかった。

「代償」という意味を理解するようになり、
「お金」の意味が理解できるようになった。
ワシは理解できるが・・・
クライアントが充分理解しているわけでもない。
料金はワシの為じゃないのになぁ・・・

ワシがこんな体(氣功師)になる前の話だ。
ワシの母上は持病があった。
原因不明だから病院では治せない。
健康食品やら健康器具やら買った。
とても高額だった。
だが・・・変化は無かった。

「お金が代償」となるわけじゃない。
「代償としてお金」が使えるだけだ。
変化を求めて、幾らお金を注ぎ込んでも
「代償」でなければ変化はない。
変化は相手との交流・共鳴が前提だ。

変化できる相手と出会い交流した時、
「代償」は最後の条件になる。
そういう相手と出会えるのは
いろいろな意味を含め・・・「縁」だ。

例えば病気回復の場合
治療側が差し出している「病を受け取る覚悟」
(注:覚悟のある治療側のみの話ですよ~)
それに対応する「代償」はクライアント側だ。
単純に金額の多寡じゃない。
お金に乗せた「思い」が「代償」だ。


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代償・3

2005-06-16 15:24:57 | Weblog

お金は変化を促進する「代償」だ。
変化しないモノを購入するのならどうでもいい。
例えば、100万円の車を買う。
騙されて200万を払ってもいい。
オークションで10万円で買ってもいい。
高くても安くても無料でも、どうでもいい。
車は変わらない。

しかし変化を求める場合は違ってしまう。
「○○が欲しい」と「○○になりたい」の違いだ。
そして未来は変化によって方向が決る。
濃く生きたいのなら「代償」が必要だ。
何でも安けりゃいいわけじゃない。
有料より無料がいいわけじゃない。

有料と無料の違い。
お金の有無じゃないのだ。
「変化」の濃さの違いだ。
タダではタダ分の変化しかない。

ボランティアを単純に無償とする愚かさ。
社会を住みよくしたいのなら、
もっと深く物事を観て欲しいと思うぜ。
(反論があるだろうなぁ・・・
まぁ、解る人には解るから、いいか・・・)

濃い変化が必要な一つに病気回復がある。
積極的な健康がある。
回復や健康をモノと同じに考えてしまうと、
少しの変化で止まってしまう。
単純に金額の多寡ではないが、
「代償」をせずに変化は濃くならない。
(双方に「思いと行為」があるのが前提。
インチキや能力の少ない相手は論外)

何でも金額の多寡で判断する風潮になった。
「お金は多く欲しい。
払うのは少ないほどいい。」
本気でこう思っている限り、
味気ない未来しか訪れない。

「代償」という意味。
自分の人生の変化の代償だ。
お金は有効に使うモノだ。
変化しないモノに使うのか?
変化する為に使うのか?

生き方を変える。
誰でも変える事ができる。
それには代償が必要だ。
しかし「お金」が必要という意味ではない。
「お金の代償」も山ほどある。


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代償・2

2005-06-15 20:58:32 | Weblog

真のプラスやマイナスの判断は容易ではない。
自分勝手な「プラス」が「真のプラス」とは限らない。
それ以前に、プラスとマイナスがあるかどうかも判断できない。
人間の段階は・・・アホなんだ。
だから、希望はもてる。

プラス・マイナスは判断し難くても、
明るい・暗いは判断しやすい。
未来はわからなくても、
「明るく思えれば、その時は明るい」
これは、当たり前だ。

未来は「今」に隠れている。
過去も「今」に隠れている。
「今」この瞬間は、結構幅がひろい。
だから、いつでも、希望が持てる。

多種多様な生き物が、それぞれ「思う」。
自分だけが優先して思い通りになるわけがない。
思い通りにならなくても、今を生きる事は出来る。
今を明るくする事は出来る。
する、しないは本人の行いだけだ。
たまには暗くても風情があるし・・・。

