「ポールの場合」その8.
とはいえ、むすっとした顔で仕事に縛りつけられていたのは、たった一日前のことでしかなかった。昨日の午後、いつもどおりにポールは、デニー・アンド・カーソン商会の預金を持って銀行に行ったのだ――だが、そのときは精算のために、通帳を預けておくように指示された。小切手が全部で二千ドル以上、加えて紙幣で千ドル近くあったが、彼はそれを通帳から抜き取ると、自分のポケットに移したのである。銀行は新しい入金伝票を発行してくれた。気分はちっとも動揺していなかったので、そのまま事務所に戻って自分の仕事を片づけてから、いかにももっともらしい理由と一緒に、土曜日の明日、まる一日休ませてほしい、と申し出た。通帳が月曜か火曜まで戻ってこないことはよくわかっていたし、父親は来週一杯、出張が決まっていた。ポケットに札を滑りこませたときから、ニューヨーク行きの汽車に乗るまで、ほんの一瞬の躊躇もすることがなかった。危険水域に足を踏み入れたのは、なにもこれが初めてのことではなかったのだ。
なにもかもがあきれるほど簡単だった。ことは完了し、自分はここにいる。もはや目を覚ます人間もいないし、階段のてっぺんに立つ姿もない。窓の外、渦を巻きながら舞う粉雪を眺めていたが、そのうちに眠りこんでしまった。
目を覚ましたときは午後の三時になっていた。ハッとして飛び起きる。貴重な日々のうちの半日が、すでに過ぎてしまった! 身支度するのに一時間をかけ、そのたびごとに洗面所の鏡に入念に映して、仕上がり具合を確かめた。何もかもが完璧だ。自分がこれまでずっとこうありたいと思っていた少年になったのである。
階段を下りたポールは、馬車を頼んで五番街からセントラルパークへと向かった。雪はいくぶん弱まっている。馬車や商人の荷馬車がせわしげに、冬のたそがれのなかを音もなく行き交っていた。マフラーをまいた男の子たちが、シャベルで家の前の階段の雪かきをしている。五番街という舞台は、白一色の通りを背景に、華やかな色合いが浮かびあがっていた。街角のあちこちには屋台が立っていて、そこにはガラスケースに入った花園のように花が咲き乱れ、雪片も舞い降りる端から溶けていくのだった。スミレ、バラ、カーネーション、スズラン……雪のなかで不自然に咲く花は、それだけにいっそう美しく、心引かれる。セントラルパークもまた、冬景色として描かれた作品の舞台のように、すばらしいものだった。
ホテルに戻ったときは、残っていた薄明かりもすっかり消え、通りの様子は一変していた。雪は激しさを増し、高層ホテル群から洩れる灯りは、大西洋から吹きつける荒々しい風をものともせず、嵐のなか、燦然と輝いていた。馬車は長く続く黒い影となって南へ向かう通りを進んでいき、そこかしこで東西方向へ向かう流れと交叉した。ホテルの入り口は多くの馬車が列を成し、ポールが乗った馬車もしばらく待たなければならなかった。おそろいの服を着たボーイたちが、歩道まで覆う天幕の下を走って出たり入ったり、入り口から歩道へ続く赤いヴェルヴェットの絨毯を、昇ったり下りたりしている。頭上も、周囲も、内部でも、そこかしこで車がガラガラ鳴る音やどよめきが聞こえ、ポールと同じように、楽しみを求めて急いだり、行き交ったりする大勢の人々がいた。彼の周囲のあらゆるものが、富が万能であることを紛れもなく肯定していたのだった。
望みが叶った、という思いが発作のように襲ってきて、少年は歯を食いしばりながら胸を張った。あらゆる戯曲の筋書き、あらゆるロマンス小説、ありとあらゆる感覚中枢が、彼の周りを雪片のようにくるくる舞っていた。嵐のなかにかかげたたいまつのように、自分が燃え上がるのを感じた。
ポールがディナーを取りに下りていくと、オーケストラの音楽がエレヴェーター・シャフトまで漂っていた。通路の人混みのなかに足を踏み入れたポールは眩暈がして、壁を背に置いてある椅子のひとつに腰をおろした。灯り、おしゃべり、香水、途方に暮れるような雑多な色の寄せ集め――、一瞬、とうてい自分には耐えられそうにないように思ったのだ。だが、その瞬間が過ぎると、これが自分にふさわしい人々なのだ、と言い聞かせた。廊下をゆっくりと歩いていく。書き物室、喫煙室、応接室を抜け、まるで自分だけのために建てられて、人々を住まわせている魔法の宮殿の部屋を探求しているように思った。
