陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

飲んだり飲まれたり

2008-05-20 23:11:14 | weblog
わたしはたとえライトビールであろうが、カンパリソーダであろうが、アルコール関係は一切ダメなので、年に一回か二回、お酒の席につきあわなければならなくなると、楽しそうな人たちが少しうらやましくなる。

飲まないといっても宗教的な理由を初め、さまざまなことで「わたしはダメだから」と、口をつけたこともない人もいるのだろうが、わたしの場合はもちろんちゃんと実証の結果、そういう結論に至ったのである。

子供のころからナマコの酢の物とか、カラスミとか、いわゆる「酒のつまみ」と呼ばれるものが好きで、親戚が集まる席では、よく「この子は将来酒飲みになる」と何の根拠もない断言をされていた。酒のつまみが好きだから酒飲みになる、という因果言明には、かなり早い時期から疑問を感じてはいたが、やがて長ずるに、「いかにも強そう」という評価まで加わって、法事などの際に集まった親族に、毎年将来を嘱望(?)されていたのだった。

最初の実証に関しては、法定年齢に満たない時期であったので、詳細はあまりあきらかにしたくないのだが、まあよくある話で、試験前に友だちの家でみんなで泊まり込みで勉強する、と親を騙して集まって……というパターンである。コップに半分ほどビールを飲んで、苦くておいしくないな……と思っていたら、しばらくして急に心臓がばくばく言い始め、脳貧血状態になって、ぱたんと倒れてしまった。小一時間ほどして大丈夫になったが、それまでずっと横になっていたのである。ところがわたしが起きあがれる状態になったところで、もうひとり、わたしと同じくそのときがビールを飲んだ初めて、という子が、それまでぐいぐい飲んでいたものを全部ぶちまけてしまったのである。人間の胃袋にはこんなにたくさんのものが入っているのか、と感じた経験であった。その家では教科書を開くどころの騒ぎではなかったのは言うまでもない。

二度目の経験もやはり法定年齢に満たなかったのだが、今度は大学に入ったから、そろそろ大丈夫かな、と、あまり根拠もなくそう考えたのである。このときは、かなりおそるおそる、それも口当たりの良いカンパリソーダだったのだが、案の定、飲んで十五分ほど経ったら、やはり脳貧血を起こしてしまった。さすがにあらかじめ心づもりをしていたので、倒れるような事態にはいたらなかったが。

やがておおっぴらに飲める年齢になったが、おそらく脳貧血と法定年齢のあいだに因果関係はなかろうと思うと、三度目を試してみる気にはなれずにいる。脳貧血は起こしたことのある人であればわかると思うのだが、一時的なものとはいえ、かなりそのときは苦しい。だから、きっとアルコールとわたしの親和性は低いのだ、と思うことにしている。

だからわたしは酒の席でもまったく同じ人格のままなのだが(当たり前だ)、たまにアルコールが入ると人格が変わる人を見かける。ふだんは寡黙な人が、急に饒舌になったり、ふだんから説教臭い人が、タガがはずれるほどに説教臭くなったり、やたらべたべた触りたがる(ちなみに女性)人もいれば、「ごめん、あのときはあんなことを言ってほんとうに悪かった」と涙ぐむ人もいる。どちらかといえば、ふだん自制心の強い人の方が、そういうときの落差が大きいような気がする。別に酒の席で本音が出るとは思わないし、どちらがその人の「ほんとう」かと聞かれれば、やはり日常の自制している姿が「ほんとう」なのだろう(あまり「ほんとう」という規定に意味があるとは思わないが)。あの人にこんな面があるんだ、と思うにせよ、それをあとで蒸し返して、本人に言うのは反則のような気がする。

ところで、山田風太郎の小説に『エドの舞踏会』という連作短編がある。明治もまだ浅い、鹿鳴館ができて間もない時代、海軍少佐山本権兵衛が、西郷従道(隆盛の弟で作品の舞台となる時期は、西南の役以後でで隆盛はすでにいない)に頼まれて、出席をしぶる大臣の妻たちを、鹿鳴館の舞踏会に勧誘してまわる、というのがおおまかな筋である。

それぞれの章で、井上馨夫妻や伊藤博文夫妻らが取り上げられ、明治維新の大立て者たちのもうひとつの顔が描かれていく。
そのなかに伊藤博文のあとに首相になった黒田清隆の章がある。

この黒田清隆が酒を飲むと人格が一変する、というより、ひどい酒乱なのである。

維新時の北越戦争、函館戦争の指揮を執り、西南の役には熊本城攻囲の敵を総体客におちいらせた衝背作戦の将となったかがやかしい軍歴を持ち、維新後は、みずから渡米して、ケブロン、クラークなどアメリカでも一流の偉材をひっぱってきて、北海道開拓のいしずえを築くという大功をたて、現存する薩摩人中第一の人物と目されながら、根まわしに巧みで万事ぬけめのない伊藤井上などにまんまと先を越されて、いまのところ中枢から押し出されたかたちなのは、一にも二にも酒のせいだといわれる。

 それは当人もきにしていて、宴会でも徳利の三本目くらいになると、「これから了介十分頂戴いたしたいと存ずるので、みなさん、あとはどうぞお構いなく」など神妙に挨拶するのだが、あっというまに限界を越え、すでに逃げ出して不在の人間を罵倒しはじめ、まだ残っている人間には執拗にからみ、その言辞は痛絶をきわめる。それどころか、十度に一度くらいはピストルをひねくったり、刀を持ち出したりするという。

 しかし。――

 おかしいことをいうようだが、それは清隆のある種の人の好さと弱気のせいではなかろうか、と権兵衛は考えた。
(山田風太郎『エドの舞踏会』)

その清隆が、あることをきっかけに酒を飲まなくなった。その顛末がこの章の中心なので、その点は伏せておくが(この本はとてもおもしろいのでぜひお読みください)、酒を飲まなくなって以降の清隆が、「酒が抜けると、彼は清新なアイデアマンたる前半生の特性を失って、空っぽの大入道と化した観があった」となってしまうのである。

もちろん山田風太郎の作品だから、フィクションがずいぶん混じっていることだろう。おそらくこの章の中心、なんとなくチャタレイ夫人と森番を思わせるふたりなどは純粋なフィクションなのだろうが、みずからの内の影の部分を圧殺してしまった結果、日の当たる部分も生彩を欠いてしまった、というのは何となくうなずけるのである(どこかに芥川龍之介の「酒虫」も感じられる)。

