陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

あいづち名人

2008-05-11 22:46:28 | weblog
わたしが英語を習いに行くようになって、最初に気がついたのは、アイルランド人の先生があいづちをちっとも打ってくれないことだった。わたしの眼にぴたっと眼を合わせて動かさない。こちらはまだろくに言葉も出ないころである。つかえたり、止まったりしても何も助けてくれない。"come" というべきところで "go" と言ったりするような、単語の間違いをしたときだけ、訂正をしてくれる。それ以外は、こちらがどれだけ言葉につまっても、じっと待っている。自分の眼に据えられた視線をはね返しながら話し続けるだけで、、全身汗びっしょりになった。そのとき初めて、日本人が相手ではないと、相づちというのは打ってくれないことを知ったのだ。

多田道太郎は『しぐさの日本文化』のなかで、「あいづち」の項でこのように言っている。
 日本人のしぐさということで私がまず思いつくのは「あいづち」である。…『広辞苑』には「相鎚。鍛冶で、互いに打ち合わす鎚」とある。鎚をトンカントンカンと打ち合わす快は、もはや私たちの日常生活からは遠く、正月のもちつきの臼取りの愉快さえ、光景としても日々に遠ざかってしまった。
 しかし、あいづちということばは、二人の共同作業の快味をよく伝えているようである。きねをつく人よりもむしろ、拍子おもしろく臼取りする人のほうが、仕事としてむつかしくおもしろいのではなかろうか。受け身の、従の立場のほうが、共同の仕事のなかで、より困難でより愉快味のある役割であるようだ。
(多田道太郎『しぐさの日本文化』筑摩書房)

うなづいてもくれない、ふうん、とも、へえ、とも言ってくれない相手に向かって話す経験をしてみれば、あいづちが「共同作業」というのは実にそのとおりだとよくわかる。ほとんど意味などないのだが、話し手のつぎの言葉は、あいづちによって引き出されるのである。小説の会話部分を抜き出しても、ほとんどあいづちは出てこない。実際、ほとんど意味がないので、それを全部書き出してみればひどくわずらわしいだけだろう。それでも日常の会話のなかで、わたしたちは、相手が息継ぎするのに合わせるように、半ば無意識で、ああ、とか、そう、とか、ねえ、とか言っているはずだ。

英語の勉強をしている日本人の多くが、"yes" とか "year" とかと、必要以上に言う傾向がある。これは英会話教室の講師から、あれは日本人の癖だ、と言っているのを何度か聞いたし、つい言ってしまうその感じもよくわかるのだ。英語っぽく話す一番てっとり早い方法は、相手の目を見すえて、うなずきもせず、尋ねられないかぎり、黙っていることだ。たとえ電話でも、日本語の感覚で"yes" とか "year" とか言うと、うるさい感じがするように思う。

多田道太郎をもう少し引いてみよう。

私たちは論理と感情の世界を区別している。契約について「イエス」か「ノー」というのは論理の世界である。会話においてあいづちを打つのは感情に基づく社会的表現である。この両者を巧みに組み合わせることで、むき出しの真実だけではない人間的世界に私たちは生きているのだ。
 ヨーロッパでは相手の感情をくんで、いい振る舞いをすることを「タクト」と言う。一口にヨーロッパと言ってもいろいろある。アメリカやスイスでは「タクト」は少ない。しかしウィーンやパリでは、日本の繊細に負けぬほどのタクトがある。これはどういうことなのか。アメリカやスイスは、異人種異言語が日常的に接触する国である。ウィーンやパリでは、共同の前提となる統一された文化がある。つまり暗黙の了解があるので、その暗黙の了解のうちに相手の感情をいたわることが可能なのだ。アメリカでは、まず論理を通さなければ異人種間の意見の一致を見ることはできない。

ところがそうとばかりも言えないような気がするのだ。
その昔、アメリカでホームステイしているころ、どういうわけかわたしはよくおじいさんおばあさんから話かけられた。自分からはまだまだ話はできない。というか、外国の、見ず知らずのおじいさんやおばあさんに一体何を話して良いものやら見当もつかない。いきおい、聞く方専門になる。日本人の癖で、つい、あいづちを打ってしまう。すると、それはそれは喜んで、話を続けてくれるのだ。「感情に基づく社会的表現」は、相手のつぎの行動を引き出すのは、そういう情況ではアメリカでも同じなのだった。

結局は、会話の場が共同作業の場であるか、自分の論理を通す場であるかということなのだろう。アメリカ人でもおそらくあいづちだけで成り立っているような会話をしている場面もあるのだろう。おそらくそれがもっと密やかな、親密な関係において。そういう場面になかなか行き会うことができないだけではないかと思うのだ。

わたしはときどき電話で「聞いてる?」とか「もしもし?」とか言われるのだけれど、このあいづちを打つのが少ないのかもしれない。でも、ちゃんと聞いているので大丈夫、とここで言っても何の意味もないのだが。