4.芸術家と生活者は相反する存在なのだろうか
昨日は主人公の葉蔵が、芸術家でありながら、生活者のふりをして小さい頃からそのなかに混じって生きてきたこと、生活者を怖れながらも、その一方で、特別な自分の存在をだれかに認めてもらいたがっていたところまでを見てきた。
やがて主人公は東京に出て画塾で堀木正雄という青年に出会う。
この堀木は、葉蔵の「対義語」にあたる人物、主人公と逆に、「芸術家を気取る生活者」なのである。
彼の手引きで主人公は「酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想」を知るようになるが、一方でこの無頼を気取る自称芸術家には意外な一面がある。
主人公が芸術家でありながら生活者のふりをしようとしてきたのとは逆に、堀木は、根はここまで実直な生活者なのである。
登場人物には、堀木を始めとして、ヒラメ、画商など、さまざまな生活者の男たちが登場する。彼らはみな生活者としての罪、欲望からの罪を犯していく。
一方で、ひたすらに葉蔵を許す女たちもつぎつぎに登場する。
彼女たちは生活者の真似をしながらどうしてもひきさかれて、その結果、どうしても行き違ってしまう葉蔵に対して、それぞれに許しを与えられるのだが、だれもその本質、芸術家としての葉蔵を認めるものではない。そのために、葉蔵は女たちがどれだけ許しを与えたとしても、許しを実感できないのである。
実は葉蔵がほんとうに許しを求めていたのは(芸術家として認められたかったのは)父親からだったのである。
生活者ではない葉蔵の生活を、ほんの一時期を除いてずっと成り立たせていたのは、父親だった。
最後の方で、精神病院に強制入院の措置をとられた葉蔵は、父親の死をそこで聞くことになる。
こうして主人公は許される相手を失ってしまうのだ。
いくつかの女性遍歴を経て、葉蔵は自身の「同義語」であるヨシ子と出会う。
彼女は生活者ではない。
「芸術家」である主人公がどうして「生活者」になれないかというと、欲望がわからないからだ。言葉を換えれば、欲望を持たない、イノセントな存在であるから、ともいえる。
その意味で、葉蔵のイノセンスを分かち持つヨシ子は、葉蔵の「同義語」と言えるのである。
そうして、このイノセントを共有するヨシ子と生活をする時期、例外的に葉蔵は「家長」として、ヨシ子を養っている。一時的に葉蔵が「生活者」となる。
昨日最初にあげた堀木との同義語・対義語遊びは、この嵐の前の静けさのなかで行われたものだ。
生活者の犯す欲望からの罪ならば、法律が定める罰が対義語となる。
だが、芸術家の犯す罪というのは、生活者ではないこと、言い換えれば、生活者から超越し、高い位置から世間というものを俯瞰しているための罪である。
そこで与えられる罰とは、超越している自分を承認されないという罰である。
その意味で、罪と罰は同義となるのである。
直後、堀木の手引きによって、ヨシ子が画商に犯されている場面を目撃することになる。
これは決定的な場面である。
これまで女性からひたすら許されてきていた葉蔵は、ここでヨシ子を許さなければならないのだ。許す側に回ったら、おそらく葉蔵は、自分がほんとうに求めていた許しが得られたはずなのだ。
主人公は、堀木との会話のなかで、「(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです」という。
これまで受け容れられることを願い、そのために欺き、許されることを願っていたのが「世間」だった。主人公が畏れもし、一員であることを希いながら、同時に自尊心からその一員ではない、と考え、「罪を犯した」と意識していたのは、すべて「世間」と漠然と意識していたけれど、実は、世間なんてものは、個人じゃないか、というところまでたどりついている。
自分が求めていたのは、個人、それも、父ただひとりなんじゃないか、と気がつくところまで、あと一歩なのだ。そうして、その「父からの許し」というのは、ほかならぬ自分の意識が生みだした幻想でしかない、というところまで、あと一歩、というか、実際には手が届いていた。
許しは誰かから得られるものではなく、自分が許すことによって、その対立そのものを無効とすることでしか得られない、許し、というのは、つまり「生活者」対「芸術家」の対立などというものは、自分の意識が生みだした幻想でしかないのだ、ということに、主人公は手がかかっていた。
ところが主人公はそれができない、というか、太宰はおそらく漠然と気がつきながら(気がついてなかったら、こんな場面を設定することはできないだろう)、それに答えを出すことができなかった。
主人公を成長させて、「父」の同義語にしなければならなかったのに、作者はそういう展開の筋道を作っていくことができなかった。
