(後編)
* * *
「あなたたち、こんなところで何をしているの?」翌朝、ミセス・クォーバールは、階段のてっぺんに陰気な顔をしてすわりこんでいるアイリーンと、後ろの出窓にオオカミの毛皮をかぶって腰かけて、おもしろくなさそうな顔をしている妹のヴァイオラを見つけて聞いた。
「わたしたち、歴史の授業を受けてるの」と思いもよらない答えが返ってきた。
「わたしがローマっていうことになってるの。で、あそこにいるヴァイオラは、メスのオオカミなのよ。っていってもほんとのオオカミじゃなくて、ローマ人があがめたオオカミの銅像なの――なんであがめたのか忘れちゃったけど。でね、クロードとウィルフリッドはみすぼらしい女の人を探しに行ったの」
「みすぼらしい女の人ですって?」
「そうよ。お兄ちゃんたちはその人たちを連れてこなくちゃならないの。いやだ、って言ったんだけどね、ホープ先生がパパのファイブズ(※イギリスの寄宿学校で行われたスカッシュに似た球技)のバットを持ってきて、行かなきゃこれで九発お尻をひっぱたいてやるわよ、って言ったから、行かなきゃならなくなったのよ」
怒鳴り声が庭の方から聞こえたので、ミセス・クォーバールは大慌てでかけつけた。この瞬間にも恐ろしい体罰が加えられているのかもしれない、と思うといてもたってもいられなかったのである。
だが、大声でわめいているのは、おもに門番小屋の小さな女の子ふたりで、その子たちを家の方向に引きずったり押し立てたりしているのは、はあはあ言いながら髪を振り乱したクロードとウィルフリッドなのである。あまつさえ捕らえられた少女たちの弟が、効果的とは言えないまでも、攻撃の手をゆるめないために、ふたりの任務はさらに困難の度を増している。
家庭教師はファイブスのバットを手に持ったまま、石の手すりに平然たる面もちで腰をおろし、戦場の女神のごとく一場を冷静かつ公平無私に仕切っていた。
「かあぁぁちゃんに言いつけてやるぅぅ」と怒りに満ちたコーラスが門番小屋の子供たちによって繰りかえされるが、門番のおかみさんは、耳が遠いため、目下洗濯に余念がない。不安そうなまなざしを小屋に注いでから(善良なるおかみさんは、ある種の難聴者に特権として与えられている、きわめて好戦的な資質のもちぬしであったのだ)ミセス・クォーバールは、人質と格闘している息子たちを救助に駆けつけた。
「ウィルフリッド! クロード! すぐにその子たちを離しなさい! ホープ先生、これはいったいどういうことなんですの?」
「古代ローマ史です。サビニ女の略奪をご存じじゃございません? 子供たちが歴史を自分で体験することによって理解するのがシャルツ=メッテルクルーメ式教授法なんです。記憶に刻みつけられますからね。当然のことながら、あなたの結構なお節介のおかげで、ご子息がサビニ女たちは最終的には逃亡したのだと一生誤って理解したとしても、わたしの責任ではありません」
「あなたは大変聡明で、現代的な方なんでしょう、ホープ先生」ミセス・クォーバールは厳しい口調で言った。「でも、つぎの汽車でここを出ていってくださるようお願いします。あなたの荷物は到着次第、そちらに送りますから」
「どこへ落ち着くことになるかなるかわかるまで、数日はかかると思います」首になった家庭教師は言った。「電報で住所をお知らせしますから、それまで荷物を預かっておいてください。トランクがふたつか三つと、ゴルフクラブが数本、あとヒョウの子が一頭いるだけですから」
「ヒョウの子ですって!」ミセス・クォーバールは喉の奥で妙な声を出した。この途方もない女は出ていったあとさえ、困惑の余波を残していく運命にあるのか。
「もうね、子供とは言えなくなってきてるんです、おとなになりかけ、と言った方がいいのかしら。毎日ニワトリ一羽、日曜日にはウサギ、それがいつものエサです。生の牛肉をやると気が荒くなってしまって。ああ、わたしのために車のご用意はしていただかなくて結構です。散歩しながら行ってみたいんです」
そうしてレディ・カーロッタは元気良くクォーバール家の地平から去っていったのだった。