出会いと交流に影響し合う、
お互いの、その「思い」
お互いの、その「行い」
そして未来の形が創られる。

自分が積極的に変わろうとするなら、
「思い・行い」の「流れ」を濃くする必要がある。
濃くする方法の一つが「代償」だ。
この「代償」が人間の社会を形成してきた。
「代償」をあまり使わぬ他の生物との違いだ。

変化の為の代償として、いろいろ用いる。
労力・生命・時間などだが、
近代になり「お金」が多く使われる。
代償の共通代用だ。

共通の価値を代用するお金は便利だ。
だが便利すぎて、あくまで「代償」だった事を忘れる。
その為「お金」だけを求める本末転倒が起きた。
今では、本末転倒が「常識」になった。
人間って・・・かなり・・・変わっている・・・。

どんなに変わっていようが、そんな事はいい。
趣味で集める「お金」も、それぞれの勝手だ。
だが「変化」を求める代償だ。
代償を使わず、変化だけ求める風潮が多くなった。
それでは、変化し難いぞ。


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代償・1

2005-06-14 19:25:37 | Weblog

人と人が出会う。
人と人以外が出会う。
人以外と人以外が出会う。
そこに交流が生まれる。
この世は「出会いと交流の場」だ。

出会えば、否応なく流れるモノがある。
ある人は、それを「氣」と言う。
ある人は、それを「因」と言い、
ある人は、それを「果」と言う。
森羅万象は「流れ」で創られている。

出会えば、否応なく流れるモノがあるが、
その「質」や「方向」は決ってない。
影響し合う、当事者の「意思」による。
「思えば叶う」というのは未熟なセリフだが、
(半生知識者を騙す場合にも使われる。
ほとんどは単なる受け売りで話している)
「思えば変わるキッカケにはなる」

ワシは病からの回復を目指す人にこう言う。
「思っただけでは変わらない。
行動に移して、変わり始める」
この世は、あの世じゃないんだ。
「思えば変わる」のはあの世の法則だ。
この世は「行い」が優先する。

更に(当たり前を)言う場合もある。
「思い通りに叶うとは限らない。
しかし、行えば、必ず何か変わる。
マチガイナイ!」

更に更に(当たり前を)言う場合もある。
「プラスに思えばプラスの出来事。
マイナスに思えばマイナスな出来事。
そんなに単純じゃないからね。」
理屈だけの甘チャンの言葉を信じて、
希望を無くす人が多いからだ。

希望は無くす必要がない。
「未来はわけがわからない」からだ。
生命力が弱ると、どうしても暗く考える。
「マイナスしか考えられないから、マイナスが起こる」
そんな事はない。安心してくれ。
それでも「いい事」は起こる場合もある。

生命力を活性化する方法は幾つもある。
山ほどあるけど、行うのは本人。
その中の一つに「代償」がある。
「代償」の使い方がある。


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半魚人・8

2005-06-13 20:59:10 | Weblog

半魚人は生命を活性化する能力がある。
海が生命を活性化するのだから、当たり前だ。
努力や精進して得た能力じゃない。
魚人の体なら当たりまえの能力だ。

例えばアメリカの5歳の子供は英語を話す。
フランスの子供はフランス語を話す。
努力で覚えた能力じゃない。
他国の頭のいい人が努力しても話せるようになる。
しかし、努力無しの子供にはかなわない。
比べる事が出来ない当たり前の能力だからだ。

人間が努力して海中に潜れるようにもなる。
けれど無理している。
いつまでも潜っていられない。
無理は生命を弱化するだけだ。
魚人は無理も努力も無しで海中に潜れる。
海中にいると、生命が活性化する。
違いをわかって下さいね。

泳げる事、潜れる能力がある事と
魚人の体は別次元。
比べる事が出来ない。
ある意味・・・申し訳なく思う。
努力し精進して潜れても、
根性無しのワシ等と同じ能力にはなれない。

どの分野でも同じだ。
能力は不公平なのだ。
半魚人のワシにダンスの能力は無い。
経済的能力も地位獲得能力も僅かしかない。
半人前の人間では努力しても無理なのだ。
(努力もしないけど・・・)