もしここで主人公が、ヨシ子と一緒に辛がるのではなく、つまり自分のイノセンスが陵辱されたと感じるのではなく、自分の愛する他者が陵辱されたのだと感じることができ、憤ることができ、そうして許しを与えることができたら、そういう筋道を太宰の側が用意できたら、『人間失格』という作品が生まれることはなかっただろうけれど、別の作品が生まれただろう、そうしておそらく作者は死ななくて良かっただろう。
だが、太宰は日本の近代文学が作り出した「生活者」対「芸術家」という図式を壊すことができなかったのである。
実はこの「生活者」対「芸術家」という図式は、二葉亭四迷の『浮雲』以降、近代の日本文学が繰りかえし扱ってきたテーマである。
その背景にある思想を簡単にまとめると、以下のようなものである。
明治維新によって封建制が滅びて、新しい知識や学問、技術を持っている人はどんどん出世できた。
ところが明治も半ばになると、そうした人の数も増えて、競争相手が多くなり、積極的に仕事をしようと思うと、師匠や同業者にぶつかっていく。自分の身についた知識や技術を生かそうと思っても、働くことで人を蹴落とし、あるいは人に蹴落とされ、屈辱的で反人間的な生活を送らざるを得なくなってくる。
良心を持ち、汚れのない仕事をしようとする人は、親の仕事も引き継がず、勤め人にもならず、家庭など壊してしまって飛び出したほうがいい。
大正から昭和初期にかけての作家の多くはこういう人々であったし、読者も、「たとえ貧乏をし、破滅しようとも、良心を持った人間の、自己を偽らない生活、または清らかな生活の典型がここにある」(伊藤整『改訂 文学入門』)として、「芸術家」が描いた「芸術家」の作品を読んでいたのである。
中島敦の『山月記』のなかにも、この構図はそのまま描かれている。
だが、「芸術家」対「生活者」というのは、二項対立のものなのだろうか。
たとえばこの作品はそうだろう。
シングル・マザーとして赤ん坊を育てながら、宝石のデザインと修理でかつかつの生活を送っている主人公は、一方で画家としてコラージュを作っていく。このコラージュの底には、幼い頃に生き別れた母のおもかげがある。
果たして彼女は生活者なのか、それとも芸術家なのか。
この問いそのものに、まったく意味などない、ということを、この作品が証明しているかのようだ。
もう一度『人間失格』に戻ろう。
主人公の葉蔵が常につきまとわれた罪の意識はどこから来るのか。
それは、芸術家である、という意識なのである。
ところが葉蔵が芸術家であることを示す根拠となるものは、中学生のときに竹一に見せた、いまは存在しない幻の自画像一枚でしかない。
自分が芸術家である、という意識(自信といってもいいかもしれない)を支えるのは、その罪の意識だったのである。
実際に作品を生みだしたことのない葉蔵の「芸術家」としてのアイデンティティを支えたのは、「生活者ではない」という罪の意識だったのだ。
芸術家としてのアイデンティティ。
芸術家であるかどうかの分岐点がどこかにあるのだろうか。
明日はこのことを見てみよう。
(この項つづく)
※先日ここで紹介した Oceansize の "Catalyst"、大幅に加筆して「音楽堂」にアップしました。興味のあるかた、覗いてみてください。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html
Oceansize の日本一詳しいサイト、かもしれない。もしかしたら、ずいぶんヘンなこと、書いてるかもしれないんですが。
ああ、アバラ骨が痛い……。
昨日は主人公の葉蔵が、芸術家でありながら、生活者のふりをして小さい頃からそのなかに混じって生きてきたこと、生活者を怖れながらも、その一方で、特別な自分の存在をだれかに認めてもらいたがっていたところまでを見てきた。
やがて主人公は東京に出て画塾で堀木正雄という青年に出会う。
この堀木は、葉蔵の「対義語」にあたる人物、主人公と逆に、「芸術家を気取る生活者」なのである。
彼の手引きで主人公は「酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想」を知るようになるが、一方でこの無頼を気取る自称芸術家には意外な一面がある。
「おい、おい、座蒲団の糸を切らないでくれよ」
自分は話をしながら、自分の敷いている座蒲団の綴糸というのか、くくり紐というのか、あの総のような四隅の糸の一つを無意識に指先でもてあそび、ぐいと引っぱったりなどしていたのでした。堀木は、堀木の家の品物なら、座蒲団の糸一本でも惜しいらしく、恥じる色も無く、それこそ、眼に角を立てて、自分をとがめるのでした。考えてみると、堀木は、これまで自分との附合いに於いて何一つ失ってはいなかったのです。