酒を飲んで人格が変わるような人は、自分のふだんは意識して抑えつけている部分を解放したりしているのだろう。そう考えると、酒乱はかなわないが、ときに酒を飲んで、そういう面を出すのも必要なことなのだろう。

それを考えると、楽しみをひとつ味わえないことが残念にも思えてくるのだが。

ぎっくりきた話

2008-05-19 22:57:19 | weblog
ぎっくり腰という言葉を初めて聞いたのがいつか、わたしははっきり覚えている。
小学校三年の時、隣のクラスの先生が「ぎっくり腰」になったから休む、という話を聞いたときだ。「ぎっくり」という言葉がおかしくて、笑ってしまったことまで覚えている。

「宿題をやるから」と親には言っておいて、部屋で江戸川乱歩とかシャーロック・ホームズとかの本を読んでいる、そこへふすまが開く。そんなとき、ほんとうに体が「ギクリ」と反応する。「ギクリ」というのは、うしろめたいことをやっていて見つかったときの自分の反応そのもの言葉だった。そこへ「ぎっくり腰」という言葉を聞いたのだ。

ぎっくり腰、という言葉から、こっそり何か良からぬことをやっていて、それを誰かに見つかって、ギクリ、そこから腰を痛めてしまった隣のクラスの先生……というイメージが浮かんできたのである。おそらく「ぎっくり腰」がどういうものか、もっと詳しくは家に帰って聞いたのだろうが。とはいえ、その先生は、別によからぬことをやっていたのではなく、植木鉢を持ち上げようとして「ぎっくり腰」になったということだった。いまだにわたしは大きい植木鉢を持ち上げるとき、急に立たないように気をつけてしまうのは、「植木鉢」→「ぎっくり腰」という奇妙な因果関係の図式が、わたしのなかではこのとき以来成立してしまったのかもしれない。

それだけ植木鉢に気をつけていたにもかかわらず、数年前、ぎっくり腰になったことがある。ぎっくり腰を表現する言い回しに「魔女の鉄槌」というのがあるらしいが、わたしの場合、一撃というものではなかった。ちょうど夏休みで、近所の人に頼まれてラジオ体操に出ることになったのである。

だいたい早起きの割に低血圧のわたしは、目は覚めていても体の方はなかなか朝早くには動きにくいのだが、そんなことも忘れて、ふつうにラジオ体操をしてしまった。戻ってきて、何か腰のあたりがおかしい、腰に鉄板が入っているみたいだ……と思っていたら、その鉄板がじわじわと拡がって、腰全体が一枚の板のようになった。あ、これはだめだ、と思ってベッドに横になったら、その体勢のままピクリとも動けなくなってしまったのである。「なんかおかしい」から、動けなくなるまで、二時間ぐらいはあったと思う。ともかくそのあいだは足を引きずりながら、よろよろと歩くことぐらいはできたのだった。

ともかくあの痛みは強烈だったために、以来、植木鉢と並んで、早朝のラジオ体操は避けることにしている。もちろんうっかり中腰にならないようにも気を配っている。避けて避けられるものなら、何としても避けたいのが、このぎっくり腰なのである。

だが、人のぎっくり話は楽しい。数日間安静にしておれば良くなることがわかっているから、気安くおもしろがれるという側面があるのだろうが、それだけでなく、おかしさのいくぶんかは「ぎっくり」という語感のおかしさにあるように思う。

自転車置き場で、自転車が将棋倒しになりそうになって、あわてて変な風に体をのばしたら、その瞬間に「ギクッ」ときたという話。二十代最後の誕生日、ということで、友人がお祝いの予定を組んでくれていたのだが、その当日、ベッドで朝、伸びをしたらその瞬間に「ギクッ」となってしまった、という話。駅で杖をついたおばあさんの荷物を代わりに持ってあげて、階段を上っていたら、途中で「ギクッ」となって、そのおばあさんに救急車を呼んでもらった、という話。どれも聞いていたら笑ってしまうような話だ。

もちろんわたしの「ラジオ体操」も、やっぱりおかしい。
病気やけがで笑えることというのも珍しいことで、そういう意味では得がたいものなのかもしれない。休養ができるということに関していえば、これほどの休養もないだろうし。

修正する話

2008-05-18 22:29:41 | weblog
高校二年の冬休み、有名講師の授業を受けに、予備校の冬期講習に行ったことがある。
授業そのものの記憶はまったくないのだが、最前列の真ん中、講師の正面を指定席にしている生徒がいた。講師とも顔なじみだし、雰囲気も大人っぽい。黒っぽいシックな格好をして、わたしの目から見ると女の子というよりすっかり大人の女性のように見えた。高校生ではなく、浪人生らしかった。授業中にも講師の発言を先取りするようにあれやこれやと意見を出し、それがまた、なんとも頭の鋭さがうかがえるような発言で、すごいものだなあ、頭がいいというのはああいう人のことをいうのだなあ、と感心していた。授業よりも、毎日、その人の頭が切れるところを見に行ったようなものだ。そのクラスが終わるときには小さなブーケを講師に渡し、講師も、来年こそはきみの顔を見ないですむといいな、と軽口を交わしていた。

翌年の夏期講習も、やっぱりわたしはその講師の授業を受けた。ところがやはり同じ指定席に、件の浪人生がいる。やはり講師より先に発言し、頭のいいところを披露している。ただ、半年が過ぎて、ろくすっぽ勉強もしていないわたしでも、多少の成長はあったのか、あるいは単に生意気になっただけなのかもしれないけれど、何か、その人の発言をうるさく感じるようになっていた。わたしはその人の話を聞きたいのではなく、講師の授業が聞きたいのに。つまり、以前は気がつかなかった講義とその人の発言のずれに気がつくようになっていたのだ。そう思って見ていたせいだったのかもしれない。講師は彼女の発言を歓迎してはおらず、どちらかというと辛抱しているように思えたのだった。