ダイニング・ルームに入って、窓際の席に腰をおろした。花、白いリネン、さまざまな色のワイングラス、女たちのきらびやかな装い、コルクを抜く小さな、ぽん、という音、「美しき青きドナウ」を演奏するオーケストラの、波うつ繰りかえし、あらゆるものがポールの夢を、目がくらむほどの輝きで満たした。ばら色のシャンパンが注がれたとき――グラスのなかによく冷えた、高価な、泡立つ液体が――、ポールはこの世にいったい正直な人間などいるのだろうか、といぶかった。これこそ世界が求めているものではないのか。彼は考えたのだった。これをめぐってひとびとが争っているものではないのか。過去に現実だと思っていたものが疑わしかった。自分はあの、コーデリア街という街、疲れ切った顔の勤め人たちが、早朝の電車に乗っていく地域に住んでいたことがあるのだろうか。彼らは機械のリヴェットにすぎないじゃないか。吐き気を催させるような男たち、梳かしてやった子供の髪の毛がコートについているような、おまけに服には料理のにおいが染みついている。コーデリア街だなんて――ああ、あんなところは別の時代、別の世界の話だ。自分はいつだってこんなふうにして暮らしてきたのではなかったか。記憶にないほどの昔から、物思いに沈んできらきらひかる布を見やり、シャンペングラスの柄を、親指と中指にはさんで回しながら、いくつもの夜を過ごしてきたのでは。自分にはずっとそうだったようにしか思えなかった。
当惑するようなこともなければ、孤独を感じることもなかった。このなかのだれかと交わりたい、知り合いになりたい、ということは、まったく感じなかった。ただ、観察し、想像し、野外劇を見守りたいという気持ちがあるだけだった。舞台装置こそが彼の望んだすべてだったのだ。のちの夜、メトロポリタン劇場の特別席に収まったときもそうだった。もはや神経質に疑うこともなければ、周りの者と自分が同じではないことを誇示したいという、脅迫的な思いもない。いま感じていたのは、彼を取り巻く人や物こそが、彼を説明してくれている、という感じだった。だれも高貴なものについて疑問を抱かない。ポールはただ、そのまま着ていさえすれば良かった。自分の盛装をちらりと見おろしさえすれば、自分のことを辱めることなどだれにもできはしないのだ、という確信を、ふたたび得ることができるのだった。
その番、美しい居間を離れて、ベッドにはいるのが、名残惜しくてならなかったために、長いこと坐ったまま、張り出し窓の外の荒れ狂う嵐を見ていた。寝入ったときは、寝室の灯はつけっぱなしにしておいた。確かに幾分かは従来の憶病さゆえでもあったが、それよりはむしろ、夜中にふと目をさましたとき、黄色い壁紙やワシントンやカルヴィンの肖像画がベッドの頭上にあるのではないかという疑いが、ほんの一瞬でも生じる隙もないように、という理由からだったのだ。
(この項つづく)
とはいえ、むすっとした顔で仕事に縛りつけられていたのは、たった一日前のことでしかなかった。昨日の午後、いつもどおりにポールは、デニー・アンド・カーソン商会の預金を持って銀行に行ったのだ――だが、そのときは精算のために、通帳を預けておくように指示された。小切手が全部で二千ドル以上、加えて紙幣で千ドル近くあったが、彼はそれを通帳から抜き取ると、自分のポケットに移したのである。銀行は新しい入金伝票を発行してくれた。気分はちっとも動揺していなかったので、そのまま事務所に戻って自分の仕事を片づけてから、いかにももっともらしい理由と一緒に、土曜日の明日、まる一日休ませてほしい、と申し出た。通帳が月曜か火曜まで戻ってこないことはよくわかっていたし、父親は来週一杯、出張が決まっていた。ポケットに札を滑りこませたときから、ニューヨーク行きの汽車に乗るまで、ほんの一瞬の躊躇もすることがなかった。危険水域に足を踏み入れたのは、なにもこれが初めてのことではなかったのだ。
なにもかもがあきれるほど簡単だった。ことは完了し、自分はここにいる。もはや目を覚ます人間もいないし、階段のてっぺんに立つ姿もない。窓の外、渦を巻きながら舞う粉雪を眺めていたが、そのうちに眠りこんでしまった。
目を覚ましたときは午後の三時になっていた。ハッとして飛び起きる。貴重な日々のうちの半日が、すでに過ぎてしまった! 身支度するのに一時間をかけ、そのたびごとに洗面所の鏡に入念に映して、仕上がり具合を確かめた。何もかもが完璧だ。自分がこれまでずっとこうありたいと思っていた少年になったのである。
階段を下りたポールは、馬車を頼んで五番街からセントラルパークへと向かった。雪はいくぶん弱まっている。馬車や商人の荷馬車がせわしげに、冬のたそがれのなかを音もなく行き交っていた。マフラーをまいた男の子たちが、シャベルで家の前の階段の雪かきをしている。五番街という舞台は、白一色の通りを背景に、華やかな色合いが浮かびあがっていた。街角のあちこちには屋台が立っていて、そこにはガラスケースに入った花園のように花が咲き乱れ、雪片も舞い降りる端から溶けていくのだった。スミレ、バラ、カーネーション、スズラン……雪のなかで不自然に咲く花は、それだけにいっそう美しく、心引かれる。セントラルパークもまた、冬景色として描かれた作品の舞台のように、すばらしいものだった。
