今日からジョイス・キャロル・オーツの "Where Are You Going, Where Have You Been?" を訳していきます。1966年に発表されたこの短編は、オーツの初期の代表作でもあり、アメリカの短編アンソロジーの定番でもあります。60年代のアメリカの雰囲気を色濃く映し出している作品の冒頭に、「ボブ・ディランに」と献辞がついています。
だいたい十日くらいをめどに訳していくので、まとめて読みたい人は、そのころにまた来てみてください。
原文はhttp://jco.usfca.edu/works/wgoing/text.html で読むことができます。
彼女はコニー、十五歳で、ほんのちょっとのあいだ神経質そうにクスクス笑う癖は、首を伸ばして鏡をちらっとのぞきこむときとか、自分の姿かたちが大丈夫かどうか、相手の表情を見て確認しようとするたびに出る。母親は、自分の顔など隅々までよく知っており、新たな発見などあるはずもないために鏡に向かうこともなかったから、コニーの癖にはいつも小言を言った。
「自分の顔に見とれるのはやめて。何様のつもり? 自分のことをそんなに美人だとでも思ってるの?」と決まって言う。いつもながらの文句に、コニーもそのたびに眉をあげてみせるのだが、一緒に母親の目のなかの自分のおぼろな姿が、いまこの瞬間にステキであるかどうかのぞきこんでみるのだった。コニーは自分が美人であることを知っていたし、それだけで十分だったのだ。アルバムのスナップが信頼できるものだとしたら、ではあったのだが、母親も昔は美しかった。だがいまや美貌は過去のもの、だからこそコニーについてまわるのである。
「どうしてあなたはお姉ちゃんみたいに部屋を片づけられないの? その髪はどうしたのよ、その臭いはいったい何? ヘア・スプレー? お姉ちゃんがそんなガラクタを使ってるところなんて、あなただって見たことないでしょう?」
姉のジューンは二十四歳だったが、まだ家にいた。コニーの通っている高校で事務員をやっているのだが、同じ建物にブスで小太りでクソまじめな姉といるというだけで十分ひどいことなのに、その上、母や叔母がのべつまくなしに姉のことを褒めるのをコニーは聞かなくてはならない。ジューンがあれをした、ジューンがこれをした、ちゃんと貯金もしているし、家の掃除や料理のお手伝いもしてくれる、なのにコニーときたら何一つできないんですからね、あの子にできることといったら、くだらない夢みたいなことで頭をいっぱいにするだけ。父親は一日のほとんど、仕事に出かけており、家に帰ればすぐに食事にしたがる癖に、食べるときには新聞を読みながらだったし、食事がすめば、ベッドに入るのだった。家族とわざわざ話をするつもりもない父親だったが、うつむいて食事を取っている横で、母親はコニーに小言をいつまでも続けるために、コニーは、ママなんか死ねばいい、そうしてあたしも死んで、何もかもが終わりになっちゃえばいい、と思うのだった。
「ときどき、ママのせいで、おえっとなりそうになっちゃうのよ」コニーは友だちにこぼした。高い、息を弾ませたような、おもしろがっているような声をしていて、コニーが何か言うと、まじめなときもそうでないときも、いささか無理に声を出しているような感じがした。
ひとつ、良いこともあった。ジューンは自分の女友だち、彼女と同じくらいブスでお堅い女の子たちと出かけたために、コニーが出かけたがっても、母親はそれに反対するわけにはいかなかったのである。コニーの親友の父親が五キロほど離れた街に車で連れて行き、ショッピングセンターでおろしてくれたから、彼女たちは店をのぞいたり、映画を見に行ったりもできた。十一時になると、またそのお父さんが迎えにきてくれるのだが、その人は何をしてたんだ、などということを聞いて、娘たちをうんざりさせるようなまねはしないのだった。
(この項つづく)
だいたい十日くらいをめどに訳していくので、まとめて読みたい人は、そのころにまた来てみてください。
原文はhttp://jco.usfca.edu/works/wgoing/text.html で読むことができます。
* * *
「これからどこへ行くの、いままでどこにいたの?」
("Where Are You Going, Where Have You Been?")
by by Joyce Carol Oates
「これからどこへ行くの、いままでどこにいたの?」
("Where Are You Going, Where Have You Been?")
by by Joyce Carol Oates
彼女はコニー、十五歳で、ほんのちょっとのあいだ神経質そうにクスクス笑う癖は、首を伸ばして鏡をちらっとのぞきこむときとか、自分の姿かたちが大丈夫かどうか、相手の表情を見て確認しようとするたびに出る。母親は、自分の顔など隅々までよく知っており、新たな発見などあるはずもないために鏡に向かうこともなかったから、コニーの癖にはいつも小言を言った。
「自分の顔に見とれるのはやめて。何様のつもり? 自分のことをそんなに美人だとでも思ってるの?」と決まって言う。いつもながらの文句に、コニーもそのたびに眉をあげてみせるのだが、一緒に母親の目のなかの自分のおぼろな姿が、いまこの瞬間にステキであるかどうかのぞきこんでみるのだった。コニーは自分が美人であることを知っていたし、それだけで十分だったのだ。アルバムのスナップが信頼できるものだとしたら、ではあったのだが、母親も昔は美しかった。だがいまや美貌は過去のもの、だからこそコニーについてまわるのである。
「どうしてあなたはお姉ちゃんみたいに部屋を片づけられないの? その髪はどうしたのよ、その臭いはいったい何? ヘア・スプレー? お姉ちゃんがそんなガラクタを使ってるところなんて、あなただって見たことないでしょう?」
姉のジューンは二十四歳だったが、まだ家にいた。コニーの通っている高校で事務員をやっているのだが、同じ建物にブスで小太りでクソまじめな姉といるというだけで十分ひどいことなのに、その上、母や叔母がのべつまくなしに姉のことを褒めるのをコニーは聞かなくてはならない。ジューンがあれをした、ジューンがこれをした、ちゃんと貯金もしているし、家の掃除や料理のお手伝いもしてくれる、なのにコニーときたら何一つできないんですからね、あの子にできることといったら、くだらない夢みたいなことで頭をいっぱいにするだけ。父親は一日のほとんど、仕事に出かけており、家に帰ればすぐに食事にしたがる癖に、食べるときには新聞を読みながらだったし、食事がすめば、ベッドに入るのだった。家族とわざわざ話をするつもりもない父親だったが、うつむいて食事を取っている横で、母親はコニーに小言をいつまでも続けるために、コニーは、ママなんか死ねばいい、そうしてあたしも死んで、何もかもが終わりになっちゃえばいい、と思うのだった。
「ときどき、ママのせいで、おえっとなりそうになっちゃうのよ」コニーは友だちにこぼした。高い、息を弾ませたような、おもしろがっているような声をしていて、コニーが何か言うと、まじめなときもそうでないときも、いささか無理に声を出しているような感じがした。
ひとつ、良いこともあった。ジューンは自分の女友だち、彼女と同じくらいブスでお堅い女の子たちと出かけたために、コニーが出かけたがっても、母親はそれに反対するわけにはいかなかったのである。コニーの親友の父親が五キロほど離れた街に車で連れて行き、ショッピングセンターでおろしてくれたから、彼女たちは店をのぞいたり、映画を見に行ったりもできた。十一時になると、またそのお父さんが迎えにきてくれるのだが、その人は何をしてたんだ、などということを聞いて、娘たちをうんざりさせるようなまねはしないのだった。
(この項つづく)