本物のホープ先生が登場して(到着予定の日を一日間違えていたのである)、その善良な女性が未だ経験したことのないほどの騒動に直面することとなった。クォーバール一家がまんまと一杯食わされたことはどう考えても明らかだったが、それがわかって、みんながほっとしたことも事実である。
「ずいぶん大変な目に遭ったんでしょうね、カーロッタ?」彼女を招待した家の女主人が、やっと到着した客に向かってそう言った。「汽車に乗り遅れて、見ず知らずの場所で一泊しなきゃならなかっただなんて」
「あら、そんなことなかったわ」とレディ・カーロッタは言った。「ちっとも大変な目になんて遭ってないのよ――わたしはね」
この話の背景にはローマの建国伝説があります。(※参照王政ローマ)
アイリーンがやっているのはローマ神マルスを待つ巫女のシルウィアで、ヴァイオラがやっているのは、ロムルスとレムを育てるオオカミ(笑)なんでしょうね。
ロムルスとレム、ではなく、クロードとウィルフリッドは、サビニ女の略奪を実演させられている。
You Tube でこれのドラマ化を見ることができます。「サビニ女」はメイドになっちゃってますが。とってもイギリスらしい英語の発音を聞くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=e2G0U0VUI9g
関係ないんですがYou Tubeのこのページを開くと、横にニルヴァーナの"About A Girl"のMTVのアンプラグドの映像がアップしてあって、その昔、何度も何度もこれを見たことを思い出しました。この曲もよく聴いた。カート・コバーン、このときはまだ生きてたんだよなあ……。
* * *
「あなたたち、こんなところで何をしているの?」翌朝、ミセス・クォーバールは、階段のてっぺんに陰気な顔をしてすわりこんでいるアイリーンと、後ろの出窓にオオカミの毛皮をかぶって腰かけて、おもしろくなさそうな顔をしている妹のヴァイオラを見つけて聞いた。
「わたしたち、歴史の授業を受けてるの」と思いもよらない答えが返ってきた。
「わたしがローマっていうことになってるの。で、あそこにいるヴァイオラは、メスのオオカミなのよ。っていってもほんとのオオカミじゃなくて、ローマ人があがめたオオカミの銅像なの――なんであがめたのか忘れちゃったけど。でね、クロードとウィルフリッドはみすぼらしい女の人を探しに行ったの」
「みすぼらしい女の人ですって?」
「そうよ。お兄ちゃんたちはその人たちを連れてこなくちゃならないの。いやだ、って言ったんだけどね、ホープ先生がパパのファイブズ(※イギリスの寄宿学校で行われたスカッシュに似た球技)のバットを持ってきて、行かなきゃこれで九発お尻をひっぱたいてやるわよ、って言ったから、行かなきゃならなくなったのよ」
怒鳴り声が庭の方から聞こえたので、ミセス・クォーバールは大慌てでかけつけた。この瞬間にも恐ろしい体罰が加えられているのかもしれない、と思うといてもたってもいられなかったのである。
だが、大声でわめいているのは、おもに門番小屋の小さな女の子ふたりで、その子たちを家の方向に引きずったり押し立てたりしているのは、はあはあ言いながら髪を振り乱したクロードとウィルフリッドなのである。あまつさえ捕らえられた少女たちの弟が、効果的とは言えないまでも、攻撃の手をゆるめないために、ふたりの任務はさらに困難の度を増している。
家庭教師はファイブスのバットを手に持ったまま、石の手すりに平然たる面もちで腰をおろし、戦場の女神のごとく一場を冷静かつ公平無私に仕切っていた。
「かあぁぁちゃんに言いつけてやるぅぅ」と怒りに満ちたコーラスが門番小屋の子供たちによって繰りかえされるが、門番のおかみさんは、耳が遠いため、目下洗濯に余念がない。不安そうなまなざしを小屋に注いでから(善良なるおかみさんは、ある種の難聴者に特権として与えられている、きわめて好戦的な資質のもちぬしであったのだ)ミセス・クォーバールは、人質と格闘している息子たちを救助に駆けつけた。
「ウィルフリッド! クロード! すぐにその子たちを離しなさい! ホープ先生、これはいったいどういうことなんですの?」
