陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~卒業の風景 その4

2007-03-01 22:55:54 | weblog
高校の卒業式は、国立の二次試験の直前だった。
私立を終えて、合格通知もいくつか届いていたけれど、最後の試験を前に、家ではずっとゴタゴタが続いていた。

どうしても家から通えるところにしなさい。
家から通えない大学なんて受けてはダメ。
毎日朝から晩までその繰りかえしで、家の中の雰囲気は殺伐としたものだった。

母は卒業式には出るつもりはない、といい、わたしはただ、家から逃れるためだけに学校へ行った。
この学校にもう来ることもないことや、六年過ごしたことの感慨など、頭をよぎることもなく、自分のこれからを思って、ただただ不安な気持ちしかなかった。

式典のことなど、なにも覚えていない。ただ、式のあとに教室に戻って、卒業証書を丸めて筒にいれようとしたがうまくいかず、何度かやり直していたところ、「それだとできないわよ」と、教室の後ろに着物姿で立っていたどこかのお母さんがやってくれたことだけ覚えている。わたしは一番後ろの席だったのだ。

最後のホームルームも終わって、軽い荷物と筒を持ってわたしは教室を出た。校門に向かって歩いていたところで、後ろから呼び止められた。
振り返ると、そこに国語の先生がいた。

中学二年から高校二年まで、国語を習った先生。
この先生から太宰を知り、安吾の全集を借り、たとえ「小説の神様」でも、気に入らなければ批判してかまわない、いいと思わなくてかまわない、ということを教えてもらい、つまりは本の読み方の根本を教えてもらい、読み、考えるということを教えてもらった先生だった。
それでも、わたしはこの先、この先生とも会うことがなくなるとも考えなかった。
これから家に帰って、またひともんちゃくあることしか胸の内にはなかったのだ。

先生は「本、出せよ。焦ることはないからな。楽しみにしてる」と言ってくれた。
わたしはそんな日が自分に来るとはとても思えなくて、それが自分へのはなむけの言葉とも理解できなかったのだ。わたしはいったい何と答えたのだろう。

その先生と別れて校門を出て、わたしはその学校に足を踏み入れることはないまま今日まで来ている。


いつも、終わりのとき、それが終わりとは気がつかなかった。
たとえ終業式や卒業式というイベントがあっても、そのときにはすでに気持ちは先へ行ってしまい、「いま」は自分の身体が残っているだけ、そうしてその「終わり」という区切りをきちんと見て、記憶に留めることもしなかった。
それからずいぶん時間がたって、ああ、あのときがそうだったのだ、とやっと理解したのだった。

けれども、「いま」というのはもともとそういうものなのかもしれない。

これからどうなるのだろう。
自分はどうしたらよいのだろう。
日は続いていく。だから、わたしたちは未来にいったん意識を置いて、そこから「いま」をふりかえって、いまやるべきことを決めていく。

そうなると必然的に、自分の身体が置かれている「いま」をはっきりと認識することもなく、車窓から通り過ぎていく風景を眺めるように、行き先だけを気持ちの中に置いたまま、やりすごしてしまうことになる。

だからこそ、卒業という刻み目が必要なのだろう。
そのときどれだけ激しい感情を経験していても、それは日付や出来事と結びつかなければ記憶として取り出すことができない。
そのとき自分がそこにいて、どのように感じたという形でしか思いだすことができないのだ。

そうして、卒業式というのはわたしがそれまでそこで過ごしたという日付と出来事なのだろう。

わたしはいくつもの卒業式を経験した。
卒業したところで自分が変わったわけでもなく、相も変わらず同じ自分を抱えていくしかなかった。

それでも時間をおいて振り返ってみれば、そこに確かにわたしがいた。
そのとき自分が何を考えていたか。
何を思っていたか。
振り返るわたしは、刻まれた日付の、そのとき、その場の風景の中にいる。

(この項終わり・後日手を入れてサイトにアップします)