それでも自習室などに行くと、彼女を中心としたグループが集まってむずかしそうな勉強をしている姿をよく見かけた。すでに受験レベルなどではない、大学で習うようなずっと専門的なことをやっているらしかった。わたしなど何を言っているかすら見当もつかないむずかしい単語が乱舞するような話のなかでも、主導権を取っているのは彼女らしかった。わたしといくつもちがわないのに自信に満ちた物腰で、どちらかというと家にいたくないから予備校や図書館に通っているだけ、相変わらず小説ばかり読んでいて、テキストも参考書も開くのがおっくう、成績もちっともぱっとしないわたしが、同じ年の受験をするなどおこがましいにもほどがある、と思えてくるのだった。

秋だったか、もう冬に入っていたかもしれない。予備校に模擬試験を受けに行ったときのことだった。試験中に女の子の泣き出す声が聞こえた。最初の教科はそれでもおさまったのだが、つぎもやはり同じように泣き出す。今度はさっきよりも大きな声で、おさまりそうになかったのか、係員がふたり入ってきて、両脇から彼女を抱きかかえるように教室から連れ出した。わたしが「なんと頭がいい人なのだろう」と思った女性だった。わたしの後ろの方で、あれは××だ、相変わらずだな、と噂している声が聞こえて、なんともいえず痛ましい気持ちになったものだった。

その年の冬期講習はその予備校には行かなかったので、彼女ともう会うことはなかった。それでも、それからしばらくして、こんどはわたし自身が教える側として、受験に関わるようになって、ときどき彼女のことを思いだすようになった。

たまに、まじめで頑張り屋で頭もよく自信もある、なのに、どういうわけか試験ではうまくいかない、という子がいる。
概してそういう子にものを教えるのは大変だ。何か言おうとしても、まず返ってくるのが「そんなことわかってます」という返事なのである。自分はわかっている、自分は知っている、自分にはできる、という意識があるから、何を教えようとしても入っていかない。

彼らに共通して欠けているのは、教わろうとする自分は、まったくの無能のうちにある、という自覚なのである。
自分の水準では「自分はわかっている」ということになるのかもしれない。
けれども、ものごとは「自分の水準」にあるわけではない。理解というのは実におびただしい水準があって、「わかっている」自分の「わかりよう」がどの程度のものなのか、「できる」自分の能力がどの程度のものなのか、それは決して自分で測ることはできない。「わかっている」「できる」と自分では思っていても、別のモノサシを当てれば、「なにもわかっていない」「なにもできない」ということになってしまうのである。
「わかっていないだろう?」「できないだろう?」とどれほど言い聞かせても、なまじある程度成績が良かったりすると、「わかっている」証拠、「できる」と思う根拠を自分の過去をふりかえっていくらでも見つけてくるので、「この先生はわたしのことをわかってくれない」「わたしの能力の高さをねたんでいるのだ」などという話になってしまう。

こういう子を前にすると、いつも本を読んだことがないのかなあ、と思ってしまうのだが、いまはなかなかほんとうによく勉強していることを感じさせるような書き手は少ないのかもしれない。それでも、その気になって探せば、一冊の本の向こうに、どれほどの知識の沃野が拡がっているか、豊かな言葉の水脈があるか、思わず読んでいる自分の姿勢を正したくなるような、身が引き締まるような思いがする本ならいくらでもあるように思うのだ。こういう書き手にくらべて、どれほど自分が何も知らないか。何もわかっていないか。もっと深く理解したい、少しでもその近くへ行きたい。自分を粛然とさせるような、同時に勇気づけもするような。

もちろん相手にもよるのだけれど、そんな子に対して、いかにわかっていないかを思い知らせるために、ちっぽけな自信などたたきつぶそうとしたこともある。
とりあえず相手にこちらを信頼させるために、おだて、まるで友だちのように扱い、そこからなんとか伝えようとしたこともある。
うまくいったこともあるけれど、いかなかったこともある。だが、いつも思うのは、わたしにできることなんて知れたもの、ということだった。なんにせよ、その子自身が「自分への評価というのは、自分以外のものによってなされるのだ。自分が自分にくだす「評価」というのは、実際のところは評価でもなんでもないのだ」ということを、自分の力で見つけていけるかどうかなのである。たまたまうまくいったとしても、それはちょうどその子がそういう時期だったというだけでしかない。

その昔、アガサ・クリスティが書いた普通小説として評判になった『春にして君を離れ』という本を読んだことがある。なにしろ中学生のころに読んだときの記憶のままで書いているので、細かいところがちがっているかもしれない。ともかくその小説では、中年の女性がひとりで旅行しているのだが、列車の事故かなにかで、何もない辺鄙なところに足止めされてしまう。たったひとり、見るものもないようなところで、生まれて初めて、自分自身と向き合うことになる。いままでのさまざまな出来事を思い出しながら、自分が自分にくたしていた評価と、周囲の人間がくだしていた評価のずれに思い至る。自分がどんな人間とまわりに思われていたか。自分がいるときの人びとの居心地の悪そうなようす、目配せの意味。そのことに気づいた彼女は、生まれ変わろうと決意する。そうして動き出した列車に乗って、家に戻った彼女は……、というもので、当時のわたしはたいそう感銘を受けたのだった。

わたしたちは、いつも「自分とはどういう人間か」という、ばくぜんとしたイメージを抱いている。問題を解決しなければならないとき、自分はそれを成し遂げることができるかどうかと自問するとき、自分が参照するのはこのイメージである。だが、それが実際の能力とずれていた場合、見込みと結果は食い違うものになってくる。

そういうとき、多くの人は、自分の抱くイメージを修正する。いまの自分は無能のうちにあるが、いつかできるようになってやる、と思うときもあれば、「自分には無理なんだ」と思うこともあるだろう。けれども、決して自分のイメージを修正しようとしない者もいる。あのときはかくかくしかじかの理由があった、こんな試験などでほんとうの実力など測れるはずがない、運が悪かった……。結果を受け入れずにすませる理由など、探せばいくらでもある。

高校時代のわたしが予備校で会った大変優秀な女の子も、おそらくは自分が自分に抱くイメージと、実際の能力にずれがあったのだろう。能力といっても学力とか知識とかいうものだけを指すのではない。相手の言葉に耳を傾ける能力、それに合わせて自分の立ち位置や構えを修正する能力、その場その場で事前には予測も準備もできない「何ものか」が要求されることがあるのだ。そういったものに応えるバランス感覚とでもいうのだろうか。
その結果、うまくいかなくて、うまくいかなくても、自分が自分に抱くイメージを修正しなかったばかりか、いっそう補強しようとした。彼女にとって予備校は、自分が学ぶ場ではなく、いつのまにか、賢い自分をアピールする場になっていた。

