陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

趣味の話

2007-03-16 22:33:43 | weblog
以前、知り合いのお医者さんが弾くピアノを聴いたことがある。

自分が習いに行っていて、定期的に発表会があるような人だったら、あるいはほかの楽器でも、バンドを組んでいるような人だったらまた別なのだろうけれど、そうでなければなかなかアマチュアの演奏というのは聴く機会はない。

わたしも駅前でお兄ちゃんがバリランバリランと単純なコードをかき鳴らしているのが耳に入ってくるぐらいで、聴くのはいつもプロの演奏ばかりだった。

だから聴いてしばらくは、どうしても違和感があった。
音楽を聴くときはたいていひとつのフレーズを聴きながら、つぎのフレーズを予測し、待ちかまえてしまうものだ。それが予想している音とぴたりぴたりと重なれば、心地よく聴くことができる。予想を上回る音が聞こえてくると、びっくりしたり、おおっ、と興奮してしまったりする。
ところがわたしの内側にある「予想」というのは、たいていそれまでにCDなどで聴いて蓄積された音の記憶がもとになっているわけだから、どうしても期待するのはプロの演奏家の音なのだ。だからしばらくは、その人の演奏を聴いていても、予測する音と耳に入ってくる音がずれている感じ、思ったところに来ない感じは続いた。

ところが曲も半分を過ぎると、その演奏にも慣れてくる。
その人は高校までレッスンに通っていて、コンクールで優勝したら、音楽の道に進もうとまで考えていた人だから、もちろん基礎的な訓練をかなり積んでいた、ということもあるだろう。音の隅々までゆるがせにしない端正な演奏であることがわかった。たとえそれがわたしがふだん聴いているような音ではないにしても、わたしはそれを聴いて十分楽しめたし、なによりもいいものを聴かせてもらった、という気持ちになったのだった。

つまり、その人の演奏というのは、たとえ多くの時間と労力を割くことができないにしても、音楽をいつくしみ、長い年月をかけてピアノを弾くことを大切に考えてきた、そんなものだったのだ。

以前、「卒業の風景」でもちょっと書いた校長先生からこんな話を聞いたことがある。

あるときその先生の友だちが、ピアノを始めた、という。だから先生は、ベートーヴェンのソナタをなにか弾いてくれ、と頼んだ。すると、その友だちは、とんでもない、自分のピアノは趣味だから、気に入った曲の一部をちょっと弾くとか、映画音楽なんかの簡単なアレンジが弾けるとか、そんなものだ、と答えた。
それに対して、校長先生は、そんなピアノだったらやめてしまえ、と言った。

それがいったいどういう話の脈絡だったのか、それに続きがあったのか、まったく記憶はないのだけれど、わたしはそのときほんとうにそうだなあ、と思ったのだ。以来、わたしが「趣味」ということを考えるとき、根底にあるのは、この「そんなピアノだったらやめてしまえ」になってしまった。

これは正しいか、正しくないか、という問題ではないのだ。
その人が「趣味」というものをどういうふうにとらえ、自分の生活に織りこんでいくか、ということだから、この校長先生とはちがう考えの人もたくさんいると思う。

趣味だから、そんなに堅苦しく考えないで、もっと楽しめればいい、というふうに。
あるいは、そんな余分なものに、そこまでの労力と時間など、割く必要はない、という考え方だってあるだろう。

それでも、わたしたちはどうしたって好きなものときらいなものはあるし、好きなものに対しては、もっと近づきたい、深く知りたい、自分のものにしたい、と思うようになる。趣味というのがそういう気持ちから生まれてくるものであるとすると、何かを始めて、もっとうまくなりたい、と願うのは、当たり前のことなのだ。それを、あらかじめ自分から制限を加えていこうとする気持ちの働きというのは、わたしにはよくわからない。

もちろん誰もがそれを職業にできるところまで行けるわけではない。
昔からNHKの講座には「趣味の園芸」というのがあって、TV番組そのものは見たことがないけれど、いつもおもしろいタイトルだな、と思ってきたのだ。だって、「趣味の~」とわざわざ断ってあるのは、その番組ぐらいだもの。
それでも、たとえ趣味であろうがなんだろうが、花は丹精して育ててやれば、きれいな花を咲かせることができる。趣味だから、といって、水やりをさぼれば、枯れてしまう。
花を育てることにおいて、「趣味」であるか「プロ」であるか、というのは、何ら変わるものではないだろう(コストパフォーマンスなどの面では大きな違いがあるだろうけれど)。

最終的に、どこまでいけるか、が問題なのではない。
その人が、自分がすきなことに何を見出すことができて、どんなふうに関わっていけるか、年月をともにしていくことができるか、なのだ。

時間をかけて、それとの関係をゆっくりと深めていくこと。
そのためには献身だって、地味で退屈な作業だって必要だし、さぼりたくなる心に鞭打つことも必要だ。
「趣味」を「趣味」として成り立たせるためには、「趣味だから」という言い訳は通用しないのではないだろうか。