陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

捜し物はなんですか

2008-05-24 23:16:40 | weblog
電車から降りるときに、切符が見あたらない、というのは厄介なことだ。何度かそういう経験をして、なるべく入れる場所を決めておくようにしているのだが、ついうっかりそこ以外の場所に入れてしまったらもう大変だ。いくつもあるポケットを順番に探し、そこからかばんのポケットや財布のなかを探し、それでも見つからなければ、かばんの中身をいちいち改めなくてはならない。薄っぺらい切符だから、本のあいだにでもはさまってしまうと、見つけるのは一大事なのである。

それでもどうしても見つからない、となると、仕方がない。改札で「すいません、切符を落としてしまったんですが」と駅員さんに頭をさげる。
「どこからですか」
「××からです」
「いくらでした?」
「△△円でした」
「今回は結構ですので、つぎからは気をつけてください」
たいていこういう問答になって、すいませんでした、と頭を下げて、改札を出る。

このときに払うつもりで財布を手に持っているのだが、実際にお金を払ったことはない。自分でもときどき財布をにぎっているのは、単にポーズのような気がしないではないのだが、実際に請求されたら、もしかしたらちょっとムッとしてしまうかもしれない。もちろん悪いのはなくしてしまった自分なのだが。

ところが家に帰ると、あれほど探して見つからなかった切符が、胸ポケットのポケット側(身ごろではないほう)の裏地にぴったりとはりついていたりして、ひょいと見つかるのである。決して意外なところから出てきたりはしないのだ。考えてみれば、そんなに突飛な場所に入れるはずがないのだから、それも当たり前のことなのだが。

探しているときというのは、ものは見つからないものだ、としみじみ思う瞬間である。なんで探していないとき、こんなに簡単に見つかるのだろう。

本のなかでも「あれはどこにあったか」と探しているときは、なかなか見つからなかったりする。
逆に、何を調べるわけでもない、でも、何かが見つかるんじゃないか、と思ってぱらぱらめくっているときというのは、たいてい、ああ、わたしはこれを探していたんだ、ということが、向こうの方から見つかるように思うこともある。

このまえ、啄木について何か書こうと思ったのも、そんな感じだった。
何か書こう、と思って、ばくぜんと本の背表紙を見ているときに、ひょいと見つかったものだった。

なにかひとつでも、気持ちにひっかかるものがあったら、と思います。
更新情報も書きました。

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