陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ウィラ・キャザー 「ポールの場合」その9.

2007-03-14 22:19:44 | 翻訳
「ポールの場合」その9.

 日曜日の朝、ニューヨークは雪にすっぽりと閉じこめられてしまった。遅い朝食を取ってから、ポールは午後になってふとしたことからイェール大の一年生、サンフランシスコ出身の不良青年と知り合った。日曜日、「ちょっとした冒険」をするためにやってきたのだという。ニューヨークの夜の世界を案内してやるよ、とポールに言い、ふたりは夕食がすむと、翌朝七時まで、ホテルには戻って来なかった。うち解け、友好的にシャンペンを酌み交わすところから始まった友情も、エレヴェーターで別れるころにはひどく冷え冷えとしたものになっていたのだった。イェール大生は、気分を一新して電車に乗りこんだが、ポールのほうはベッドに倒れこんだ。目が覚めたのは昼の二時で、ひどく喉が渇いて、眩暈もしたので、電話をかけて、氷水とコーヒー、それにピッツバーグの新聞を頼んだ。

 ホテル関係者から見ても、ポールの様子には怪しいところはなかった。それが略奪品であっても、威厳を持って着こなしており、人の注意を引くようなところなど微塵もない。ワインに酔うことはあっても、馬鹿騒ぎとは無縁で、奇術師が手品を繰りだすステッキを見つけたのとどれほども変わらなかった。ポールの貪欲さは、もっぱら耳と目に限られていて、多少いきすぎるところがあったにせよ、それが不快感を与えるようなものではなかった。最大の楽しみは、居間に坐って灰色の冬の日のたそがれを眺めることだった。自分の花や、自分の服、体を沈めるゆったりしたソファ、タバコ、そうして力の感覚を、静かに楽しんだのである。自分自身とこれほどまでに穏やかな気持ちで向き合ったことなど、これまでになかったように思う。つまらない嘘を吐く必要から解放されたのだ。来る日も来る日も嘘ばかり吐いてきたのに。それだけでも、自尊心を取りもどすことができるのだった。たとえ学校であっても、嘘を吐いて楽しかったことなど一度もなかった。自分が認められ、尊敬され、コーデリア街のほかの連中とはちがっていると主張するために吐いてきた嘘だった。自分がずいぶん男らしく、誠実な人間になったように感じ、友人の役者たちがよく口にしていたように、「役を身にまとう」ことができるようになったいまでは、大きな口を叩く必要も、気取る必要もなかったのである。きわだったことに、後悔の念がまったく起こらなかった。一点の曇りもなく黄金の日々が続き、ポールもまた最善を尽くしたのだった。

 ニューヨークにやって来てから八日目、ポールはピッツバーグの地方紙に、事件の全貌が書き立てられているのを見つけた。地元ではセンセーショナルなニュースが枯渇していた時期だったらしく、詳細に報じられている。デニー・アンド・カーソン商会では、少年の父親が横領された全額を弁済したために、告発するつもりがないことを言明していた。カンバーランド長老教会の牧師は、インタビューに答えて、この母親のいない子供にも更正の余地は残っている、といい、日曜学校の教師も、そのためにわたしも努力を惜しむつもりはありません、と答えている。ニューヨークのホテルでその少年を目撃したという噂は、ピッツバーグまで届いているようだった。

 ちょうどポールは夕食のための着換えに、部屋に戻ったときのことだった。膝の力が抜けて、がっくりと椅子にくずおれ、両手で頭を抱えた。刑務所に行くのより、なおのこと悪いじゃないか。あのコーデリア街のぬるま湯が、とうとう、そうして未来永劫、自分を閉じこめてしまうのだ。灰色の単調な生活が、何の望みもなく、救われることもない歳月が続いていく。日曜学校、青年会の集い、黄色い壁紙の部屋、湿った布巾、なにもかもが胸がむかつくほど克明に浮かびあがってきた。オーケストラが突然中断した感じ、劇が終わってしまった、という、気持ちが沈んでいく感じが襲ってくる。顔には汗が吹きだした。弾かれたように立ち上がると、真っ青になった顔で、鏡に向かってウィンクした。勉強もしないで教室に入っていくときのように、奇跡が起こるに違いない、という、昔ながらの子供っぽい信念を抱きながら、服を着替えて口笛を吹きながら、エレヴェーターに向かって廊下を進んでいったのだった。

 ダイニングルームに入って、音楽が聞こえてくると、この瞬間を味わい、気持ちを高めていき、満足を見出そうとする、本来の快活な能力がよみがえってきて、気分は明るくなってきた。彼を取り巻いている、まばゆく輝くけれども舞台装置でしかない飾りが、ふたたび、そうして最後に、本来の力を発揮した。自分自身に勇気があるところを見せてやらなくちゃ。立派にやり遂げてみせる。これまでになかったほど、コーデリア街の存在が疑わしいものに思えてきた。そうして初めて、あとさきのことを考えず、酒をあおった。結局、ぼくはここにいる幸せな人々のひとりとして、高貴に生まれついたのではなかったのか。いまこそほんらいの自分、そうして本来の自分の場所にいるのではないのか。音楽にあわせて神経質そうに指でテーブルを叩きながら、あたりを見まわして、自分がやったことは十分に報いられたのだ、と、何度も何度も自分に言い聞かせるのだった。

 うねる音楽とワインのひんやりとした甘さに朦朧としながら、自分はもっとうまく立ち回れたのではなかったのか、と振り返る。外国行きの汽船に乗って、いまごろ、連中の手の届かない場所に行ってしまうこともできたのだ。だが、海の向こうの世界はあまりに遠く、あまりに覚束なかったのだ。そんなことを待ってなどいられなかった。彼が求めていたのは、もっとせっぱ詰まったものだったのだ。もし同じことを最初からもういちどやったとしても、明日も同じことをするだろう。ポールは柔らかな霧の向こうに輝いているダイニングルームを、愛惜の思いをこめて見渡した。ああ、ほんとうに、確かに報いられた!

(明日最終回)