堀木の老母が、おしるこを二つお盆に載せて持って来ました。
「あ、これは」
と堀木は、しんからの孝行息子のように、老母に向って恐縮し、言葉づかいも不自然なくらい丁寧に、
「すみません、おしるこですか。豪気だなあ。こんな心配は、要らなかったんですよ。用事で、すぐ外出しなけれゃいけないんですから。いいえ、でも、せっかくの御自慢のおしるこを、もったいない。いただきます。お前も一つ、どうだい。おふくろが、わざわざ作ってくれたんだ。ああ、こいつあ、うめえや。豪気だなあ」
と、まんざら芝居でも無いみたいに、ひどく喜び、おいしそうに食べるのです。
主人公が芸術家でありながら生活者のふりをしようとしてきたのとは逆に、堀木は、根はここまで実直な生活者なのである。
登場人物には、堀木を始めとして、ヒラメ、画商など、さまざまな生活者の男たちが登場する。彼らはみな生活者としての罪、欲望からの罪を犯していく。
一方で、ひたすらに葉蔵を許す女たちもつぎつぎに登場する。
彼女たちは生活者の真似をしながらどうしてもひきさかれて、その結果、どうしても行き違ってしまう葉蔵に対して、それぞれに許しを与えられるのだが、だれもその本質、芸術家としての葉蔵を認めるものではない。そのために、葉蔵は女たちがどれだけ許しを与えたとしても、許しを実感できないのである。
実は葉蔵がほんとうに許しを求めていたのは(芸術家として認められたかったのは)父親からだったのである。
生活者ではない葉蔵の生活を、ほんの一時期を除いてずっと成り立たせていたのは、父親だった。
最後の方で、精神病院に強制入院の措置をとられた葉蔵は、父親の死をそこで聞くことになる。
父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜けたようになりました。父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。まるで、張合いが抜けました。苦悩する能力をさえ失いました。
こうして主人公は許される相手を失ってしまうのだ。
いくつかの女性遍歴を経て、葉蔵は自身の「同義語」であるヨシ子と出会う。
彼女は生活者ではない。
「芸術家」である主人公がどうして「生活者」になれないかというと、欲望がわからないからだ。言葉を換えれば、欲望を持たない、イノセントな存在であるから、ともいえる。
その意味で、葉蔵のイノセンスを分かち持つヨシ子は、葉蔵の「同義語」と言えるのである。
そうして、このイノセントを共有するヨシ子と生活をする時期、例外的に葉蔵は「家長」として、ヨシ子を養っている。一時的に葉蔵が「生活者」となる。
昨日最初にあげた堀木との同義語・対義語遊びは、この嵐の前の静けさのなかで行われたものだ。
生活者の犯す欲望からの罪ならば、法律が定める罰が対義語となる。
だが、芸術家の犯す罪というのは、生活者ではないこと、言い換えれば、生活者から超越し、高い位置から世間というものを俯瞰しているための罪である。
そこで与えられる罰とは、超越している自分を承認されないという罰である。
その意味で、罪と罰は同義となるのである。
直後、堀木の手引きによって、ヨシ子が画商に犯されている場面を目撃することになる。
これは決定的な場面である。
これまで女性からひたすら許されてきていた葉蔵は、ここでヨシ子を許さなければならないのだ。許す側に回ったら、おそらく葉蔵は、自分がほんとうに求めていた許しが得られたはずなのだ。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
主人公は、堀木との会話のなかで、「(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです」という。
これまで受け容れられることを願い、そのために欺き、許されることを願っていたのが「世間」だった。主人公が畏れもし、一員であることを希いながら、同時に自尊心からその一員ではない、と考え、「罪を犯した」と意識していたのは、すべて「世間」と漠然と意識していたけれど、実は、世間なんてものは、個人じゃないか、というところまでたどりついている。
自分が求めていたのは、個人、それも、父ただひとりなんじゃないか、と気がつくところまで、あと一歩なのだ。そうして、その「父からの許し」というのは、ほかならぬ自分の意識が生みだした幻想でしかない、というところまで、あと一歩、というか、実際には手が届いていた。
許しは誰かから得られるものではなく、自分が許すことによって、その対立そのものを無効とすることでしか得られない、許し、というのは、つまり「生活者」対「芸術家」の対立などというものは、自分の意識が生みだした幻想でしかないのだ、ということに、主人公は手がかかっていた。