「古代ローマ史です。サビニ女の略奪をご存じじゃございません? 子供たちが歴史を自分で体験することによって理解するのがシャルツ=メッテルクルーメ式教授法なんです。記憶に刻みつけられますからね。当然のことながら、あなたの結構なお節介のおかげで、ご子息がサビニ女たちは最終的には逃亡したのだと一生誤って理解したとしても、わたしの責任ではありません」
「あなたは大変聡明で、現代的な方なんでしょう、ホープ先生」ミセス・クォーバールは厳しい口調で言った。「でも、つぎの汽車でここを出ていってくださるようお願いします。あなたの荷物は到着次第、そちらに送りますから」
「どこへ落ち着くことになるかなるかわかるまで、数日はかかると思います」首になった家庭教師は言った。「電報で住所をお知らせしますから、それまで荷物を預かっておいてください。トランクがふたつか三つと、ゴルフクラブが数本、あとヒョウの子が一頭いるだけですから」
「ヒョウの子ですって!」ミセス・クォーバールは喉の奥で妙な声を出した。この途方もない女は出ていったあとさえ、困惑の余波を残していく運命にあるのか。
「もうね、子供とは言えなくなってきてるんです、おとなになりかけ、と言った方がいいのかしら。毎日ニワトリ一羽、日曜日にはウサギ、それがいつものエサです。生の牛肉をやると気が荒くなってしまって。ああ、わたしのために車のご用意はしていただかなくて結構です。散歩しながら行ってみたいんです」
そうしてレディ・カーロッタは元気良くクォーバール家の地平から去っていったのだった。
本物のホープ先生が登場して(到着予定の日を一日間違えていたのである)、その善良な女性が未だ経験したことのないほどの騒動に直面することとなった。クォーバール一家がまんまと一杯食わされたことはどう考えても明らかだったが、それがわかって、みんながほっとしたことも事実である。
「ずいぶん大変な目に遭ったんでしょうね、カーロッタ?」彼女を招待した家の女主人が、やっと到着した客に向かってそう言った。「汽車に乗り遅れて、見ず知らずの場所で一泊しなきゃならなかっただなんて」
「あら、そんなことなかったわ」とレディ・カーロッタは言った。「ちっとも大変な目になんて遭ってないのよ――わたしはね」
The End
この話の背景にはローマの建国伝説があります。(※参照王政ローマ)
アイリーンがやっているのはローマ神マルスを待つ巫女のシルウィアで、ヴァイオラがやっているのは、ロムルスとレムを育てるオオカミ(笑)なんでしょうね。
ロムルスとレム、ではなく、クロードとウィルフリッドは、サビニ女の略奪を実演させられている。
You Tube でこれのドラマ化を見ることができます。「サビニ女」はメイドになっちゃってますが。とってもイギリスらしい英語の発音を聞くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=e2G0U0VUI9g
関係ないんですがYou Tubeのこのページを開くと、横にニルヴァーナの"About A Girl"のMTVのアンプラグドの映像がアップしてあって、その昔、何度も何度もこれを見たことを思い出しました。この曲もよく聴いた。カート・コバーン、このときはまだ生きてたんだよなあ……。
実際のところ僕は翻訳作業についておぼろなことしか想像できませんが、古典を通読して現代語訳にするのと似ているような気がします。
にしてもオモツロイ。すごいヴェラですね、このカーロッタさん。
平和的玩具を人間でやってしまうような大胆不敵さですね。ヴェラの師匠かも(笑)
ローマをロムルスとレムスからやっていったら、どれだけ時間があっても足りませんね…教皇のバビロン捕囚とか授業するときは連れて行くつもりでしょうか。
オオカミの毛皮をかぶって腰かけて
ここで大笑いです。ほとんど落語。堪能しました。ありがとうございます。
…僕は書物を読むと言うほど読んではいませんので、これから少しずつ興味深い方向に向けて読書していきたいと思っています。
全くちなみませんが紀貫之からハンドルをいただいてます。