自分のイメージ、と言ったが、実際のところは言葉の寄せ集めだ。おびただしい言葉の中から、うまく自分にそぐう言葉をみつけだし、当てはめていく。それをわたしたちは「自分のイメージ」と思っているのだが、はたしてそれがどこまで有効なのだろう。
感情は刻々と変わっていく。出来事は、一回一回異なり、同じ出来事がまったく同じ状態で反復することはあり得ない。そうして、それに向かい合う自分も、同じではあり得ない。

それをたったひとつの言葉に当てはめようとするのだから、どうしたって無理がある。彼女自身、自分の言葉にがんじがらめになってしまって、そこから出ようとして出方がわからず、苦しんでいたのだろうと、いまのわたしなら思う。いたましい思いには変わりはないけれど。

自分が変わるのだから、変わるわたしをわたしがわかるわけがない。
けれども「わからない」と言ってしまうと、自分のつぎの行動さえも決められなくなってしまう。
自分のイメージというのは、だから、こうなりたいという自分のばくぜんとした理想なのである。こうありたいという自分の未来像を現在の自分にあてはめて、それに向かって自分自身を作り上げていく、ということなのだろう。
そうやって現在の自分が何ごとかをなし、周囲の人はそれを評価する。けれどもその評価は過去の自分なのだ。いま現在の自分とはちがう。だから、評価はあくまで評価であって、いま現在の自分の否定ではない。そこをまちがえてはいけない。

周囲からの評価によって、未来の自分の像を少しずつ修正しながら、たえず現在の自分を作り替えていく。それ以外にないのだろうと思うのだ。

もし、これをやらなくてはならないのが世界で自分ひとりであるならば、それはおそらくとんでもなくつらい、厳しいことだろう。でも、それはひとりだけがそうしなければならないのではない。みんなそうしなければならないのだし、現に、だれもがそうしながら日々を生きているのだろう。

日々、わたしたちは周りのさまざまな人を評価し、同時に評価されてもいる。同時に、学ぶ側でもある。どこまでいってもわからない、どこまでいってもできない自分を抱えながら、少しでもわかるようになりたい、できるようになりたいと思っているのだろう。たぶん、それが未来を現在に織り込みながら生きるということなのだろうし、簡単にいってしまえば、明日があるさ、ということなのだ(まとめすぎか)。

私語とあいづち

2008-05-16 22:57:59 | weblog
先日、講演を聞きに行ったときのこと。
聴衆の年齢層が比較的高かったせいか、聞きながらうなずいている人が多い。話の切れ目でうんうんとうなずくものだから、後ろで見ていたわたしからは、頭が動いているのがまるでウェーブのように見えて(というのは少し大袈裟か)、何となくおかしくなってしまった。

会議などでも、特に女性に多いような気がするのだが、聞きながらしきりにうなずいている人がいる。かならずしもその人が相手の言っていることに全面的に賛同しているわけではなく、わたしはあなたの話を聞いていますよ、というアピールであることが多いような気がする。あなたとわたしが一対一で話しているのなら、相づちが打てるんだけど、講演だから、あるいは会議だから、わたしはいま、相づちをうつことができないんです。でもほら、わたしは一生懸命に聞いているのですよ、と。
実際、うなずきながら小さな声で、そうそう、とか、ほんとねえ、とかと言っているのを聞いたことさえある。

経験から考えて、うんうんとうなずいている人がほんとうにしっかり聞いているのか、というのは、かなり疑わしい。話を聞きながら、メモを取ったり、それはどういうことなんだろう、とか、これはあのことを言っているのだろうか、などといろいろ考えたりしていたら、うなずくどころではなくなるということもあるのだが、別の面から見れば、うなずいている人はそれだけで何かしたような気持ちになってしまう、ということもあるのかもしれない。あとで話を聞いてみて、さっきあれほどうなずいていたのに、一体何を聞いていたんだ、と思ったような経験も、一度や二度でなくある。

ところが話す側にまわってみると(講演の経験はないが)、うんうんとうなずいてくれる人はありがたいものなのである。大勢に向かって、ひとりきりで話すというのはしんどいものである。それは、おそらく話をするというのは、根本的に「相手に向かってする」ものだからなのだろう。

メモを取っている相手は、確かに自分の話を聞いてくれていることはわかるのだが(もしかしたらへのへのもへじを書いているのかもしれないが)、うつむいているために、もうひとつその人に向かっては話しにくい。ソッポを向いている人、下を向いている人はもちろん話しにくいし、まして、私語を交わす人、携帯を開く人、そんな人は、ここから出ていってくれ、と言いたくなる。自分が教わる側だったころには、私語を交わしていても先生の話だってちゃんと聞ける、ぐらいに思っていたのだが、実際、教える側にまわってみると、自分が話しているときに私語を交わされるというのは、「あなたの話を聞くつもりはない」という意思表示にしか思えない。そうなってみて初めて、かつての先生たちが私語に神経をとがらせていた理由がよくわかるのだ。

わたしの場合、母親が話をしているときに、ちょっと他のことをやったり、上の空になったりすると、「聞かないんだったらもう話さない」と、すぐに怒り出す人で(いまだにそうだが)、いったんそういう状態になるとなだめるのが厄介だったので、とにかく聞くときは聞いている体勢にならなくてはならなかった(そのうち、いかにも聞いていそうな顔をして、まったく別のことを考える、という技をわたしは編み出すことになるが)。だが、まさか学校の先生までもが母と同じ、たくさんいるうちの生徒のひとりやふたりが私語を交わしていることで、傷つくとは思わなかった。だが、ほんとうに、自分が聞いていない人に向かって話すのは、なんともいえない徒労感を覚える、つらい、悲しいことなのである。

わたしたちは話をしているとき、たえず相手の反応をうかがわずにはいられない。相手は楽しんでいるか、退屈していないか。相手の反応を見て、少しずつその話も修正していく。あいづちはその最大の手がかりなのである。

