陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

あいづちは交通整理

2008-05-12 22:56:19 | weblog
ときどき何を言っているのかわからない人がいる。
先日、向こうから歩いてきた中年女性にいきなりこう話しかけられた。

「わたし、ずっと線路沿いの道をあるいてきたんです。それなのに道がね、あっちの交差点でこっちにぐーっと曲がってるでしょう、だから全然わからんようになってしまってね。あれ、ほんまにこまりますね」

いったい何ごとかと思えば、話を綜合するに、駅へはどう行ったらいいんでしょう、ということが聞きたいらしいのである。それだけのことなのに、話はあちこち飛んで、わたしが問われているのは「駅までの行き方」であると理解するまでにしばらくかかってしまった。ふり返ってみると、その人の話の力点は、どうして自分が道がわからなくなったかの説明にあったようだ。ふだんの自分は道がわからなくなるような人間ではない、ということをわたしに印象づけようとして、結果的にわけがわからなくなってしまったのである。

最初はふつうに始まっても、話をしているうちに脈絡を失って、自分でも「ええっ……わたし、何が言いたかったんだっけ」と、収集がつかなくなってしまう人もいる。

そういうときに聞き手が「どちらへいらっしゃりたいんですか?」とか、「それってこういうこと?」とかと、交通整理をするように、話を誘導していくことができれば、話し手も、パニックに陥ったりすることもないだろう。だが、こういうのはあいづちと言えるのだろうか。

太宰治の短編「饗応夫人」のなかにはこんな一節がある。

「住むに家無く、最愛の妻子と別居し、家財道具を焼き、衣類を焼き、蒲団を焼き、蚊帳を焼き、何も一つもありやしないんだ。僕はね、奥さん、あの雑貨店の奥の三畳間を借りる前にはね、大学の病院の廊下に寝泊りしていたものですよ。医者のほうが患者よりも、数等みじめな生活をしている。いっそ患者になりてえくらいだった。ああ、実に面白くない。みじめだ。奥さん、あなたなんか、いいほうですよ。」
「ええ、そうね。」
 と奥さまは、いそいで相槌を打ち、
「そう思いますわ。本当に、私なんか、皆さんにくらべて仕合せすぎると思っていますの。」
「そうですとも、そうですとも。こんど僕の友人を連れて来ますからね、みんなまあ、これは不幸な仲間なんですからね、よろしく頼まざるを得ないというような、わけなんですね。」
 奥さまは、ほほほといっそ楽しそうにお笑いになり、
「そりゃ、もう。」
 とおっしゃって、それからしんみり、
「光栄でございますわ。」

ここにでてくる「ええ、そうね。」、「そう思いますわ」「そうですとも、そうですとも」「そりゃ、もう。」というのはあいづちに当たるだろう。だが、「光栄でございますわ。」はどうだろうか。
森鴎外の「鼠坂」のあいづちも微妙だ。

「なんにしろ、大勢行っていたのだが、本当に財産を拵えた人は、晨星蓼々さ。戦争が始まってからは丸一年になる。旅順は落ちると云う時期に、身上の有るだけを酒にして、漁師仲間を大連へ送る舟の底積にして乗り出すと云うのは、着眼が好かったよ。肝心の漁師の宰領は、為事(しごと)は当ったが、金は大して儲けなかったのに、内では酒なら幾らでも売れると云う所へ持ち込んだのだから、旨く行ったのだ。」こう云った一人の客は大ぶ酒が利いて、話の途中で、折々舌の運転が悪くなっている。渋紙のような顔に、胡麻塩鬚が中伸(ちゅうの)びに伸びている。支那語の通訳をしていた男である。
「度胸だね」と今一人の客が合槌を打った。
鼠坂

「光栄でございますわ」というのは、相手の言葉を受けて、自分の気持ちを表明している。「度胸だね」も、これを言った「客」は「通訳」の話を聞いて、自分の評価を伝えている。

昨日引用した多田道太郎は、あいづちを「餅つき」にたとえ、「きねをつく人よりもむしろ、拍子おもしろく臼取りする人のほうが、仕事としてむつかしくおもしろいのではなかろうか。受け身の、従の立場のほうが、共同の仕事のなかで、より困難でより愉快味のある役割であるようだ」(『しぐさの日本文化』)といっているのだが、「拍子おもしろく臼取りする」のがあいづちであるとしたら、状況や相手によって、あいづちの範囲も変わってくるのが当然のように思える。

「そうですね」「そのとおりですね」があいづちとしてふさわしいときもあるだろうし、「へえ」ときもあるだろう、そう考えていくと、相手の言葉に対して自分はこう思う、というのを、話の主役を奪うことなく、脇役に徹しながら表明していく、相手が話しやすいように、自分の考えもさしはさんでいく、というのも、あいづちと呼べるように思うのだ。

となると、英語でも "Like who?"(たとえば誰みたいな感じ?)のような言葉は、会話ではごくふつうに挿入されるが、こう考えると、「あいづち」が日本の専売特許とはなかなか言えなくなってくるように思われる。

コミュニケーションが聞き手がいてくれて初めて成立するように、聞き手の果たす役割というのは、洋の東西を問わず大きいのである。