楽しんでいただけて何よりです。
そうでしょ、おもしろいんです。
サキのなかでも名作のひとつだと思います。
ただ、これが新潮文庫や岩波文庫に入っていないのは、やはりローマ古代史は多くの人になじみがないという判断なのでしょうね。
>オオカミの毛皮をかぶって腰かけて
で笑えるのは、あの銅像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Lupa_romana.jpeg
を知っているからであって。
ミセス・クォーバールは「歴史の授業でしたら、実際に生きていた男性や女性の人生の物語として子供たちが感じられるように教えてやってほしいのです。単に名前や出来事の年代を覚えるというだけでなくね。」なんてことを偉そうに言っているわけですが、現実にそういう教育を受けて育ったカーロッタから見れば、何を今更、と、鼻で笑いたいようなものだったんだと思うんです。
日本でも平安貴族が和歌や習字が「必修課程」だったように、イギリスの上流階級では歴史とか、詩とか、語学とかが「必修課程」で、幼い頃から身につけさせられた。逆に、そういうことに詳しいことが上流階級の証しでもあるわけで、財力を持った中流階級が、お金のつぎに求めるのは、そうした教養だったんですね。
だけど、こういうことを正面切って言う人がいたら、逆にすごくいやらしく思えてしまう。
だからこそ、レディ・カーロッタみたいな突拍子もない人が楽しいんだと思います。
帰り際、レディ・カーロッタはとどめの一発を放って帰るじゃないですか。「ヒョウの子」の到来を、ミセス・クォーバールはどんな思いで待って(?)いたか、を思うと、笑わずにはおれません。
いや、この調子でやってたら、ローマ古代史だけで子どもたちは大人になっちゃいそうです。第二次ポエニ戦争のときは、象を連れてこなくちゃ(笑)。
書きこみ、ありがとうございました。
ほかの翻訳でも、おもしろいのがいくつもあります(訳のまずさはさておいて)。これは、と思うのがあれば、これほどうれしいことはありません。
ただ、翻訳も増えてきたので、おおまかなジャンル分けが必要かもしれません。
とりあえず「著者と作品紹介」http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/translation2.html
のページをざっと見て、そこからこれはおもしろいかも、というのを捜してみるのがいいかもしれません。
ジャンル分けもずっと考えてるんですが、文学-非文学、みたいなカテゴライズは好きじゃないし、だとしたら、どんなふうな分け方が可能だろう、みたいに思うと、なかなかできずにいます。
「ちくま文学の森」みたいに「怖い話」「悪いやつの物語」みたいな分け方をしてみようかしら。
ところで「きの。」というHNから、なんとなく女性の方かなあと思っていたんですが、「紀貫之」なんですね。
じゃ、女性の方、とわたしが思ってしまっても、あながち的はずれというわけではなかったのかもしれません(笑)。
最後の句点は「ほっしゃん。」と同じ働き(どういう働きだ?)をしているわけですね。
書きこみありがとうございました。
楽しんでくださったとわかって、とてもうれしく思いました。
また何かあったら、よろしくお願いしますね。
英語勉強会で課題となったので、一読し、英語の理解もさることながら、この短編のどこが面白いのだろうと思い、このサイトに掲載されているSakiの短編を読み、陰陽師さんに質問しました。丁寧なご返事を頂き、二回目は強烈なご指導のメールを頂きました。忘れられない思い出です。
その後発奮し、私なりに翻訳しましたのが、下記のURLです。陰陽師さんもどこかにお書きになっていますが、この短編をよりよく理解するために翻訳しました。英語の会の仲間に照会するために一時的にサイトに載せたものです、誰からも何の反応もなかったのですが。
Lady Carlotta ・・・put rather a different complexion on the struggle.
