陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

窓の向こう

2007-03-25 22:24:26 | weblog
学生の頃、夜、電車に乗ってバイト先から帰っているとき、沿線の家々から洩れてくる明かりを見ては、あの窓の向こうに生活があるのだ、と思っていた。

高層住宅も、電車から見えるのが玄関の側だったりすると、そこに見える光景はよそ行きの顔だ。ついている明かりも、廊下に規則的に並ぶ、青白い蛍光灯である。
それが、玄関とは反対側の窓だと、明かりの色もさまざま、カーテンの色を通していたり、人影が映ったり、TVの青い明かりがチラチラと瞬いていたりもする。

冬の水蒸気で曇った窓の向こう、電灯のあるとおぼしいあたりだけがくっきりと明るく、あとはぼおっとしている向こうはひどく暖かそうで、自分がこれから帰っていく、まっ暗い窓を思ったりもした。

その向こうでの生活は、さまざまにあるだろう。
『アンナ・カレーニナ』にはあの有名すぎる冒頭の一文
幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしているものだ。

があるけれど、似ているといえば、幸福であれ不幸であれ似ているだろうし、それぞれにちがうといえば、幸福も、不幸も、それぞれにちがうものであるのにちがいない。どこから見るか、その見る位置によって、同じにも、ちがうふうにも見えるのだ。いっそ、人間の幸福も不幸も、たいしてちがいがありはしない、というような視点の置き方だってあるだろう。

ベランダでもみ合っているカップルを見かけたことがある。たぶん、夏だったのだろう、ランニングシャツ姿の男が、同じように薄着の、髪をふりみだした女の両手首をつかんでいた。電車で過ぎていくほんの一瞬のことだったが、胸を衝かれ、どうなったか後々までひどく気になった。

閉め出されたのか、窓ガラスを叩いて泣いているらしい子供の姿を見たときは、他人事ながら、危ないと思ったものだ。

いつ見ても、ベランダに出した椅子に腰かけて、タバコを吸っているおじいさんもいた。暗い中、少し低い位置でかすかに揺れる火は、赤い蛍のようにも見えた。

いまわたしは、夜に帰ってくると、明かりをつけ、それからカーテンを閉める。
外の夜を閉めだし、しっかりと戸締まりをするのだ。
そうすると、部屋の中がほんとうの夜らしくなってくる。
カーテンの向こうで電車が走り抜ける音がする。その中に、わたしの窓を見上げて、あそこに生活がある、と思っている人はいるだろうか。


(※明日から新しいことをたぶん始めると思います)