いまではたいてい始発電車が走り出すずいぶん前に起き出しているので、寝床の中で始発電車の音を聞くこともなくなった。だが、始発の音を目覚まし代わりにしているころもあった。
初夏ならばすでに薄明るくはなっているけれど、それ以外の季節ならまだ暗い、冬であれば空はまだ深夜と変わらない五時台に、始発電車は走り始める。
ほかに音といえば新聞配達のバイクが聞こえるぐらい、それも配達がひとわたり終わってしまうと、あたりはふたたび静まりかえる。
そこへシャーシャーという高い金属をこすりあわせるような音が遠くから聞こえてきたかと思うと、あっという間に轟音となり、それが一瞬で通り過ぎ、また金属音だけがしばらく残っていく。最初から音が消えるまで、ほんの数秒の出来事なのだが、あたりが静かなぶんよけいに、始発電車はいつも、ひどく長いあいだ聞こえているように思うのだ。
暗いなか、煌々と灯りをつけて走る始発電車を、ベランダから見ることもある。満員の通勤電車は、人影で外に灯りも洩れ出さないほどなのだが、ひとけのない始発の車両はひときわあかるく、内部が浮きあがったようにはっきり見える。
黄色い電灯に照らされた車内は、朝の空気というより、まだ昨夜の人の疲れた息や酒の残り香が残っているのではないか、というような気さえする。
始発が通っていったあと、しばらくしてから、今度は逆方向に電車が走り始める。それにはもう少し人が乗っているから、どこか早く始まる職場があるのかもしれない。人の乗る車両は、新しい日の始まりにふさわしく、もはや夜更けの名残はどこにも感じられない。
それが過ぎると次第に電車と電車の間隔はつまってきて、七時台になると、音はひっきりなしになる。
以前住んでいたところも同じように線路が近かった。
夏になれば窓をあけると電車の音がやかましく、電話のときなどは「聞こえない、ちょっと待って」と中断しなければならないほどだった。
ある年、地震があった。阪神淡路大震災である。
それまで震度3から4程度の地震なら慣れっこで、怖いとさえ思ったことがなかったのに、そこまで大きな地震を味わってみると、ちょっと強めの余震があっただけで、全身が硬直してしまうような怖さを感じた。
TVでは直線距離にしてどれほども離れていないところで拡がる大惨事を映し出し、頭上で響くヘリコプターの音が、この世のものとも思われないような神戸の光景が、いまいる場所の地続きであることを思いださせた。
そのころ、線路を保線工事の人たちが点検しながら歩いていくのを見た。数人が少しずつ、少しずつ、あちらこちらを丁寧に確かめていくのが見えた。それからどのくらいたってからだろう、耳慣れた電車の音が聞こえてきたのだった。
そのときに、初めて気がついた。
自分がその日の朝からずっと覚えていた違和感のひとつは、それまで、自分の生活のなかに織りこまれていた電車の音が聞こえてこないことだったのだ。
電車が走る。
電車の音が聞こえる。
当たり前の尊さのようなものを、わたしはそのときに感じた。
おそらく午後だったのだろうが、それがその日の始発電車ではなかったか。
いつか、始発に乗ってみたい。
始発に乗って、自分の部屋の窓を見上げてみたい。
わたしが見ている場所は、電車のなかからどんなふうに見えるのだろう。
そのときは、部屋の電灯は忘れないでつけておかなくては。
(※いやもう「ポールの場合」大変です。なんでこんなに訳しにくいんだろう、って、もういやになっちゃいます。だけど、やーっと終わりが見えてきた。たぶん明日にはアップできると思います)
初夏ならばすでに薄明るくはなっているけれど、それ以外の季節ならまだ暗い、冬であれば空はまだ深夜と変わらない五時台に、始発電車は走り始める。
ほかに音といえば新聞配達のバイクが聞こえるぐらい、それも配達がひとわたり終わってしまうと、あたりはふたたび静まりかえる。
そこへシャーシャーという高い金属をこすりあわせるような音が遠くから聞こえてきたかと思うと、あっという間に轟音となり、それが一瞬で通り過ぎ、また金属音だけがしばらく残っていく。最初から音が消えるまで、ほんの数秒の出来事なのだが、あたりが静かなぶんよけいに、始発電車はいつも、ひどく長いあいだ聞こえているように思うのだ。
暗いなか、煌々と灯りをつけて走る始発電車を、ベランダから見ることもある。満員の通勤電車は、人影で外に灯りも洩れ出さないほどなのだが、ひとけのない始発の車両はひときわあかるく、内部が浮きあがったようにはっきり見える。
黄色い電灯に照らされた車内は、朝の空気というより、まだ昨夜の人の疲れた息や酒の残り香が残っているのではないか、というような気さえする。
始発が通っていったあと、しばらくしてから、今度は逆方向に電車が走り始める。それにはもう少し人が乗っているから、どこか早く始まる職場があるのかもしれない。人の乗る車両は、新しい日の始まりにふさわしく、もはや夜更けの名残はどこにも感じられない。
それが過ぎると次第に電車と電車の間隔はつまってきて、七時台になると、音はひっきりなしになる。
以前住んでいたところも同じように線路が近かった。
夏になれば窓をあけると電車の音がやかましく、電話のときなどは「聞こえない、ちょっと待って」と中断しなければならないほどだった。
ある年、地震があった。阪神淡路大震災である。
それまで震度3から4程度の地震なら慣れっこで、怖いとさえ思ったことがなかったのに、そこまで大きな地震を味わってみると、ちょっと強めの余震があっただけで、全身が硬直してしまうような怖さを感じた。
TVでは直線距離にしてどれほども離れていないところで拡がる大惨事を映し出し、頭上で響くヘリコプターの音が、この世のものとも思われないような神戸の光景が、いまいる場所の地続きであることを思いださせた。
そのころ、線路を保線工事の人たちが点検しながら歩いていくのを見た。数人が少しずつ、少しずつ、あちらこちらを丁寧に確かめていくのが見えた。それからどのくらいたってからだろう、耳慣れた電車の音が聞こえてきたのだった。
そのときに、初めて気がついた。
自分がその日の朝からずっと覚えていた違和感のひとつは、それまで、自分の生活のなかに織りこまれていた電車の音が聞こえてこないことだったのだ。
電車が走る。
電車の音が聞こえる。
当たり前の尊さのようなものを、わたしはそのときに感じた。
おそらく午後だったのだろうが、それがその日の始発電車ではなかったか。
いつか、始発に乗ってみたい。
始発に乗って、自分の部屋の窓を見上げてみたい。
わたしが見ている場所は、電車のなかからどんなふうに見えるのだろう。
そのときは、部屋の電灯は忘れないでつけておかなくては。
(※いやもう「ポールの場合」大変です。なんでこんなに訳しにくいんだろう、って、もういやになっちゃいます。だけど、やーっと終わりが見えてきた。たぶん明日にはアップできると思います)