話を聞きながら、うんうんとうなずくのは、日本だけかどうかは知らないが、あまり外国人がそうしているのは記憶にない。日本人があいづちを打つ感覚で "yes" とか "year" とか、"I see."と言うと、確かに英語圏の人がうるさく感じるというのもわかるような気がする。それでも、"nod assent" (同意してうなずく)という熟語はあるし、あいづちというより同意の意味が強いようには思うが、それが「あいづちとはちがう」ものである、とまでは言いにくい。あるいは、「それはどういうこと?」とか「その感じはわかる」まで含めれば、やはりあいづちは日本だけのもの、とは言えないような気がする。

話をするのはひとりでも、実際にひとりでは話はできない。聞いてくれる人がいて初めて会話は成立するのだし、聞いてくれる人が話の内容さえも左右する。そうして、聞き手は「あいづち」によって、その話に積極的に加わっているのだろう。

わたしが不思議なのは、対面で話をしているような場面でも、携帯を取り出すような人だ。あるいは、相手がそれをしていても平気な人だ。授業中に私語を交わされるより、それはきつい体験のような気がする。あなたはわたしが携帯メールを送っている相手より、重要ではないんですよという意思表示をされて平気なような人間関係というのは、わたしにはちょっとよくわからない。

サイト更新しました(追加)

2008-05-15 23:04:57 | weblog
先日までここに連載していましたジョイス・キャロル・オーツの翻訳「これからどこへ行くの、いままでどこにいたの?」アップしました。

どうも最後が気に入らなかったので、昨日は見送ったんですが、結局そんなに変わらないものになっちゃいました。
更新情報は今日か明日のうちに(笑)書きます。
またそのころ、のぞきにきてみてください。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

※夜の追加

更新情報も書きました。

今日自転車で走っていたら、細い裏通りで屋台のラーメン屋のおじさんが、屋台を止めて、塀によりかかって煙草を吸っていました。横を通りかかったときに「昔は良かったなあ」と独り言を言ったのが聞こえて、ちょっとびっくりしました。
大昔から「昔は良かった」と人は言い続けてきたんでしょうね。

明日から「あいづち」の話をまたもう少し続けます。
ということで、それじゃまた。

ジョイス・キャロル・オーツとボブ・ディラン

2008-05-13 23:08:35 | weblog
このところ、ひとつ厄介な用事を抱えていて、やっとそれも片付いたので、このあいだからぼちぼち続けていたジョイス・キャロル・オーツの「これからどこへ行くの、いままでどこにいたの?」もアップできると思う。

"Where Are You Going, Where Have You Been?"は、日本ではずっと以前に訳されたきりで、本にもなってなかったし、アンソロジーにも収められていなかったので、ぜひ訳さなくては、と思っていたのだが、なんとなんと、柴田元幸の訳でちゃんと翻訳がでていたのだった(『現代アメリカ幻想小説集 どこにもない国』松柏社)。おそろしいことをしてしまった……。読みくらべて誤訳がいっぱいある、なんて笑わないでね。

さて、その本は未見なのだが、「幻想小説」といっても、この作品は、いわゆる「幻想小説」というのとはずいぶんちがうような気がする。

この「アーノルド・フレンド」、つまりは " An Old Friend"(古い友だち、昔なじみ)は、ほんとうに人間なのだろうか。足がブーツに合ってない、という描写が何度か出てくるのだか、おそらくそのなかには人間の足ではなく、山羊の蹄という含意があるはずだ。
悪魔が来たりて笛を吹く……、ではなくて、ディランの歌にのってドライブに誘いにくるのだから、幻想小説ということに文句のつけようがあるわけがない。にもかかわらず、ちょっとちがうような気がするのだ。

一方で、ジョイス・キャロル・オーツは実際に起こった殺人事件をもとにこの作品を書いたという。(※参照wikipedia)
チャールズ・シュミットという連続殺人犯の青年は、身長が低く(158センチぐらい)、カウボーイブーツに新聞紙を詰めてはいていたという。「アーノルド・フレンド」の根底には、このチャールズ・シュミットのイメージがあることにはまちがいない。

だが、オーツが書くのはノンフィクション・ノヴェルではない。オーツはおそらく現実のチャールズ・シュミットがどんな人物であるか、ほとんど興味は持っていないように思える。

この作品世界はあくまでも日常のアメリカである。郊外の、長い私道を持つしゃれた一戸建て。週末は、車でショッピングモールに連れて行ってもらう。そんな徹底してリアルな世界に、奇妙な人物が登場する。彼は悪魔なのか、それとも邪悪な意図をうちに秘めた人間なのか。邪悪な人間というのは、日常の存在なのか。日常の邪悪というのは、幻想の邪悪とどうちがうのか。こうしてリアルな世界が少しずつ揺らぎ始める。リアルな世界は、ほんとうにリアルなのか。徹底してリアルだからこそ、幻想がそこに生まれる余地がでてくる。そういう意味での「幻想」なのかもしれない。

さて、この作品は、同時にオーツがボブ・ディランの "It's All Over Now, Baby Blue" という歌にインスパイアされて作ったのだという。
"It's All Over Now, Baby Blue"というのはこんな歌。

http://www.youtube.com/watch?v=YN25Pp0hrOM&feature=related

It's All Over Now, Baby Blue

You must leave now, take what you need, you think will last.
But whatever you wish to keep, you better grab it fast.
Yonder stands your orphan with his gun,
Crying like a fire in the sun.
Look out the saints are comin' through
And it's all over now, Baby Blue.

 おまえはここを出て行かなくてはならない、
  必要なもの、ずっととってけるようなものだけを持って
 だが手元においておきたいものなら、
  いそいでつかんで離さないことだ
 向こうに銃を持って立っているおまえのみなしごは
 太陽のなかの炎のように泣いている
 気をつけろ、聖者がやってくる
 さあ、何もかも終わったんだ、ベイビー・ブルー

The highway is for gamblers, better use your sense.
Take what you have gathered from coincidence.
The empty-handed painter from your streets
Is drawing crazy patterns on your sheets.
This sky, too, is folding under you
And it's all over now, Baby Blue.

 ハイウェイはギャンブラーたちのためにある
  自分のセンスを使った方がいい
 偶然集まったものだって持っておくんだ
 おまえの町の通りから来た手ぶらの絵描きは
 おまえのシーツに狂った模様を描いている
 空も、そうさ、おまえの下に折りたたまれていく
 さあ、何もかも終わったんだ、ベイビー・ブルー

All your seasick sailors, they are rowing home.
All your reindeer armies, are all going home.
The lover who just walked out your door
Has taken all his blankets from the floor.
The carpet, too, is moving under you
And it's all over now, Baby Blue.