ゴメンネ。
海中に関しては、魚人でなければ解らない事が多い。
立派な人間の間違いを一々指摘しないけど、
あまり出しゃばらない方がいいと思う。
海は・・・そんなに甘くない。
結構、塩辛いんだ。
思い込みだけだと、シッペ返しがある。

海を目指そうとする人間がいる。
趣味の段階でいるならいい。
海中に潜るのも趣味ならいい。
でも気づいて下さいね。
陸から海には住めない。

半魚人は
ある日、半魚人だった事に気づく。
気づいた半魚人なら、
海中に潜っても溺れない。
そして、自分の役目を普通にこなす。


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半魚人・7

2005-06-12 19:17:54 | Weblog

海を語る人間の勘違いがある。
海は真実の世界だ、と思っているらしい。
海も陸も真実だよ。
あるいは・・・
海も陸も多種多様だよ。

基準が違う。
海は「真実」なんてどうでもいい。
ただ、ある。
それだけだ。
それで充分だと思えないかなぁ?
魚人になれば解る。

「生命」に理屈はいらない。
真実を求める必要もない。
だから「正・誤」をもちださなくていい。
嬉しい・愉しい・気持ちいい、が方向だ。
「生命」は誰でも判るようにできている。

「真実」は動かない(らしい・・・)が、
「生命」は常に動いている。
「生命」は「いいかげん」なのだ。
海の世界は「いいかげん」なのだ。
海の世界は不マジメなのです。
わかって下さい。

頭のいい人間やマジメな人間は魚人に向かない。
もちろん悪気は無い(と思う・・・)が、
「生命」をいじってしまう。
すると自由(自然)が栄養の「生命」は弱化する。
気づいて下さい。
直接「生命」に触れる役目には不適です。
できれば・・・手を引いてほしい・・・

これは頭の悪い根性無しの半魚人のつぶやきです。
でも海の中に入れます。
海で半分暮らせます。
そういう体ですから、当たり前です。
理屈や法則や知識は知らないけど、
海の世界を肌で知ってます。

半魚人は、話が苦手。
魚貝海草は好き。
獣肉は苦手・・・。
いつも裸だから、隠す事が苦手。
いろいろが、少し・・・足りない。。。


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半魚人・6

2005-06-11 20:23:22 | Weblog

「文明」は陸の生物の特徴だ。
「自然」は海の生物の特徴だ。
どちらも進化する。
あるいは、変化し続ける。

だが「文明」は進化を促進する。
変化・進化を急ぐ。
人間は「進化したい」と思っているからだ。
急いだ先に何があるか、わからない。
あまり・・・そこまでは考えないみたい。

「自然」はゆっくり進化する。
基調が「調和」だから急がない。
急げない。
「なるように、なるさ。ケセラセラ」
「アッシラーム。神のおぼしめし」
少なくても・・・根性は無いな・・・。

陸が急いで進化したがっているのに、
海は急ぐのが苦手だ。
だが陸も海も同じ地球の一部だ。
どうしても、影響がある。
ノンビリ屋の海。
セッカチ屋の陸。
海側が押され、侵されてしまっている。

陸上の人間が海に口を出す。
海に関心がある人間はマジメが多い。
マジメは「正・誤」を基準にしている。
そして誤りを許せない性癖を持っている。
だから・・・攻撃的になる癖を持っている。
「正・誤」は立つ位置によって違うのに・・・。

魚人は攻撃も反撃も苦手だ。
だから・・・少しづつ引っ込む。
根性が無いのだ。
議論は苦手だ。
というより、議論する意味がわからない。

海は「正・誤」を基準にしていない。
海は「生命」を基準にしている。
だから・・・魚人は思う。
海の解説をする人間に思う。
「そ、それ、違うんだけどなぁ・・・」
声は・・・小さい。

ワシは半魚人。
ワシと同じ半端人間も多い。
皆、声は小さい。
(ワシは大きい方かもしれない)


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