愛野町のお隣、雲仙市吾妻町にある「守山城址」にやってきました。
「守山城は、室町時代初期ごろ(1400年ごろ)在地の土豪守山氏によって築城され、代々その居城でした。
守山氏は早くから肥前の雄・有馬氏の外城を守る重心として活躍し、戦功をたてていますが、諌早の西郷氏や神代氏と行動を共にすることも多く、有馬氏に反旗を翻すこともありました。
特に佐賀の龍造寺が勢力を拡大し、島原半島に侵攻するや神代氏等と共に龍造寺の軍門に下りました。
沖田畷の戦いにおいて、龍造寺が島津・有馬の連合軍に敗れてから暫くの間、守山城は島津軍に接収されその前進基地として島津の猛将たちが加番しました。
天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の島津征伐によって再び守山氏の居城となりましたが、天正十七年ごろ神代氏とともに有馬軍の謀略により夜襲をうけ、この城で一族郎党ともに全滅し、廃城となりました。
記録によると『守山氏は讒(ざん)にあって誅殺され、留守を守る土黒(とぐろ)等、城に籠り屠腹(とふく)して果てる』とあります。」(「と共に」が多いな。)
また、守山城は「切り通しの古城」とも呼ばれ、高地の中央を掘り起こして本丸と二の丸を吊り橋で結んでおり、庄の台地には出城として向城があったそうです。
現在は、守山城址公園として本丸部分が公園化されています。(公園の写真を撮ってくるのを忘れた!)