ところが主人公はそれができない、というか、太宰はおそらく漠然と気がつきながら(気がついてなかったら、こんな場面を設定することはできないだろう)、それに答えを出すことができなかった。
主人公を成長させて、「父」の同義語にしなければならなかったのに、作者はそういう展開の筋道を作っていくことができなかった。
もしここで主人公が、ヨシ子と一緒に辛がるのではなく、つまり自分のイノセンスが陵辱されたと感じるのではなく、自分の愛する他者が陵辱されたのだと感じることができ、憤ることができ、そうして許しを与えることができたら、そういう筋道を太宰の側が用意できたら、『人間失格』という作品が生まれることはなかっただろうけれど、別の作品が生まれただろう、そうしておそらく作者は死ななくて良かっただろう。
だが、太宰は日本の近代文学が作り出した「生活者」対「芸術家」という図式を壊すことができなかったのである。
実はこの「生活者」対「芸術家」という図式は、二葉亭四迷の『浮雲』以降、近代の日本文学が繰りかえし扱ってきたテーマである。
その背景にある思想を簡単にまとめると、以下のようなものである。
明治維新によって封建制が滅びて、新しい知識や学問、技術を持っている人はどんどん出世できた。
ところが明治も半ばになると、そうした人の数も増えて、競争相手が多くなり、積極的に仕事をしようと思うと、師匠や同業者にぶつかっていく。自分の身についた知識や技術を生かそうと思っても、働くことで人を蹴落とし、あるいは人に蹴落とされ、屈辱的で反人間的な生活を送らざるを得なくなってくる。
良心を持ち、汚れのない仕事をしようとする人は、親の仕事も引き継がず、勤め人にもならず、家庭など壊してしまって飛び出したほうがいい。
大正から昭和初期にかけての作家の多くはこういう人々であったし、読者も、「たとえ貧乏をし、破滅しようとも、良心を持った人間の、自己を偽らない生活、または清らかな生活の典型がここにある」(伊藤整『改訂 文学入門』)として、「芸術家」が描いた「芸術家」の作品を読んでいたのである。
中島敦の『山月記』のなかにも、この構図はそのまま描かれている。
だが、「芸術家」対「生活者」というのは、二項対立のものなのだろうか。
たとえばこの作品はそうだろう。
真夜中を過ぎてから、窓辺に座って絵を描いた。もう一度眠ろうとしたけれど、寝返りを打つばかりで眠れなかったのだ。それで、赤ん坊が寝ている多くの夜にやるように、わたしは仕事机に向かった。まず、シャープな線を描いた。ある顔の輪郭の曲線だ。オイル・パステルでそれに色を塗った。それをさらに何度も描き、指の爪で余分な絵の具を削った。わたしはそれを何層も重ねて描き、色を塗り、爪で削り、ふたたび描いた。そのうち、絵のどこか下のほうから顔が浮かび上がってくるように見えてきた。バスケットに入れておいた雑誌の切り抜きを顔の一部――鼻、横向きの唇――の形に慎重に切り取り、それを糊で貼りつけ、オイル・ペイントをこすりつけた。メアリー・モリス『シングル・マザー』斉藤英治訳 筑摩書房
シングル・マザーとして赤ん坊を育てながら、宝石のデザインと修理でかつかつの生活を送っている主人公は、一方で画家としてコラージュを作っていく。このコラージュの底には、幼い頃に生き別れた母のおもかげがある。
果たして彼女は生活者なのか、それとも芸術家なのか。
この問いそのものに、まったく意味などない、ということを、この作品が証明しているかのようだ。
もう一度『人間失格』に戻ろう。
主人公の葉蔵が常につきまとわれた罪の意識はどこから来るのか。
それは、芸術家である、という意識なのである。
ところが葉蔵が芸術家であることを示す根拠となるものは、中学生のときに竹一に見せた、いまは存在しない幻の自画像一枚でしかない。
自分が芸術家である、という意識(自信といってもいいかもしれない)を支えるのは、その罪の意識だったのである。
実際に作品を生みだしたことのない葉蔵の「芸術家」としてのアイデンティティを支えたのは、「生活者ではない」という罪の意識だったのだ。
芸術家としてのアイデンティティ。
芸術家であるかどうかの分岐点がどこかにあるのだろうか。
明日はこのことを見てみよう。
(この項つづく)
※先日ここで紹介した Oceansize の "Catalyst"、大幅に加筆して「音楽堂」にアップしました。興味のあるかた、覗いてみてください。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html
Oceansize の日本一詳しいサイト、かもしれない。もしかしたら、ずいぶんヘンなこと、書いてるかもしれないんですが。
ああ、アバラ骨が痛い……。