 おまえの船酔いした船乗りたちは
  船を漕いで家に帰っている
 おまえのトナカイの軍隊も みんな家に帰っている
 ドアからちょうど出てきた恋人は
 床から毛布を全部取り上げた
 カーペットも一緒に、おまえの下で動いている
 さあ、何もかも終わったんだ、ベイビー・ブルー

Leave your stepping stones behind, something calls for you.
Forget the dead you've left, they will not follow you.
The vagabond who's rapping at your door
Is standing in the clothes that you once wore.
Strike another match, go start anew
And it's all over now, Baby Blue.

 踏み石なんかは放っておけよ
  おまえを呼ぶものがある
 おまえが置き去りにした死んだ人間のことも忘れてしまえ
  やつらはおまえについてはいかない
 おまえのドアを叩く放浪者は
 おまえが前に着ていた服を着て立っている
 もう一本マッチをするんだ、新しく始めろよ
 さあ、何もかも終わったんだ、ベイビー・ブルー


「さあ、何もかも終わったんだ」と呼びかけられたベイビー・ブルーは、あるいはコニーは、ここからどこへ行くのだろうか。

あいづちは交通整理

2008-05-12 22:56:19 | weblog
ときどき何を言っているのかわからない人がいる。
先日、向こうから歩いてきた中年女性にいきなりこう話しかけられた。

「わたし、ずっと線路沿いの道をあるいてきたんです。それなのに道がね、あっちの交差点でこっちにぐーっと曲がってるでしょう、だから全然わからんようになってしまってね。あれ、ほんまにこまりますね」

いったい何ごとかと思えば、話を綜合するに、駅へはどう行ったらいいんでしょう、ということが聞きたいらしいのである。それだけのことなのに、話はあちこち飛んで、わたしが問われているのは「駅までの行き方」であると理解するまでにしばらくかかってしまった。ふり返ってみると、その人の話の力点は、どうして自分が道がわからなくなったかの説明にあったようだ。ふだんの自分は道がわからなくなるような人間ではない、ということをわたしに印象づけようとして、結果的にわけがわからなくなってしまったのである。

最初はふつうに始まっても、話をしているうちに脈絡を失って、自分でも「ええっ……わたし、何が言いたかったんだっけ」と、収集がつかなくなってしまう人もいる。

そういうときに聞き手が「どちらへいらっしゃりたいんですか?」とか、「それってこういうこと?」とかと、交通整理をするように、話を誘導していくことができれば、話し手も、パニックに陥ったりすることもないだろう。だが、こういうのはあいづちと言えるのだろうか。

太宰治の短編「饗応夫人」のなかにはこんな一節がある。

「住むに家無く、最愛の妻子と別居し、家財道具を焼き、衣類を焼き、蒲団を焼き、蚊帳を焼き、何も一つもありやしないんだ。僕はね、奥さん、あの雑貨店の奥の三畳間を借りる前にはね、大学の病院の廊下に寝泊りしていたものですよ。医者のほうが患者よりも、数等みじめな生活をしている。いっそ患者になりてえくらいだった。ああ、実に面白くない。みじめだ。奥さん、あなたなんか、いいほうですよ。」
「ええ、そうね。」
 と奥さまは、いそいで相槌を打ち、
「そう思いますわ。本当に、私なんか、皆さんにくらべて仕合せすぎると思っていますの。」
「そうですとも、そうですとも。こんど僕の友人を連れて来ますからね、みんなまあ、これは不幸な仲間なんですからね、よろしく頼まざるを得ないというような、わけなんですね。」
 奥さまは、ほほほといっそ楽しそうにお笑いになり、
「そりゃ、もう。」
 とおっしゃって、それからしんみり、
「光栄でございますわ。」

ここにでてくる「ええ、そうね。」、「そう思いますわ」「そうですとも、そうですとも」「そりゃ、もう。」というのはあいづちに当たるだろう。だが、「光栄でございますわ。」はどうだろうか。
森鴎外の「鼠坂」のあいづちも微妙だ。

「なんにしろ、大勢行っていたのだが、本当に財産を拵えた人は、晨星蓼々さ。戦争が始まってからは丸一年になる。旅順は落ちると云う時期に、身上の有るだけを酒にして、漁師仲間を大連へ送る舟の底積にして乗り出すと云うのは、着眼が好かったよ。肝心の漁師の宰領は、為事(しごと)は当ったが、金は大して儲けなかったのに、内では酒なら幾らでも売れると云う所へ持ち込んだのだから、旨く行ったのだ。」こう云った一人の客は大ぶ酒が利いて、話の途中で、折々舌の運転が悪くなっている。渋紙のような顔に、胡麻塩鬚が中伸(ちゅうの)びに伸びている。支那語の通訳をしていた男である。
「度胸だね」と今一人の客が合槌を打った。
鼠坂

「光栄でございますわ」というのは、相手の言葉を受けて、自分の気持ちを表明している。「度胸だね」も、これを言った「客」は「通訳」の話を聞いて、自分の評価を伝えている。

昨日引用した多田道太郎は、あいづちを「餅つき」にたとえ、「きねをつく人よりもむしろ、拍子おもしろく臼取りする人のほうが、仕事としてむつかしくおもしろいのではなかろうか。受け身の、従の立場のほうが、共同の仕事のなかで、より困難でより愉快味のある役割であるようだ」(『しぐさの日本文化』)といっているのだが、「拍子おもしろく臼取りする」のがあいづちであるとしたら、状況や相手によって、あいづちの範囲も変わってくるのが当然のように思える。

「そうですね」「そのとおりですね」があいづちとしてふさわしいときもあるだろうし、「へえ」ときもあるだろう、そう考えていくと、相手の言葉に対して自分はこう思う、というのを、話の主役を奪うことなく、脇役に徹しながら表明していく、相手が話しやすいように、自分の考えもさしはさんでいく、というのも、あいづちと呼べるように思うのだ。

となると、英語でも "Like who?"(たとえば誰みたいな感じ?)のような言葉は、会話ではごくふつうに挿入されるが、こう考えると、「あいづち」が日本の専売特許とはなかなか言えなくなってくるように思われる。