この表現が分からず、いろいろ調べた結果それなりに感触を得ましたので、当日外人講師に質問したのですが、納得できる答えが返ってこなかった。私は「カーロッタは苦しむ馬の状況を一変させたのだ(具体的に何がどうとは書かれていませんが)」と解釈したのですが、講師からは次のような説明がありました。
I think you can argue that she DID something to interfere with the man and his horse because later it says "only once had she put the doctrine of non-interference into practice". It does not say "only one other time". But Saki does not give us any indication that she did interfere in this case (the man and the horse). He does not show us that she CHANGED the situation, just that she saw it in a different light. She was watching the man and his horse and imagining what the horse was thinking. Her mere presence in the picture changed the picture. But Saki does not tell us that she disturbed them. And later, he writes "this time, she merely lost the train", showing us that she did not disturb them.
カーロッタの性格からいっても納得できない、とかなり長文のメールで再度自分の意見を書いたのですが、それについての解答はなし。講師としては自分の読みに変更を加える余地はないようです。この点、ここに掲載された訳は私と同じ解釈ですので、安心しました。
とにかく、陰陽師さんとのやり取りを含めて、楽しい思い出でした。ありがとうございました。
http://www.kojintekina.com/monthly/monthly_translation.html
ご質問の箇所から見ていきましょう。
要はこの先生は、汽車を待っているあいだ、レディ・カーロッタは積荷と格闘する馬が気になって、つい見ていたために、汽車に乗り遅れてしまった、というふうに解釈していらっしゃるわけですね。
まず原文はこうです。
"Lady Carlotta promptly betook her to the roadway, and put rather a different complexion on the struggle."
問題になるのは "complexion" という単語だと思うんですが、Oxford を見てみると
1. the natural color, texture, and appearance of a person's skin, esp. of the face
2. the general aspect or character of something
とあります。もちろんこの場合は2に当たる、「様相」とか「形勢」とか「状況」、あくまでも外からちょっと俯瞰して見た感じの単語ですよね。
ランダムハウスにはこの2.にあたる例文に、サキの本文によく似た文章が出ています。
His confession put a different complexion on things.
(彼の告白で状況が様変わりして見えた)。
途中挿入された語句を除くと
Lady Carlotta put rather a different complexion on the struggle.
という文章を、上記の例文に基づいて訳していくと、
(レディ・カーロッタ(の出現)で状況が様変わりして見えた。)
ということになります。
つまり struggle(闘争)に、a different complexion(別の様相)を与えたのは、主語であるLady Carlottaということになるはずです。
道に降りることでa different complexion(別の様相)が与えられたのだとしたら、主語はちがうものにしてやるか、put ではなく took が来なくてはならないと思います。
さて、もうちょっと内容から検討してみましょう。
わたしたちのレディ・カーロッタが、見ているだけで手出しをしない、などということがありうるでしょうか?
断じて否、ですね(笑)。
>"only once had she put the doctrine of non-interference into practice"
原文のこの箇所は、直訳すると「彼女はただ一度、自分の不干渉主義を実効に移さなかった」ということになります。
それがどうして
>It does not say "only one other time".
ということになるのかよくわかりません。
しかも、その「ただ一度」とは、口うるさく「不干渉主義」を訴える人物が、イノシシに追いかけられて藪においつめられた、そのときに動物と彼女のあいだのトラブルに割って入らなかった、というエピソードです。
このエピソードは何のために挿入されたかというと、「彼女はあらゆる場合に動物が虐げられている場面で介入した」ことを、反語的に言うためです。
先生のおっしゃるように、「かつてこんなことがあった、として挿入されたエピソード」と理解すると、この短編がずいぶん弛緩したものになるはずです。
> Saki does not give us any indication that she did interfere in this case
> He does not show us that she CHANGED the situation, just that she saw it in a different light.