ホテルに戻ったときは、残っていた薄明かりもすっかり消え、通りの様子は一変していた。雪は激しさを増し、高層ホテル群から洩れる灯りは、大西洋から吹きつける荒々しい風をものともせず、嵐のなか、燦然と輝いていた。馬車は長く続く黒い影となって南へ向かう通りを進んでいき、そこかしこで東西方向へ向かう流れと交叉した。ホテルの入り口は多くの馬車が列を成し、ポールが乗った馬車もしばらく待たなければならなかった。おそろいの服を着たボーイたちが、歩道まで覆う天幕の下を走って出たり入ったり、入り口から歩道へ続く赤いヴェルヴェットの絨毯を、昇ったり下りたりしている。頭上も、周囲も、内部でも、そこかしこで車がガラガラ鳴る音やどよめきが聞こえ、ポールと同じように、楽しみを求めて急いだり、行き交ったりする大勢の人々がいた。彼の周囲のあらゆるものが、富が万能であることを紛れもなく肯定していたのだった。
望みが叶った、という思いが発作のように襲ってきて、少年は歯を食いしばりながら胸を張った。あらゆる戯曲の筋書き、あらゆるロマンス小説、ありとあらゆる感覚中枢が、彼の周りを雪片のようにくるくる舞っていた。嵐のなかにかかげたたいまつのように、自分が燃え上がるのを感じた。
ポールがディナーを取りに下りていくと、オーケストラの音楽がエレヴェーター・シャフトまで漂っていた。通路の人混みのなかに足を踏み入れたポールは眩暈がして、壁を背に置いてある椅子のひとつに腰をおろした。灯り、おしゃべり、香水、途方に暮れるような雑多な色の寄せ集め――、一瞬、とうてい自分には耐えられそうにないように思ったのだ。だが、その瞬間が過ぎると、これが自分にふさわしい人々なのだ、と言い聞かせた。廊下をゆっくりと歩いていく。書き物室、喫煙室、応接室を抜け、まるで自分だけのために建てられて、人々を住まわせている魔法の宮殿の部屋を探求しているように思った。
ダイニング・ルームに入って、窓際の席に腰をおろした。花、白いリネン、さまざまな色のワイングラス、女たちのきらびやかな装い、コルクを抜く小さな、ぽん、という音、「美しき青きドナウ」を演奏するオーケストラの、波うつ繰りかえし、あらゆるものがポールの夢を、目がくらむほどの輝きで満たした。ばら色のシャンパンが注がれたとき――グラスのなかによく冷えた、高価な、泡立つ液体が――、ポールはこの世にいったい正直な人間などいるのだろうか、といぶかった。これこそ世界が求めているものではないのか。彼は考えたのだった。これをめぐってひとびとが争っているものではないのか。過去に現実だと思っていたものが疑わしかった。自分はあの、コーデリア街という街、疲れ切った顔の勤め人たちが、早朝の電車に乗っていく地域に住んでいたことがあるのだろうか。彼らは機械のリヴェットにすぎないじゃないか。吐き気を催させるような男たち、梳かしてやった子供の髪の毛がコートについているような、おまけに服には料理のにおいが染みついている。コーデリア街だなんて――ああ、あんなところは別の時代、別の世界の話だ。自分はいつだってこんなふうにして暮らしてきたのではなかったか。記憶にないほどの昔から、物思いに沈んできらきらひかる布を見やり、シャンペングラスの柄を、親指と中指にはさんで回しながら、いくつもの夜を過ごしてきたのでは。自分にはずっとそうだったようにしか思えなかった。
当惑するようなこともなければ、孤独を感じることもなかった。このなかのだれかと交わりたい、知り合いになりたい、ということは、まったく感じなかった。ただ、観察し、想像し、野外劇を見守りたいという気持ちがあるだけだった。舞台装置こそが彼の望んだすべてだったのだ。のちの夜、メトロポリタン劇場の特別席に収まったときもそうだった。もはや神経質に疑うこともなければ、周りの者と自分が同じではないことを誇示したいという、脅迫的な思いもない。いま感じていたのは、彼を取り巻く人や物こそが、彼を説明してくれている、という感じだった。だれも高貴なものについて疑問を抱かない。ポールはただ、そのまま着ていさえすれば良かった。自分の盛装をちらりと見おろしさえすれば、自分のことを辱めることなどだれにもできはしないのだ、という確信を、ふたたび得ることができるのだった。
その番、美しい居間を離れて、ベッドにはいるのが、名残惜しくてならなかったために、長いこと坐ったまま、張り出し窓の外の荒れ狂う嵐を見ていた。寝入ったときは、寝室の灯はつけっぱなしにしておいた。確かに幾分かは従来の憶病さゆえでもあったが、それよりはむしろ、夜中にふと目をさましたとき、黄色い壁紙やワシントンやカルヴィンの肖像画がベッドの頭上にあるのではないかという疑いが、ほんの一瞬でも生じる隙もないように、という理由からだったのだ。
(この項つづく)