コミュニケーションが聞き手がいてくれて初めて成立するように、聞き手の果たす役割というのは、洋の東西を問わず大きいのである。

あいづち名人

2008-05-11 22:46:28 | weblog
わたしが英語を習いに行くようになって、最初に気がついたのは、アイルランド人の先生があいづちをちっとも打ってくれないことだった。わたしの眼にぴたっと眼を合わせて動かさない。こちらはまだろくに言葉も出ないころである。つかえたり、止まったりしても何も助けてくれない。"come" というべきところで "go" と言ったりするような、単語の間違いをしたときだけ、訂正をしてくれる。それ以外は、こちらがどれだけ言葉につまっても、じっと待っている。自分の眼に据えられた視線をはね返しながら話し続けるだけで、、全身汗びっしょりになった。そのとき初めて、日本人が相手ではないと、相づちというのは打ってくれないことを知ったのだ。

多田道太郎は『しぐさの日本文化』のなかで、「あいづち」の項でこのように言っている。
 日本人のしぐさということで私がまず思いつくのは「あいづち」である。…『広辞苑』には「相鎚。鍛冶で、互いに打ち合わす鎚」とある。鎚をトンカントンカンと打ち合わす快は、もはや私たちの日常生活からは遠く、正月のもちつきの臼取りの愉快さえ、光景としても日々に遠ざかってしまった。
 しかし、あいづちということばは、二人の共同作業の快味をよく伝えているようである。きねをつく人よりもむしろ、拍子おもしろく臼取りする人のほうが、仕事としてむつかしくおもしろいのではなかろうか。受け身の、従の立場のほうが、共同の仕事のなかで、より困難でより愉快味のある役割であるようだ。
(多田道太郎『しぐさの日本文化』筑摩書房)

うなづいてもくれない、ふうん、とも、へえ、とも言ってくれない相手に向かって話す経験をしてみれば、あいづちが「共同作業」というのは実にそのとおりだとよくわかる。ほとんど意味などないのだが、話し手のつぎの言葉は、あいづちによって引き出されるのである。小説の会話部分を抜き出しても、ほとんどあいづちは出てこない。実際、ほとんど意味がないので、それを全部書き出してみればひどくわずらわしいだけだろう。それでも日常の会話のなかで、わたしたちは、相手が息継ぎするのに合わせるように、半ば無意識で、ああ、とか、そう、とか、ねえ、とか言っているはずだ。

英語の勉強をしている日本人の多くが、"yes" とか "year" とかと、必要以上に言う傾向がある。これは英会話教室の講師から、あれは日本人の癖だ、と言っているのを何度か聞いたし、つい言ってしまうその感じもよくわかるのだ。英語っぽく話す一番てっとり早い方法は、相手の目を見すえて、うなずきもせず、尋ねられないかぎり、黙っていることだ。たとえ電話でも、日本語の感覚で"yes" とか "year" とか言うと、うるさい感じがするように思う。

多田道太郎をもう少し引いてみよう。

私たちは論理と感情の世界を区別している。契約について「イエス」か「ノー」というのは論理の世界である。会話においてあいづちを打つのは感情に基づく社会的表現である。この両者を巧みに組み合わせることで、むき出しの真実だけではない人間的世界に私たちは生きているのだ。
 ヨーロッパでは相手の感情をくんで、いい振る舞いをすることを「タクト」と言う。一口にヨーロッパと言ってもいろいろある。アメリカやスイスでは「タクト」は少ない。しかしウィーンやパリでは、日本の繊細に負けぬほどのタクトがある。これはどういうことなのか。アメリカやスイスは、異人種異言語が日常的に接触する国である。ウィーンやパリでは、共同の前提となる統一された文化がある。つまり暗黙の了解があるので、その暗黙の了解のうちに相手の感情をいたわることが可能なのだ。アメリカでは、まず論理を通さなければ異人種間の意見の一致を見ることはできない。

ところがそうとばかりも言えないような気がするのだ。
その昔、アメリカでホームステイしているころ、どういうわけかわたしはよくおじいさんおばあさんから話かけられた。自分からはまだまだ話はできない。というか、外国の、見ず知らずのおじいさんやおばあさんに一体何を話して良いものやら見当もつかない。いきおい、聞く方専門になる。日本人の癖で、つい、あいづちを打ってしまう。すると、それはそれは喜んで、話を続けてくれるのだ。「感情に基づく社会的表現」は、相手のつぎの行動を引き出すのは、そういう情況ではアメリカでも同じなのだった。

結局は、会話の場が共同作業の場であるか、自分の論理を通す場であるかということなのだろう。アメリカ人でもおそらくあいづちだけで成り立っているような会話をしている場面もあるのだろう。おそらくそれがもっと密やかな、親密な関係において。そういう場面になかなか行き会うことができないだけではないかと思うのだ。

わたしはときどき電話で「聞いてる?」とか「もしもし?」とか言われるのだけれど、このあいづちを打つのが少ないのかもしれない。でも、ちゃんと聞いているので大丈夫、とここで言っても何の意味もないのだが。

ジョイス・キャロル・オーツ「これからどこへ行くの、いままでどこにいたの?」最終回

2008-05-10 23:18:31 | 翻訳
最終回

 アーノルド・フレンドは、よく通る優しい声、まるで舞台に立ったような声で言った。
「おまえが生まれた場所は、もうここではないし、おまえが行くつもりでいた場所はもうなくなってしまった。いまおまえがいるそこは――おまえの父親の家のなかは――しょせん、段ボールの箱みたいなものに過ぎないし、オレにとっちゃ壊すぐらい、いつでもできる。おまえだってそんなことぐらい、始めからわかっていただろう。聞いてるな?」

 考えなくちゃ。コニーは思った。どうするか決めなきゃいけないんだわ。

「気持ちのいい原っぱに行こうか。田舎の方に行けばいい匂いだってするだろうし、こんなにいい天気なんだ」アーノルド・フレンドは言った。「しっかり抱いててやるよ、そうすれば逃げだそうとしなくてもすむ。愛がどんなものか、愛があるとどうなるか、教えてやるよ。こんな家なんてどうなったっていいじゃないか! 大丈夫だって、まちがいない」
彼が爪でスクリーンドアをひっかく音が聞こえたが、コニーは身震いを感じなかった。昨日なら震え上がったはずなのに。「さあ、胸に手を当てて、ハニー。感じるだろ? オレたちがもっとよく知り合いさえしたら、はっきり感じるようになる。オレの言うことを聞くんだ、とびきり優しい子になるんだよ、おまえみたいな女の子は、優しくてきれいで、言いなりになる以外にはないんだから――家の連中が戻って来る前にここを出よう」