サキばかりではなく、結末の意外性に魂を置くタイプの短編では、あらゆるエピソードは結末の一点に向かって配置されていきます。まるで遠近法の絵が、消失点の一点に向かっていくように、それに向けて配置されているのです。
この短編の消失点というのは、あくまでもタイトルのシャルツ=メッテルクーメ式教授法なのですから、それ以外の出来事は当然デフォルメされます。
たとえば、この作品にはレディ・カーロッタの外見の描写はただのひとつもありません。家庭教師と見間違われるというところで、わずかに若い未婚らしい女性、ということがわかるだけです。けれどもその必要はないのです。
そのほかにも、彼女がいったいどこへ行くつもりだったか、とか、あるいはレディ・カーロッタがほんとうにロシア語が話せるかどうか、とか、書かれていないことは山のようにあります。そういうものは、このテキストには必要ないのです。
あるいはまた、タイトルにもなった「シャルツ=メッテルクーメ式教授法」が一体何なのか、読者は何の情報も与えられていません。レディ・カーロッタの舌先三寸、口からでまかせであることも、もちろん書いてありません。読者はそれを読みとることを、作者から求められているのです。
それと同じように、この馬と荷車のエピソードにこれ以上の描写があってはいけません。この最小限の "indication" で、あとの具体的に起こったことは、読者ひとりひとりの想像力に委ねられているのです。
この事件は何のために配置されているか。
もちろんレディ・カーロッタが汽車に乗り遅れる必要があるからです。
けれども、ギリシャ時代から、喜劇というのは、登場人物の性格から出来事が引き起こされる、という定式があります。ですからこの出来事も、登場人物の性格が引き起こしたと読まなくてはなりません。
出来事の背景にある彼女の性質というのは、「想像力豊か」ではなく(確かに想像力豊かにはまちがいないのですが)、豊かな行動力と、向こう見ずと言って良いほどの正義感のもちぬしであった、というところを読みとっておかなくてはなりません。
この「正義感」を見逃すと、レディ・カーロッタはただのうそつきになってしまいます。
彼女はミセス・クォーバールのエセ教養をぺしゃんこにしてやろうとして、「シャルツ=メッテルクーメ式教授法」なるものを披露したのですから。
ただ、わたしはその講師の方の解釈は間違っている、とは思うのですが、そのことを、その講師の方に認めていただく必要はないと思うんですね。
だって、どっちの読み方の方が深く、おもしろく読めていると思います?
それで十分じゃありませんか。
「個人的な」さん、その節は失礼しました(笑)。
ちょっとムカついたんです。
どこらへんでムカついたかは、すでにご理解していただけたと思うので、繰りかえすことはしませんが。
ええ、実は怒りっぽいんです(笑)。
そういう怒りっぽさを恥じてはいるんですが。
しかも、自分のやったことなしたことを批判されるより、自分が好きなものとか、好きな人とかを批判される方がヨワい。
誰が何と批判したところで、そのものの良さがちょっとでも減じるわけではないのはよくわかっているんです。単にわたしの好きな気持ちが傷ついただけだってことも。
だけど、何かとか、誰かを好きになるっていうのは、そういう弱みを抱えることだとも思うんですよ。弱みは弱みとして、なんて言うと、なんだか開き直ってるみたい(笑)。
「個人的な」さんがメールをくださらなかったら、知ることもなかった短編でした。
ありがとうございました。
またこれに懲りず、こういうのが読みたい、というのがありましたら、それ以外にも、こんなことがあった、と話したくなるようなことがありましたら、また書きこんでくださるとうれしいです。
翻訳にしても、英語にしても、まだまだ勉強が足りないと思う毎日です。
これからも、お互いがんばっていきましょうね。