陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ウィラ・キャザー 「ポールの場合」最終回

2007-03-15 22:36:54 | 翻訳
「ポールの場合」その10.

 翌朝ポールは、ズキズキと痛む頭と脚のために目を覚ました。服も脱がずにベッドに倒れこみ、靴もはいたまま寝入ってしまったのだった。脚も腕も手首から先までもが鉛のように重く、舌も喉もからからで灼けつくようだ。肉体が疲れ果て、神経の糸が切れたようなときにだけ、発作的に頭が冴え返るようなことが起こるのだが、いまもそのような状態になっていた。静かに横になって目を閉じ、さまざまなことどもが潮流となって自分を洗うにまかせた。

 父親がニューヨークにいる。「どこかしけたところに泊まってるんだ」とひとりごとを言った。玄関前の階段で過ごした何年もの夏の記憶が、黒い水となって、押しつぶそうとでもするかのように、のしかかってきた。もう百ドルも残ってない。いまになってあらためて金がすべてであり、金こそが自分が望むものを憎むものことごとくから隔ててくれる壁でああったことを理解した。終わりが近づきつつある。ニューヨークに着いた最初の輝かしい日から、そのことは考えていたし、始末をつける方法さえ用意していた。いまはサイドテーブルの上にある。昨夜、夕食を終えて朦朧とした状態で戻ってきて、取りだしておいたのだ。だが、金属の表面がチカチカと反射して目に痛かったし、その形状も好きになれなかった。

 痛みをこらえながら立ち上がり、ときおり襲ってくる吐き気をこらえながら、ごそごそと動いた。あのおなじみの憂鬱が何千倍にもなったかのようだ。世界中がコーデリア街になってしまっていた。だが、どういうわけかもはや何も怖いものがなく、心はひどく穏やかだった。おそらく、あの暗い片隅をのぞきこみ、ついにその正体を突きとめたからなのだろう。そこで見つけたものはまったくひどいものだったけれど、にもかかわらず、これまでずっと怖れていたほどにはおぞましくはなかったのである。いまではなにもかもがはっきりしていた。自分はうまくやってのけたのだ、生きるに足る人生を生きたのだ、と感じながら、半時間ほども拳銃をじっと見つめていた。やがて、これはちがう、と独り言を言いながら、階段を下り、馬車に乗って船着き場へ向かった。

 ニューアークに着いたポールは、汽車を降りてからまた馬車に乗って、ペンシルヴァニア線沿いに走って街を出るように言った。道路には雪が深く積もり、広々とした野原にも、深い雪だまりができている。そこかしこに枯れ草や干からびた雑草の茎が、奇妙なほど黒々と、雪の上に突きだしていた。すいぶんひなびた場所に入りこんでから、ポールは馬車を帰し、線路沿いに苦労しながら歩いていった。さまざまなことが、てんでんばらばらに頭に浮かんでは消えていく。その日の朝に見たなにもかもが、実際の絵のように、脳裏につなぎとめておこうとするかのように。二台の馬車それぞれの御者も、コートに挿している赤いカーネーションを買った歯の抜けたおばあさんも、切符を買った駅員も、フェリーに一緒に乗り合わせた客のひとりひとりも、細かな表情までも、しっかりと記憶にあった。目前に迫る死活的な問題に立ち向かうことのできない彼の心は、一心不乱になってこうした人々のおもかげを、みごとな手際で選り分け、まとめていたのだった。ポールにとってそうした人びとは、世界の醜悪な側に属するもの、自分の頭を苦しめ、舌を灼く苦々しさの一部だった。かがんでひとにぎりの雪をすくうと、歩きながら口に入れたが、それさえも熱をもっているようだ。やがて小高くなっている場所にたどりつく。そこでは足下の先六メートルほどのところを線路が走っていたので、そこに立ち止まって腰をおろすことにした。

 コートに挿していたカーネーションが、冷気でだらりと垂れているのに気がついた。花の輝かくばかりの赤さは失せていた。最初の夜に見たガラスケースに入った花もみな、おそらくはずっと前に同じ運命をたどったにちがいない。あれも花にとっては、ほんの呼吸ひとつぶんの華やかな期間だったのだ、たとえガラスの外の冬をものともせず、けんめいに咲いてみせたとしても。世間にあふれる退屈なお説教に反逆を企てると、結局はゲームに負けてしまうのだ。ポールはカーネーションを一本そっと抜き取ると、雪のなかに小さな穴を掘って、そこに埋めてやった。体が弱ってきたのか、寒さもあまり感じなくなっていたために、しばらくまどろんだのだった。

 近づいてくる列車のとどろきに目が覚めた。驚いて立ち上がると、決心だけを思いだし、自分が遅れたのではないか、と怖れた。立ったまま、歯をがちがちいわせ、恐ろしさに唇を引きつらせて笑ったような顔になって、間近に迫る汽車を立ったまま見つめた。誰か見ている者がいるとでもいうように、一、二度、神経質そうに左右に目をやった。さあ、いまだ、と飛んだ。落ちながら、馬鹿なことをしている、自分は早まったのだ、という考えが、無慈悲なほど鮮明に理解された。自分はどれほど多くのことをしのこしてしまったんだろう。これまでに見たこともないほど鮮やかな情景が、脳裏をよぎっていく。アドリア海の青い海原も、アルジェリア砂漠の黄色い砂も。

 何かが胸に当たったような気がした。彼の体は吹っ飛んでいく。弛緩した手足のまま、どんどん遠くへ、はかりしれないほどの速さで遠くのほうへ。そこで映像を作り出すメカニズムが壊れたので、平安を妨げるいくつもの情景が、急に暗闇に転じる。ポールは万物の構造の根源へと落ちていった。


The End


(※後日手を入れたのちにサイトにアップします。お楽しみに)