 彼女は心臓が激しく鼓動するのを感じていた。手ですっぽり包んでいるような感じだ。生まれて初めて、心臓が自分のものではないような、自分とは関係のないのに、鼓動をし、同じように自分のものとは思えない体のなかで動いているような感じがした。

「家の人たちを傷つけたくはない」アーノルド・フレンドは続けた。「さあ、起き上がるんだ、ハニー。自分で立てるな」

 コニーは立った。

「よし、こっちに向くんだ。それでいい。オレのところまでやってくるんだ――エリー、そんなものあっちへ置いとけよ、そう言っただろう? この間抜けめが。おまえはほんとうにひでえ抜け作だな」アーノルド・フレンドが言った。怒っているのではない、呪文の一部だ。おだやかな呪文だ。「さあ、台所を抜けて出ておいで、ハニー、その笑顔を見せておくれ、さあ、おまえは勇気のある優しくてかわいい女の子じゃないか。いま連中は外の火であぶったトウモロコシやホットドッグを食べてるところだ。連中にはおまえのことなんてひとつもわかっちゃいないし、これまでだってそうだった。おまえは連中なんかよりはるかに上等な人間だし、連中はだれひとりおまえにこんなことをしようとしたこともなかったろう?」

 コニーは足の下のリノリウムを感じた。冷たい。目にかかった髪を払った。アーノルド・フレンドはためらいがちに柱から手を離し、彼女に向かって腕を拡げた。肘を向かい合うように曲げて手首の力を抜き、おずおずとした抱擁であることを示していた。だがそこにはいささか侮っているような、コニーに意識を取りもどさせたくながっているようなところがあった。

 コニーは網戸に手を伸ばした。自分が、まるでどこかほかの安全な場所の戸口にいるかのように、ゆっくりとドアを押して開け、自分の体と長い髪が、アーノルド・フレンドが待っている日差しのなかに出ていこうとするのを見つめていた。

「オレのかわいい青い目の女の子」と彼は言い、半ば歌うように溜息をついた。その言葉は、コニーの茶色い目とは何の関係もなかったが、同じように、彼の周囲に広がる日の光に満ちた広大な世界に吸い込まれていく――コニーがこれまで見たこともなければ、気づくこともなかったほど広い世界――ただこれから自分がそこへ向かって歩き出そうとしていることだけはわかる世界。


The End



ジョイス・キャロル・オーツ「これからどこへ行くの、いままでどこにいたの?」その9.

2008-05-09 22:17:28 | 翻訳
その9.

「もう、わたしのことはかまわないで」コニーはつぶやいた。
「なあ、この先に住んでるばあさんを知ってるだろう、ニワトリだとかなんだとか飼ってるばあさんだよ、知ってるよな?」
「あの人、もう死んじゃったわ!」
「死んだんだって? どういうことだ? 知ってるよな?」アーノルド・フレンドは言った。
「あの人、もう死んでるのよ?」
「嫌いなのか?」
「死んじゃったの――あの人――死んで、ここにはもういないの」
「でも、おまえはあの人がきらいなわけじゃないんだろう? っていうか、何かあのばあさんを向こうにまわしてやりあったなんてことはないだろう? 根に持つようなことだとか――」まるで自分のぶしつけさに気がついたかのように、急に声が低くなった。頭の上にのっているサングラスが、まだそこにあるかどうか確かめるように、指先でふれた。「さあ、いい子になるんだ」

「これから何をするつもり?」
「ふたつ、いや三つのことだ」アーノルド・フレンドは言った。「そのことはそんなに時間がかからないし、おまえが身近な人を好きになるように、オレのこともじきに気に入るだろう。大丈夫だ。ここであれこれやるのももう終わりだ、出ておいで。おまえの家の人に迷惑をかけたくはないだろう?」

 コニーはきびすをかえすと、椅子か何かにぶつけたせいで足は痛んだが、それでも奥の部屋へ走っていき、受話器を取り上げた。耳の奥で何か叫び声のような音が聞こえる。小さな叫び声だったが、極度の恐怖に吐きそうだったので、その叫び声を聞くよりほかは何もできそうになかった――電話はべとつき、ひどく重たい。ダイヤルを回そうと指をのばしたが、力が入らず、ふれることもできなかった。受話器に向かって、その叫び声に向かって悲鳴を上げ始めた。コニーは叫びながら母親を呼んだ。自分の息が肺のなかで逆流しているような気がする。まるでアーノルド・フレンドに情け容赦なく、何度も何度も何かで突き刺されでもしているかのようだ。コニーの周りのあらゆるものがあげる悲痛なすすり泣きの声は、耳を聾するほどで、ちょうど鍵のかかった家に閉じこめられるように、コニーは自分自身にがんじがらめにされてしまっていた。

 やがて、コニーはふたたび物音を聞くことができるようになっていた。床に坐りこんで、汗まみれの背を壁にもたせている。

 アーノルド・フレンドが戸口から呼んだ。「いい子だ。受話器を元に戻すんだ」

 コニーは受話器を蹴飛ばした。

「そうじゃない、ハニー。拾うんだ。拾って、元に戻せ」

 拾って元に戻した。発信音は止んだ。

「いい子だ。つぎは外に出てくるんだ」

 それまで恐怖のために骨抜きにされていた彼女は、いまやただうつろな抜け殻のようになっていた。悲鳴をあげているうちに、恐怖は霧散してしまった。坐り込んだ体の下で、脚が痙攣していたが、脳の奥の方でずっと、何か光のようなものがぱっぱっとひらめいていて、気持ちを鎮めさせてくれない。コニーは思った。わたしはもう二度とお母さんには会えないのだろう。コニーは思った。もう自分のベッドで眠ることもできないのだろう。明るいグリーンのブラウスは汗で濡れていた。



(いよいよ明日最終回)

(※「鶏的思考的日常vol.20」更新しました。やっと12月まで来ました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html