陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ「シャルツ=メッテルクルーメ式教授法」前編

2008-05-25 22:53:15 | 翻訳
今日からサキの短編をいくつか訳していきます。
今日は「シャルツ=メッテルクルーメ式教授法」の前編です。
原文はhttp://haytom.us/showarticle.php?id=57で読むことができます。


The Schartz-Metterklume Method 
シャルツ=メッテルクルーメ式教授法


(前編)

 レディ・カーロッタは街道沿いの小さな駅に降り立って、なんのおもしろみもなさそうなホームを行ったり来たりしながら、汽車がまた機嫌を直して先へ進む気になるまでの暇つぶしをしていた。すると、向こうの街道で、一頭の馬が相当量を遙かに超える積荷を相手に格闘しているのが見えた。御者はというと、日々のたつきを立てる助けとなっているはずの生き物に対して、憎悪を抱く手合いのようである。レディ・カーロッタは即座に街道へおもむくと、格闘の形勢を一変させた。

知人のなかには、虐待された動物になりかわって、口出しはおよしなさい、と口うるさくお説教を始める輩もいるにはいた。そうした口出しなど「あなたには何の関係もないないんだから」というわけである。ただ一度、彼女がその不干渉主義を実行したことがあるのだが、それは不干渉主義者のなかでも雄弁で名高い人物が、イノシシに追いかけられて、小さくたいそう居心地の悪いサンザシの繁みのなかに、三時間近く籠城する羽目になったときのことである。そのあいだレディ・カーロッタは柵の向こうで描きかけの水彩画のスケッチを続け、イノシシとイノシシの虜囚のあいだに割って入ることは拒否したのだった。レディ・カーロッタが、最終的に助け出された婦人との友情を失ったことは、きわめて残念なことであった。

今回は、 汽車に乗り遅れただけですんだ。汽車は今回の道中で初めて焦りの色を見せたかと思うと、彼女抜きで走り去ってしまったのだ。レディ・カーロッタは哲学者のような無関心さでもって、見捨てられたことを受け止めた。友人であれ、親族であれ、本人の姿もないのに荷物だけが届くような事態には、すっかり慣れっこになっていたからである。

レディ・カーロッタは自分を待つ人びとに、自分は「ホカノキシャニテ」と、あやふやで当たり障りのない電報を打った。このあとどうすべきか考える前に、着飾って堂々たる物腰の女性に相対する羽目になったのである。相手はどうやら胸の内で、彼女の身なりや外見を調べ上げるのに余念がない様子である。

「あなた、ミス・ホープでいらっしゃるわね、わたくしとここで待ち合わせした家庭教師の方でしょ」不意に現れたその人物は、いかなる反論も許さない調子でそう言った。

「だったらいいんですけどね」レディ・カーロッタは自らの危険もかえりみず、反論もしないで独り言のようにそう言った。

「わたくし、ミセス・クォーバールです」その夫人は続けた。「それで、あら、あなたのお荷物はどこ?」

「行方不明になってしまったんです」家庭教師と決めつけられたレディ・カーロッタは、不在者がつねに責めを負う、という人生の黄金律に基づいて答えた――事実に基づくならば、荷物の側になんら落ち度がなかったことは言うまでもない。

「荷物のことで、いまちょうど電報を打ったところだったんです」と付け足して、多少なりとも真実に近づけておいた。

「まったく鉄道会社の不注意なことといったら」とミセス・クォーバールは言った。「ひどい話だわね。だけどあなた、今夜は家のメイドのものを借りたらいいわ」そう言うと、先に立って車の方へ歩いていった。

クォーバール邸へ車で向かう途中、レディ・カーロッタは、自分に押しつけられることになった教え子の性質を、入念に聞かされることになった。それによると、クロードとウィルフレッドは繊細で感じやすい子供で、アイリーンは芸術的な気質を持ったたいそう優秀な子供、ヴァイオラはなんとかかんとかの面で、二十世紀のこの階級にありがちなタイプの子供たちによく見られるようなタイプではない子供だということである。

「わたくしは子供たちを教えていただければいいと思っているのではございませんの」ミセス・クォーバールは言う。「そうではなく、学ぶことに興味を持たせていただきたいんですのよ。たとえば歴史の授業でしたら、実在した男性や女性の人生の物語として子供たちが感じられるよう教えてやってほしいのです。単に名前や出来事の年代を覚えるというだけでなくね」

(この項つづく)